逃走(1)
花岡美佳は、ベッドで横になりながらスマートフォンを見つめた。
あれから一週間、郁夫と全く連絡がつかない。本来であれば週に二度は訪問をしてくる予定なのだか、一切の断りもなく郁夫は現れなかった。学費のスポンサーである母が家庭教師の派遣会社に問い合わせをすると、慇懃に謝罪を述べられた上で、こちらでも音信不通、との返答を貰ったらしい。
母は郁夫のことを気に入っており、非常に心配をしている。ただしそれは、有名大学に在籍かつ父親が大学教授、というネームバリューがあるからだろう。実際には、郁夫は得体の知れない物を盗み食いしてしまうほど頭が悪い。それを知っていたならば、母は無断欠勤に対して怒りを露わにしていたに違いない。
彼の調子の良さは意外と役立っていたのかも、と今更ながら思う。もし優等生を演じ切れていなかったら、既に他の家庭教師が美佳のもとに訪れていたはずだ。とはいえ、このままの状態が続けば、さすがに解任は免れない。
どうしたものか、と思いながら、あてもなく視線を泳がせる。すると、机の上に置いてあるビニール袋が目に入った。
「タマネギか……」
それは、郁夫から貰ったタマネギだった。
行方不明の原因には、おそらくタマネギの臭いが関係している。病院に強制入院させられたか傷害罪で警察に捕まったか、そう考えるのが妥当だ。あるいは。
一週間前、郁夫は去り際に自身の父親に相談すると言っていた。元々の要因と目される古代タマネギは、郁夫の父、長沢繁幸教授が所持していたものだ。ひょっとすれば、あの強烈な催涙ガスは、繁幸教授の研究対象なのかもしれない。そうなると、大学の研究室に隔離されているという選択肢もあり得る。
いずれにしても、郁夫と本気でコンタクトを取ろうとするなら、繁幸教授を頼りにするしか方法がない。電話もメールも不通という状況の中、他に判明している個人情報は、父親が国立大学の教授をしているというものだけだ。
「うん。憩いの時間を確保するためだ」
美佳は自身にそう言い聞かせ、明日の昼間にでも繁幸教授のもとを訪ねようと考えた。
郁夫は、夢を見ていた。
――助けてください! 隊長!
――隊長! 隊長、どこにいるのですか!
――め、目が、目が痛いです!
――私はここだ! みんな落ち着くんだ!
薄闇の中、複数の男達の声がする。唯一の光源であるヘルメットのライトが男達を照らすと、その頬がキラリと輝いた。どうやら、男達は涙を流しているようだ。
――隊長! どうにかしてください!
――涙の出過ぎで脱水症状になってしまいます!
――この臭いを止められないのですか!
――騒ぐな! いま考えている!
そこは密室らしく、男達は辺りに充満したガスに苛まされていた。
見覚えのある光景だ。以前にも夢で見たことがある。確かこの後、一人の男がタマネギを封印しようとするのだ。
案の定、物語が進行すると、隊長と呼ばれる男が叫んだ。
――私がどうにかアレを封印する!
他の男達が期待と疑念がない交ぜになった視線を向ける。それに応えるように、隊長が再び叫ぶ。
――私が、このタマネギを胃袋に封印する!
隊長は口を大きく開けた。その開かれた口は次第にこちらに迫ってきて、やがて、視界に映る全てのものが闇に包まれた。シャクリ、シャクリという音だけが聞こえる。
「う、うまい! このタマネギ、うまいぞ!」
郁夫は自分自身の寝言で目を覚まし、勢い良くベッドから身体を起こした。口の中にタマネギの味が残っている感じがする。古代タマネギを食べたのは随分前のことなので、そんなはずはないのだが、あの独特な辛味と風味が蘇った気がしたのだ。
夢のせいだ。いまの夢はなんなのだろう?
疑問に思うものの、答えを知ってはいけないという予感がし、何かを否定するように首を横に振る。そして現実感を取り戻すため、辺りを見渡した。室内には、折り畳み式のテーブルが付いたベッドと、パーテーションに囲まれたトイレがあるだけで、他には何もない。現実もろくなもんじゃないな、と心の内で呟く。
身体からガスが出始めたあの日、郁夫は父の勤める大学の一室に閉じ込められたのだった。それからというもの、定期的に検査を受けるだけという日々を過ごしている。薄手の白い服を着せられ、まるで実験動物のような扱いだ。いや、もしかすると、本当に実験動物なのかもしれない。事実、ベッドのすぐ横の壁には監視用の窓があり、常に研究員らしき人達がこちらを見ている。
なんらかの解決策があるものと思って言われるがままにしているが、状況は何も好転せず、頭が尖っていくばかりだ。あとどれだけの時間、こうしていれば良いのだろう。
もはや日付の感覚さえ失われていた。腕時計やスマートフォンを取り上げられた上、屋外を望む窓もないので、いまが昼なのか夜なのかさえ分からないほどだ。
郁夫は、溜め息をついて再びベッドに横になった。その時、天井の小さなスピーカーから馴染みのある声が聞こえてきた。
「起きていたのか。体調はどうだ?」
父の声だ。見ると、監視用の窓の向こうの席で繁幸がメガネを光らせていた。
ベッドの上に座り直し、不貞腐れ気味に答える。
「どうもこうも、食って寝るだけの生活じゃ何も変わりはしないよ」
「順調なようだな」
「なあ、人の話を聞いてるか?」
返事はない。聞いていないようだ。
「オヤジ! 俺の身体はいつになったら元に戻るんだよ!」
語気を強めると、繁幸は顔をしかめさせた。
「戻る? 私がいつお前の身体を元に戻すと言ったんだ」
「は?」
「私は研究をしているだけだ」
冗談を言っているようには思えない。その真剣な表情を見て背筋に寒気が走る。
「ひょっとして、俺は、元に戻れないとか?」
「その可能性が高いな」
「じゃあ、どうなるんだよ……そうだ、オヤジはタマネギ男がどうとか言っていたんだからさ、少しは何か知ってるんだろ? 前例があるとか」
「ああ、タマネギ男を見るのはお前で二人目だ。一年前、中央アジア、タジキスタンの古代遺跡で、邦人四名が死亡した、という事件があったことを覚えているか?」
「いや、覚えているも何も初耳だよ」
「ニュースぐらい見ろ」
「あ、ごめん。で、その事件が、なんの関係があるんだ?」
「死亡したのは遺跡が発見された際に結成された調査隊のメンバーだった。地下で作業中に崩落事故があり、密室内に閉じ込められ、その後、地中から発生した天然ガスによって中毒死したと言われている。表向きはな」
「表向きって?」
「実際には、天然ガスではなく……」
郁夫はそこで被せるように言った。
「タマネギ?」
「察しが良いな。その通りだ。調査隊メンバーは古代タマネギから発生したタマネギガスにより脱水症状で死亡した。ちなみにその場で死亡したのは四名のうち三名で、調査隊隊長は日本に帰国している。その隊長が古代タマネギを持ち帰ったのだ」
夢で見た映像が脳裏に蘇る。あの惨劇は、実際に起こった出来事だったのだ。
郁夫は更に確証を得るため、繁幸に対してこう尋ねた。
「その隊長は、どういう方法で危険なタマネギを持ち帰ったんだよ」
「良い質問だな。隊長はタマネギを胃袋に収めて、日本に持ち込んだ」
やはり、と思う。
「つまり食べたってことだよな」
「そう。そして、おそらくもう予想は出来ていると思うが、その隊長こそが、一人目の強催涙性硫黄化合物生成人間、通称、タマネギ男になったのだ! タマネギ男に!」
繁幸は興奮気味だった。
「オ、オヤジ、落ち着こうぜ。そんなことより俺が知りたいのはさ、その一人目のタマネギ男がどうなったかってことなんだよ」
そう言うと、繁幸は目を細めて口を開いた。
「死んだよ。少なくとも、人ではない何かになった」
「何か、って?」
「タマネギだ」
「タマネ、ギ?」
「ああ、タマネギだ」
「タマネギって、いわゆる、その、タマネギだよな?」
「ああ、タマネギだ」
「人がタマネギになったのかよ」
「ああ、タマネギになったと何度も言っているだろ!」
自らの頭の形がタマネギ状に変化しているので、人がタマネギになったとしても全く不思議ではない。ただ、それを認めてしまうと、恐ろしい仮説が生じる。
「オヤジ、もしかして、なんだけどさ、いや、答えを知りたいわけではないんだけど、ほら、あれ、そう、うちの冷蔵庫にあったタマネギって……」
冷静に考えてみると、父の話には辻褄の合わない箇所があった。日本に持ち込まれたという古代タマネギは、隊長が胃袋に収めてしまったものだ。ならば、自分が食べたあのタマネギはどこから現れたのだ。
郁夫の問い掛けに対し、繁幸は、重々しく答えた。
「お前が食べたタマネギは、かつて、人間だったものだ」
雷に打たれたかのような衝撃を受ける。得体の知れない生き物が腹の中で蠢いているような錯覚に陥り、吐き気を催す。郁夫は、繰り返しえずいた。
「郁夫、今更吐き出したところで、普通の人間に戻れはしないぞ」
「違えよ! 人を食べたという事実を知って気持ち悪くなったんだよ!」
「安心しろ。アレは既に人ではなかった」
口元を押さえたまま、繁幸のことを睨み付ける。
「要するに、俺も人じゃなくなるってことだな」
「そうなるな。順調に症状は進行している」
その落ち着き払った様子を見て、怒りが込み上げる。
「『順調』ってなんだよ。よくそんなに冷静でいられるな。少しは熱くなれよ!」
「研究において冷静な判断力は必須だ」
郁夫は両手の拳を握り締め、マットレスを叩いた。
「オヤジはいつだってそうだ。俺が誤って毒キノコを食べた時も、泥団子を食べて腹を壊した時も、そうやって観察をしているだけだった。それに、五年前に母さんが死んだ時だって、オヤジは研究室にこもりっきりでさ! 家族が大事じゃないのかよ!」
「いまのお前は家族である前に私の研究材料だ」
「俺はオヤジの一人息子だろ? どうしてそんなことが言えるんだ」
「それは、私が、私だからだ。研究をするからこそ私は私でいられる」
手元にあった枕を監視用の窓に投げつける。しかし繁幸は、一切動じることもなく、話し続けた。
「いずれにせよ、感情的になったところでタマネギの呪いが解けるわけではない。なにより、お前がすぐに変な物を食べるのが悪い」
「ま、まあ、そうなんだけどさ……」
それ以上何も言えず、深くうな垂れる。
反論がないと悟ったのか、繁幸は、立ち上がった。
「明日も検査を行なう予定だ。体調を整えるため、充分な睡眠はとっておけ。以上だ」
プツリッと、マイクの電源の落ちる音が聞こえ、以降、静寂が漂った。