決戦(3)
屋上フロアを走っている最中に美佳は郁夫が何をしようとしているのか察したらしく、しっかりとしがみ付いてくれた。お陰で空中で体勢を崩すこともなく、十数メートル下の地面に両足で着地することが出来た。とはいえ、やはり勢いを完全に抑えることは出来ず、直後、身体は地面を転がってしまった。
すぐさま上体を起こし、美佳の姿を探す。
「美佳ちゃん! 大丈夫?」
「うん、平気。身体中が痛いですけど!」
泣きそうな声ではあるものの、意外と元気そうだ。ならば、速やかに車を奪って逃走を開始するのみ。ところが、両足が重たくて立ち上がれなかった。
取り急ぎ、美佳に指示を出す。
「美佳ちゃん、悪い、車を頼む!」
予定では一台の車を確保したら、それ以外の車のタイヤを鉄串でパンクさせることになっている。美佳は何も言わず頷いて、鉄串を抜いて走り出した。
作業が終わるまでに治ってくれよ両足。そんなことを思いながら靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲ってみる。足は、紫に変色し、所々皮膚が剥がれていた。さすがにダメージが深刻で、かなりの細胞が潰れてしまったようだ。郁夫は恐る恐る足に触れた。すると、ズルリという湿った感触と共に、膝から下の皮膚、というより肉が、外れた。まるで長靴のようなその肉が取れると、内側からは、やや小さいが、綺麗な足が姿を晒した。
「凄えな、俺の身体」
サイズが合わなくなってしまったであろう靴のみを拾い、美佳の手伝いをするために立ち上がる。その時、背後から馴染みのある声が聞こえてきた。
「どうやら、神崎君を倒したみたいだな」
振り返ると、そこには繁幸がいた。繁幸は、ガスマスクも被っていない状態で、半径五メートル以内に侵入していた。
「オヤジ……なにやってんだよ」
郁夫は、父親の取り乱す姿を見たくないと思い、後ずさりした。しかし繁幸は当然のように前進してくる。苦しくないのか。いや、そんなはずはない。その両目からは涙が流れている上に、身体はみるみる細くなっている。精神力でもって冷静さを保っているだけに過ぎない。
足を速めて更に距離を取る。しかし繁幸は意外な行動に出る。地面に落ちている郁夫の肉片を、拾い上げたのだ。
「オヤジ、やめろ! それもガスを出すんだ!」
「分かってるよ」
「じゃあ、なんで!」
怒鳴るように問い掛けると、繁幸は静かに語りだした。
「私の負けだ。近頃、身辺を調査している者の気配を感じていた。おそらく私は間もなく逮捕されるだろう。そうなれば研究の続行は不可能になる。タマネギの謎の解明に漕ぎつけていれば、その成果で亡命なり出来たかもしれないが、それも叶いそうにない」
「だからって、自殺でもする気かよ」
「自殺? 違うな。研究が出来なくなる時点で私は死んだも同然なんだよ。これは、最期の実験だ。タマネギで死ぬのはどれほど苦しいのかを私は知りたい」
「ダセえこと言うなよ! 謎の解明を諦めるなんて、らしくねえだろ! そうだ、根岸メモのことを知りたくないか? 色々と教えてやりたいことが……」
「それはお前の見つけた真実だ。お前が大切にしろ」
「オヤジが! 続きを調べろよ! オヤジは、研究をするオヤジは、俺にとってカッコ良い存在なんだ。母さんを見殺しにしたり、俺のことを実験動物扱いしたりしても、それでも、憧れだったんだよ……」
懸命に訴える。すると、繁幸は泣きながらも微笑んだ。
「昔、同じことを言われたことがあるよ。お前は、母さんに似ていたんだな」
その表情から覚悟が窺える。郁夫は肉片を奪い取ろうとした。しかしそれよりも早く繁幸は、片手で肉片を頭上に掲げ、握り潰してしまった。高濃度タマネギエキスが全身に降り注ぐ。繁幸の両目からは、見たこともないほどの大量の涙が滝のように流れ出た。
明らかに致死量。そう思い、郁夫は絶叫した。
「うあああああああああああ……」
事態に気付いたのか、美佳が駆け寄ってきて手を引く。
「先生、車の準備は終わったから急いで!」
「れ、冷水だ。冷水を浴びせれば、タマネギを、タマネギエキスを洗い流せる」
そうすれば助けられるかもしれない。だがビルから複数の足音が聞こえてきていた。神崎の部下達がそこまで迫っているのだろう。美佳が更に手を強く引く。
「先生!」
郁夫は我に返った。九死に一生を得たばかりだというのに、再び自らの生命を、何より美佳の生命を、危険に晒すわけにはいかない。
涙が零れた。憎んでいた。憎んでいたはずだった。それなのに。
「郁夫よ、お前が研究を続けるんだ。分かったな」
「父さん……」
郁夫は一つ呟き、繁幸のことを見つめたまま、美佳に手を引かれて車へと歩んだ。
郁夫の乗ったワゴンが遠ざかっていく。
その影がすっかり見えなくなると、繁幸は、仰向けに倒れた。
夕焼けの空を見つめながら言う。
「なあ、これで良かったか?」
当然ながら誰からも返事はない。続けて問い掛ける。
「君との約束は果たせたか?」
繁幸の脳裏には、五年前の、ある日の出来事が蘇っていた。
それは、妻の好恵が入院している病室でのことだった。
――あら、お見舞いに来てくれるなんて珍しいわね。
病に伏していようと、好恵は、いつだって気丈だった。
――君の主治医に呼び出されたんだよ。
――先生は何か言っていました?
――君の余命は、あと二ヶ月だそうだ。
繁幸は落ち着いた口調で告げた。
――隠さないのですね。あなたらしい。
――君は正直に言ってもらったほうが良いだろう?
――ええ。嬉しいわ。
それは強がりでも、ましてや嫌味でもない。研究所の上司と部下として知り合った二人にとって、事実を端的に伝えるという行為は何よりの優しさだった。
――そこでだな、私にどうして欲しい?
――突然どうしたのですか?
――残りの二ヶ月、私は君の望むままに行動しよう。毎日付き添っても良い。
そう繁幸が言うと、好恵は少し首を傾げ、それから微笑んだ。
――では、もうお見舞いに来ないでください。
どんな願いであろうと黙って受け入れるつもりでいたのだが、あまりにも思ってもいなかった返答だったため、繁幸は、少なからず動揺した。
――どういうことだ?
――わたしは研究をするあなたを好きになったのです。
――それで?
――だから、こんな所にいないで研究をしてください。研究をするからこそ繁幸さんは繁幸さんなのだと思うのです。わたしはそれが一番嬉しい。きっと郁夫も。
繁幸は唾を飲み込み、慎重に頷いた。
――分かった。この生命が尽きるまで研究に没頭しよう。約束するよ。
それは呪いにも似た果てしない誓い。繁幸は頑ななまでに約束を遂行し続けた。好恵の容態が悪化した時でさえ病院には顔を出さなかった。息を引き取った時にも顔を出さなかった。有用な資源を得るために非合法組織とも結託した。そして、息子の郁夫からどんなに罵られようと非情に徹した。
思えば郁夫が自分のことを、『父さん』ではなく、『オヤジ』と雑に呼ぶようになったのは、五年前からだ。郁夫なりのささやかな復讐だったのだろう。あいつも子供だな。そんなことを思い、鼻で笑う。
果たして、郁夫は嬉しいと思ったか? 好恵は嬉しいと思ったか? 本当のところは分かりはしない。ただ、かつて傍にいてくれた妻との繋がりが切れていないことを証明するには、研究を続けるしか方法がなかった。
いまもまだ辛うじて生きている。つまり、研究をしなければならない。タマネギの毒はどれほど苦しいのか。それを噛み締めるのだ。
繁幸は、涙を流し続けたまま声を出して笑い、残る力を振り絞って叫んだ。
「呪いのタマネギよ! たいしたことがないな! この涙は貴様の力によって流れているのではないぞ! そう、この涙は……」
雫によって夕陽の光が乱反射を起こし、視界が煌めく。その煌めきの向こう側に、幻だろうか、誰かがいるような気がした。
――あなた、お疲れ様でした。
飛沫をあげて涙が溢れる。繁幸はすがるように手を空に伸ばした。
「好恵……好恵、愛してるよ……」
瞬間、繁幸の視界は、黒く塗り潰された。