昇天(1)
マンションに辿り着いてからの日々はとても穏やかだった。二人で演じた逃走劇はたった数日前のことなのに、既に遠い昔のことのように感じる。いや、もっと言えば嘘だったのではないかとさえ思える。二十歳の学生と十七歳の女子高生が国際的犯罪者と戦ったのだ。いまとなっては事実だったと考えるほうが難しい。
だけど、と郁夫は思う。
更に一回り小さくなった自身の身体を見る度、耐え難い現実を突きつけられる。この身体から剥がれ落ちた肉片によって、父は、干乾びてしまったのだ。
「全部、俺のせいだ」
「そんなことないよ」
時折、感情の昂ぶりによって、ネガティブな言葉が零れ落ちる。
そんな時は決まって、美佳が声を掛けてきた。
マイケル中田から提供されたマンションは思いのほか広かった。郁夫と美佳それぞれに換気設備の整った個室が与えられているほどだ。お陰で、廃墟ビルに防護服を置いてきてしまったものの、ガスマスクを必要とせずに生活することが出来る。ただしもちろん、隣に寄り添うともなれば話は別だ。
「俺がタマネギを食べてしまったから、こんなことに」
「う、うん、それは否定できない」
「そこは否定しようよ!」
「だったら、もう少し慰めやすいことを言ってよ!」
そんな悪態をついてくることもあるが、彼女はわざわざガスマスクを被ってまで隣に座っていてくれる。普通に考えれば自室にこもっていたほうが楽なはずだ。
美佳は優しい。ただし。
「美佳ちゃんは有能だから、俺みたいな人間の気持ちは、なかなか理解できないんじゃないかな。あ、嫌味や皮肉で言ってるんじゃないぜ。本当にそう思ってるんだ」
美佳は何も言い返してこない。その様子を認めてから話を続ける。
「俺は、オヤジのことを憎んでた。いや、憎んでいると思い込んでいた。でも実は認めて欲しかっただけなんだ。構って欲しかったんだ」
「繁幸教授は先生のことを認めていたと思うよ。あの時、生命を懸けていた研究の続きを先生に託したんだもん」
「遅えんだよ。そんなタイミングでカミングアウトされても困るだろ。死に際の引き継ぎじゃなくてさ、一緒に研究を頑張ろうって言って欲しかったよ」
「それは、先生のほうから言えば良いじゃない。うん。繁幸教授は生きてるよ!」
「美佳ちゃん、慰めるの下手だろ。あまり無責任なこと言うなよ。あのオヤジが実験と称して、えっと、その、実行に移したんだ。やり遂げたに決まってんだろ」
そう言うと、美佳は申し訳なさそうにうつむいた。
慌てて弁解する。
「あ、でも、ありがとう。美佳ちゃんには、いつも救われてるよ」
しかし、彼女は小さく首を横に振っただけだった。
それからしばらくして、美佳は唐突に尋ねてきた。
「ねえ、先生。これからどうするの?」
「悪りい。家庭教師は続けられそうにない」
「そんなことは気にしてないよ。そうじゃなくて……」
「マイケルさん次第だな。俺は言われるがまま実験に協力するだけだ。この身体じゃ、まともな生活は送れない。てか、外に出られない。少なくとも軟禁状態になるのは間違いないよ……ごめん。美佳ちゃんとは会えなくなっちゃうかも」
こういうことを聞きたいのだろうと予測して答えてみたが、言い切った直後に自意識過剰な気がしてきたため、郁夫は、美佳の反応を待たずにすぐ言葉を継いだ。
「オヤジから研究を託されたけど、何をしたら良いか分からない。俺、馬鹿だから」
「先生は馬鹿じゃないよ」
「そこは肯定しようよ。いつも馬鹿って言ってくれるじゃん!」
「なんなの、その面倒臭いメンタルは。正解が読めないよ! それからさ、研究について難しく考える必要ないんじゃない? 真実の追求が研究の本懐なのだとしたら、とりあえず、タマネギの導きを頼りにするのもありだと思うよ」
「タマネギの導きねぇ……」
呟いた時、あることに気が付いた。そういえば。
「タマネギ達はどこに行ったんだ?」
「ん? 覚醒済みのタマネギなら、まだ畑に植わってるでしょ。マイケルさん達と合流したら、まずはそれを撤去しないとね」
「そのことじゃない! 俺の中のタマネギ達の意識はどこに行ったんだ」
一連の騒動で考えている余裕がなかったため、いままで気付けなかった。ビルで神崎と対峙して以降、タマネギの想いを感じたことがない。夢に根岸が現れたこともない。
以前、根岸は言っていた。完全に融合すれば語らう必要もない、と。融合が完了したのだろうか。いや、違う。肉体および精神に変化が現れていないことを考慮すると、そうとは思えない。感覚的には、タマネギ達は頭の中から消えた、と思える。
単純に考えれば喜ばしいことだ。タマネギ達の怒りの感情に苛まされることがなくなったのだから。しかし、胸騒ぎがする。根岸は最後に何を語り掛けてきた。そうだ、『タマネギに不可能はない』だ。そんなことを言っていた輩が、直後に消滅するなんてことがあり得るだろうか。何かが動き始めている。嫌な予感がする。
タマネギ達はどこに行った。
気配を探るため、目を閉じて、意識を辺りに張り巡らせる。すると、外から声が聞こえたような気がした。郁夫は急いで窓を開け、ベランダに出た。
日はとうに暮れている。街灯の少ないこの地域は深夜になれば深い闇に包まれる。ところが、遠くに煌々と灯りをともす施設があった。あれは? そう思い、光を注視する。
すると、声がした。
『覚醒せしタマネギ達よ。さあ、復讐を始めよう!』
施設の周りは淀んでいた。もちろん肉眼で何かが見えるわけではないが、凄まじいほどの怨念が渦巻いているのを感じ取れた。
「先生、どうしたの?」
美佳に声を掛けられ、幾らか冷静になる。
「美佳ちゃん、呪いのタマネギ達が妙な施設に集合してる」
そう。あの怨念はタマネギ達の集合意識。
全ての呪いのタマネギは、灯りをともす施設に集められている。
「え! まさか、武器商人達が呪いのタマネギを掘り起こしてるとか?」
「掘り起こした程度の量じゃないよ。呪いのタマネギには普通のタマネギを覚醒させる力がある。誰の仕業か知らないけど、意図的に呪いが量産されているんだ」
郁夫は室内に引き戻り、玄関へと向かった。
「先生、なにするつもり……」
「止めてくる」
しゃがみ込み、サイズの合わなくなってしまった靴の紐をきつく締め直す。その背中に向かって、美佳が強い声で訴え掛けてくる。
「やめようよ! あと数日で助けが来るんだよ! 国だか警察だか諜報機関だか、誰かがなんとかしてくれるよ!」
郁夫は靴紐をいじりながら返事をした。
「たぶん、それじゃ間に合わない。タマネギはヤバイ」
「だからって」
「美佳ちゃん。俺はさ、人類の希望なんだ。俺がなんとかするべきなんだよ」
立ち上がって振り返る。美佳は心配そうな目をこちら向けていた。
そんな彼女に対し、郁夫は笑顔で告げた。
「美佳ちゃんはここで待っていてくれれば良いから」
「もちろんそのつもりだよ」
「大丈夫。タマネギを処分するだけで、戦地に赴くわけじゃない。じゃあな」
そして手を振って、玄関の扉を開けた。
郁夫のことを見送った美佳は、クルリと踵を返し、ベランダへと向かった。
ガスマスクを外して深呼吸をする。やはりフィルター越しの空気よりも直接吸い込んだ空気のほうが清々しい。出来るならば、もうマスクは被りたくない。
そんなことを思いながら視線を下げると、そこには、光へ向かって走る郁夫の姿があった。あの人は、どれだけ無鉄砲なのだろう。
美佳は溜め息をついた。それからガスマスクを強く握り締めた。
口角を引き上げて、呆れ気味に呟く。
「さてと、もう一仕事しますかね」