誕生(3)
「でさ、長沢先生、どうして、うちまでついてきちゃったの?」
「え、あ、いや、助けて欲しかったんだ」
「ねえ、ベッドに座んないでくれる? 臭いが移っちゃいそう」
「じゃ、じゃあ、どこに座れば良いんだよ」
「床に正座」
「マジっすか?」
不服そうにしてはみたものの刃向かうわけにはいかず、郁夫は、素直に正座をした。それから身を縮こまらせ、椅子に座る美佳のことを見上げる。
美佳は、腕を組んだまま何も言わない。
「あ、あの、美佳、さん? それを被ったまま無言でいられると怖いんだけど」
その顔にはガスマスクが装着されていた。
「仕方ないでしょ。このマスクがないと先生に近付けないんだから」
「で、ですよね。いやぁ、それにしても、都合良く美佳ちゃんの家にガスマスクがあって良かったよ。やっぱり時代はガスマスクだね」
幸いにも美佳の父親がミリタリーオタクらしく、かつて米軍で使用されていたガスマスクが彼女の家にあったのだ。まさに、ご都合が良い。
「ガスマスクの時代なのかどうかは知らないけどさ、本当にこれがあって良かったよ。なかったら、わたしも先生の被害者になってたんだからね」
「いや、俺の被害者っていうのは、大袈裟じゃないかなぁ」
「そんなことないよ。大勢の人が倒れてたし、救急車だって出動してたじゃない」
美佳の言う通りだった。その後の報道によれば、死亡者こそいなかったものの、数十名もの人が病院に搬送されたらしい。
「ま、そうなんだけどさ。意図的に毒を撒いたわけじゃないし、事故だよ」
「毒を発していると分かった上で走り回ったんだから、過失はあると思いますけど」
「ま、そうなんだけどさ……」
口ごもりながら答えると、美佳は溜め息をつき、仕切り直すように尋ねてきた。
「で、先生のその臭いはなんなの?」
「それが、俺も全く分からないんだよな」
「ますます、どうして、うちに来ちゃったのかが分からないよ。心当たりはないの? 例えばさあ、変な物を食べちゃったとか」
その言い方は投げやりだ。
「子供じゃあるまいし、変な物なんて食うわけ……」
そこまで言って郁夫は大事なことを思い出し、「あっ!」と声をあげた。美佳がピクリと肩を引き上げる。
「な、なに? 突然大きな声を出さないでよ」
「タマネギを食べたよ」
「はい?」
不思議そうに首を傾げる美佳に対し、郁夫は、これまでの経緯を説明した。奇妙なタマネギを食べたこと。それは父親が持ち帰った古代遺物だったこと。偽装工作をしようとしたこと。話をしている最中、美佳は腕を組んだまま何度も頷いていた。
「……と、いうわけだ!」
「なんで誇らしげなの」
「しかし、タマネギを食べただけで身体から毒が出るか?」
「でも、たぶんそれが原因だよ。言われてみれば先生の臭いって、生タマネギを食べた後の口の臭いに似てたもん」
「え、そうなの? てか、『口の臭い』ってくだりは余計じゃないかな」
「それにね、このガスマスクのフィルターは硫黄化合物を吸収するものなの。タマネギの成分は硫黄化合物だから有効だったんだよ」
「おお。都合が良い、その二」
「違うよ。何種類もあるフィルターから、効きそうなものをわたしが選んだの」
「さ、さすがは美佳先生……」
美佳は肩をすくめた。マスク越しでも呆れている様子が窺える。
「ねえ、長沢先生のお父さんって毒の研究をしてるんだよねえ? そんな人が持ち帰った物を食べるなんて、危ないでしょ?」
「腹が減ってたんだよ」
「先生って本当に頭が悪かったんですね」
「いやぁ、それほどでも」
恥ずかしそうに自身の頭を撫でる。
「褒めてないよ」
その言葉を無視し、引き続き頭を撫でる。その時、ある異変に気が付いた。
「ヤバイ!」
声をあげると、再び美佳がピクリと肩を引き上げた。
「な、なに? だから急に大声を出さないでよ」
「頭が尖ってる」
「そんなの、昨日から髪の毛が立ってたじゃない」
「そうじゃなくて骨格自体が尖ってるんだよ」
頭を突き出し、更に言葉を続ける。
「ほら、触ってみて」
「嫌だよ。気持ち悪い」
美佳は拒絶の意思を全力で表すかのように、大袈裟に身体を仰け反らせてみせた。その態度を見て空気を察し、改めて身を縮こまらせる。
「どうしよう……」
呟くと、美佳が落ち着いた声色で述べた。
「それさ、お父さんに相談したほうが良いと思うよ」
「やっぱり、そうだよな」
すごすごと立ち上がる。そして扉のほうを向いた時にふと思い出し、郁夫は振り返って手にしたビニール袋を美佳に差し出した。
「このタマネギをやるよ。もう必要なくなったから」
「え、凄く嬉しくないけど、ありがとうございます……」
美佳の家を発った時には既に日が暮れていた。日中とは違って道を行く人は少ない。美佳との追い駆けっこ、別名森のクマさんごっこから類推するに、毒の射程距離は半径五メートルほど、加えて、その有効持続時間は短い。注意さえ怠らなければ街を歩くことは可能だ。郁夫は、隠れるようにしながら徒歩で自宅へと向かった。
そうして時計の針が午後九時を過ぎた頃、ようやくマンションに辿り着いた。昨晩と同じく部屋に灯りが点いている。繁幸がいるようだ。
郁夫は扉の前で逡巡した。すぐにでも父に相談をしたいところだが、毒を発している限り顔を合わせるわけにはいかない。そこで、まずはスマートフォンを取り出し、電話を掛けることにした。父に電話を掛けるのは何年振りだろう。発信ボタンを押すと、受話口からベルの音がした。その音は数回繰り返され、やがて繁幸の声が聞こえてきた。
『どうした?』
「た、ただいま……」
『あ? お前、どこにいるんだ?』
「玄関の扉の前にいるんだ」
そう言うと、しばし間があってから、探るような調子で問い掛けられた。
『どうして、部屋に、入らないんだ?』
「え、と、扉が重たいんだよね」
『扉の重さが極端に変化することは科学的に有り得ない』
「そうじゃなくて、精神的にさ、重たく感じるんだ」
我ながら要領を得ない返答だとは思うが、本題を切り出しにくく、それ以上何も言うことが出来ない。すると、気を遣われたのだろうか、繁幸から話を振られた。
『何か、あったんだな?』
その言葉を聞き、覚悟を決めてうつむきながら告げる。
「俺、オヤジに謝らないといけないんだ」
『興味深い話だな』
「実はタマネギを食べちゃったんだ。いや、タマネギといっても、いわゆる一般的なタマネギではなくて、その……」
『古代のタマネギを食べたのか』
「ま、そうとも言うね……」
繁幸から動じている気配は感じられない。それどころか、意外な言葉が返ってくる。
『体調は大丈夫なのか?』
「め、珍しいね。心配してくれるんだ?」
『質問に質問を返すな』
「あ、ごめん。それが、おかしなことになってるんだ。俺の身体から、催涙ガスのような成分が発生しているみたいなんだ」
『やはりな。お前の頭がタマネギ状になっていたので、そうなると思っていた』
「え? 分かってたのかよ……」
全身から力が抜けた。偽装工作も街中での逃走も、全て徒労だったのだ。分かっていたのならば教えてくれれば良かったのに、と思う。
『とりあえず、お前はタマネギの呪いによってタマネギ男になったんだな?』
「タマネギ男? なんだよ、それ」
『タマネギ男だ』
「それは分かったよ。だから、タマネギ男がなんなのかを聞いてるんだよ」
『タマネギ男はタマネギ男だ』
これ以上問い質しても仕様がないと考え、話を進めることにする。
「ま、タマネギ男でもなんでも良いや。とにかくさ、俺の身体から出る臭いのせいで、周りの人達が涙を流して倒れちゃうんだよ。下手をすれば、死人が出る……」
『分かった。すぐそっちに行く』
「は? 話を聞いてなかったのかよ。俺に近付いたらヤバイんだって!」
『待っていろ』
更に引き留めようとしたが、容赦なく通話は切られてしまった。
父は本当に出迎えに来るつもりだろうか。これまでの状況から察するに、たとえ冷静沈着な父であっても、奇声を発しながら泣き崩れてしまう可能性が高い。願わくは、そんな姿は見たくない。再び逃げるか。いや、自分が目を瞑れば済むだろうか。
愚にもつかない考えを巡らせていると、扉が開いてしまった。気休め程度に数歩ばかし離れ、現れた影に向かって言う。
「オヤジ、来ないでくれ……って、なに、その格好……」
繁幸は防護服を着込んでいた。頭の天辺から爪先まで、艶のある白い生地に包まれている。そして、ゴーグル越しの目は、しかと郁夫のことを見据えていた。
「さあ、郁夫、これから研究室に向かうぞ」