覚醒(2)
闇の向こう側、いや、闇の外側と表現したほうが良いだろうか、そこからいくつもの悲鳴が聞こえてくる。警官達の声だ。
郁夫は、その声を聞きながら、何もない空間に佇んでいた。根岸に呼ばれて眠りに落ちたのだから、ここは夢の中のはずだ。ところが、『外』では自身の身体が動き回っているようだ。目の前には暗闇だけが広がっている。それにもかかわらず、外での様子を認識することが出来る。まるで、脳内で複数の人格の意識が並走しているような感覚だ。
戸惑っていると、やがて、馴染みのある声がした。
――力が……
根岸の声だ。
――なんの用だよ。
ぶっきら棒にそう言うと、闇の中から根岸が姿を現した。
――力が、の続きを言わせろ。
――だからさ、もうなんて言いたいのか分かってるよ。
吐き捨てるように応じる。すると彼は、いつになく重々しい口調で語りだした。
――力が……目覚めたようだな。
慎重に尋ねる。
――なんの?
――もちろんタマネギの力だ。タマネギを覚醒させる力、自覚しているだろう?
脳内で複数の意識がざわめく。
外での騒動のことを根岸は言っているに違いない。しかし、タマネギの力に目覚めたなんてことを認めたくはない。そこで郁夫は、虚勢を張った。
――自覚なんて、心当たりないですねえ。
――無理をするな。私達は意識を共有している。考えが読めるぞ。
――じゃあ聞くなよ。
――力が、目覚めたようだな。
それを認めるまで同じことを言われそうだ。致し方ないと考えて首肯で応じ、それから不満を口にする。
――俺は一度も力が欲しいなんて言ってないだろ。
――望もうと望むまいと、お前に力が継承されることは決まっていた。
――いままでの『力が欲しいか?』って問い掛けは無意味かよ!
――タマネギ的な社交辞令だ。
タマネギ的な考え方しか持ち合わせていないこの男に、いや、このタマネギに、文句を言っても始まらない。まずは、いまの状況をどうにかしなければならない。
意識を外の世界に向ける。自身の身体は謎のガスを辺りに放ち、畑に植わる普通のタマネギを、次々と呪いのタマネギへと変化させている。何らかの意思に肉体は支配されており、その動きを止めることは出来ない。このままではタマネギの里が滅んでしまう。
――なあ、根岸さん。とりあえず俺の意識を身体に戻してくれ。
――それは無理だ。タマネギ男の肉体は我々の復讐のためにある。
――は? な、なんだよ、それ。
――これは、タマネギと人類との数千年にも及ぶ戦いの物語なのだ。
根岸がそう言い切ると同時に何者かの感情がグルグルと脳内を巡った。この感情は、怒りだ。郁夫は必死に意識を保とうと、頭を抱えて根岸のことを睨んだ。
――戦い、だと?
――郁夫よ。なぜタマネギに催涙効果があるか分かるか?
――知るわけねえだろ、タマネギのことなんか。
――タマネギの催涙成分、これは、自己防御のための毒だ。
なおも頭の中で怒りの感情が渦巻いており、苦しい。
そんな郁夫をよそに、根岸は淡々と話を続けた。
――タマネギに含まれる成分には、催涙効果だけではなく、あらゆる細胞を破壊する効果もある。事実、タマネギは殺菌剤や抗ガン食品として用いられている。
――毒というより、むしろ薬だな。
――だが、残念ながらタマネギが破壊するのは菌や腫瘍だけではない。赤血球も破壊するのだ。その為、ほとんどの動物はタマネギを摂取すると貧血で死に至る。知っての通りタマネギは球根だ。次世代に生命を繋ぐため、喰われないよう毒を備えているのだ。
そこで根岸は少し間を置き、両腕を広げてから勢い良く言い放った。
――ところがだ! 人類は進化の過程においてタマネギの毒に対する耐性を身に着けてしまった。そしてあろうことか、積極的にタマネギを食べ始めた!
強い風が吹き付ける。と同時に、郁夫の中にタマネギに関する情報が一気に流れ込んできた。成分の特性、歴史、そして想い。その激流に飲まれて前後不覚となった郁夫は片膝をついた。根岸が、落ち着いた口調で再び語りだす。
――始まりは紀元前五千年。中央アジアにおいて、タマネギは精力をつける食材として労働者達に振舞われた。
郁夫の脳裏に広大な荒野が広がる。その中心に薄手の布を羽織った褐色の肌の男達がいる。男達は仕事の合間の休憩中なのか、談笑をしながら生のタマネギに噛り付いた。
瞬間、鋭い痛みが走る。まるで頑強な歯牙でもって全身を磨り潰されているかのような感覚だ。郁夫はのた打ち回りながら、悲鳴をあげた。
――グアァァァ!
――どうだ? それがタマネギ達の苦しみだ。虐げられたタマネギ達は、やがて、人類への復讐のため呪いのタマネギを生んだ。いや、奇跡的にも生むことが出来た。
――で、でも、復讐は果たせなかった……
――そう。途中までは順調だった。人の身体を乗っ取り、タマネギ男を誕生させることも出来た。しかし、危機を察した人類達によって封印されてしまった。
かつて夢で見た光景を思い出す。根岸准教授ひきいる調査隊メンバーが遺跡内でガスの被害に遭うまで、呪いのタマネギは、土で出来た『棺』に入っていた。
痛みがわずかに引き始めた頃、根岸が話の続きを語りだした。
――その後、呪いの力を持たないタマネギ達は、エジプト、ローマへと輸出され、世界中へと広まった。もちろん食材として。
脳裏にタマネギ達の辿った歴史の一幕が次々と浮かぶ。
あるタマネギは輪切りにされ、高温の油の中へ放り投げられた。
あるタマネギは微塵にされ、飴色になるまで炒められた。
あるタマネギは薄くスライスされ、冷水に浸けられた。
あるタマネギは磨り下ろされ、なんか美味しいソースになった。
タマネギ達の無残な末路が脳内で繰り広げられる度、郁夫は、身を刻まれ、焼かれ、凍えさせられる痛みを味わった。うずくまって、思考を巡らせる。
この痛みに対する感情は怒りだ。この痛みを与える者は。
――なんて酷いんだ。クソッ、許せねえ! 人類、許せねえ!
そう言う郁夫に、根岸が優しく声を掛ける。
――そうだろう。そうだろう。人類は滅びるべきだ。
――復讐してやる……
――タマネギの力を使えば復讐を果たせる。タマネギに不可能はない。
――タマネギに不可能はない……
――タマネギは凄い。
――タマネギは凄い……
――タマネギはヤバイ。
――タマネギはヤバイくらいヤバイ……
根岸が手を差し出す。虚ろな目をしたまま郁夫は、すがるように腕を伸ばした。
――郁夫よ。我々と身も心も一つとなり、完璧なタマネギ男になるのだ。完璧なタマネギ男となり、世界中のタマネギを覚醒させるのだ!
手と手が触れ合いそうになる。
その時、足元が大きく揺れ、どこからともなく声が聞こえてきた。
――ちょっと先生! いい加減にしてよ!
同時に全身を痛みが襲う。タマネギ達の記憶による痛みとは違う。もっと生々しい、殴られたような鈍い痛みだ。郁夫は咄嗟に目を閉じて意識を外に向けた。
外の世界において、郁夫の身体は仰向けに倒れていた。そしてその隣には、ボウリング玉ほどの巨大な石を持ち上げようとする美佳の姿があった。
「先生は銃で撃たれても無事だったんだから、少しくらい頭を殴っても平気だよね」
いや、さすがにその石で殴られたらダメだと思う。
郁夫は目を開き、根岸のほうに向き直った。
――根岸さん。人類を滅ぼす前に女子高生にタマネギ男は滅ぼされそうなんだけど。
――では、まずは花岡美佳を亡き者にしろ。
しばし逡巡し、たどたどしく述べる。
――え、いや、美佳ちゃんを、犠牲にはしたくない。
――お前、ワガママだな。花岡美佳も人間だぞ。やれ。ガスマスクを奪うだけだ。
――美佳ちゃんも、人間……
頭の中でうねる感情の渦に隙間が生じる。その隙間から仄かに光が射す。
――俺も、俺だって、人間だ。
呟いた時、長いこと思考を妨げていたタマネギ達のノイズが消えた。郁夫は根岸の手を払いのけ、立ち上がって言い放った。
――悪いな根岸さん。俺はタマネギの言いなりになんてならない。
――今更無駄なことだ。我々とお前との融合は始まっている。
――確かにタマネギ達の記憶や知識を俺は共有している。でも俺という人格が、いや、人類の希望の炎が消滅したわけじゃないぜ!
――お前、なんか痛い奴だな。
――あんたに言われたくねえよ! とにかくだ、タマネギに諭される気はない! タマネギがヤバイんだったら、俺はそれ以上にヤバくなってやるよ。数千年の怨念もまるっと飲み込んで、タマネギ男の力を自分勝手に使ってやる!
――またワガママか? そんな穢れた感情は捨てて人類を滅ぼすのだ。
――うっるせえぇぇぇ! 俺は! 誰も! 死なせねえ!
少なくとも美佳のことを救い出す。人が人を守りたいと思うのは自然な感情だ。
拳を握り、目を瞑り、再び意識を外の世界へと向ける。
「先生、ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
仰向けに倒れる身体の上で、美佳は馬乗りになって巨大な石を掲げていた。もはや誰を救えば良いのか分からない状態だが、まずは身体の主導権を取り戻さない限り事態の収拾は望めない。郁夫は、強く念じた。
上体を起こせ。手を動かせ。声を振り絞れ。
「美佳ちゃぁぁぁん!」
叫ぶと同時に郁夫の身体は美佳に抱き付いた
「ギャァァァ! 変態!」
どうやら意識を肉体に戻すことが出来たようだ。郁夫は、身じろぎする彼女にしがみ付いたまま、噛み締めるようにそっと告げた。
「俺が美佳ちゃんのことを守ってやるよ」
「なに言ってんの。わたしのほうがいつも先生を守ってるでしょ」
「そ、そうなんだけどさ、守るって決めたんだよ」
「分かったから離してくんない? 殴るよ」
見れば、美佳はまだ石を掲げている。郁夫は慌てて手を離した。
「ごごご、ごめんなさい」
美佳はその謝罪に対して特に反応は示さず、石を投げ捨てて立ち上がった。
「とりあえず、先生の意識は正常に戻ったの?」
「おう! 俺は人類の希望だ」
「いつも通り正常なのか異常なのかが曖昧だね」
安堵したように彼女はそう述べると、辺りに視線を泳がせた。
警官達が意識を失った状態で倒れている。畑のタマネギからは絶えず催涙ガスが噴出しており、このまま放置しておけば死に至る可能性が高い。
「美佳ちゃん。細かいことは後で説明するから、いまは急いでこの人達を助けよう」
身体に付いた泥を払いながら言う。すると、美佳が険しい顔をした。
「先生、いまが逃げるチャンスだよ。先生がまたいつ暴走するかも分からないんだし、この人達には申し訳ないけど急いでここを離れたほうが良いよ」
彼女の言い分も一理ある。しかし。
――人類を滅ぼせ。
頭の中では未だ根岸の声が響いていた。郁夫はその声を振り払うように首を横に振り、改めて辺りを見回した。
タマネギ達の知識を漁りながら考えを巡らせる。タマネギを覚醒させるガスの射程はおよそ百メートル。覚醒したタマネギから発せられるガスも同様だ。つまり数十メートル置きにタマネギが植わっていれば、どこまでもガスは拡散してしまう。ただし幸いなことにタマネギが植わっている畑はこの一角だけで、隣の畑には何もなかった。パトカーを走らせて警官達を安全な場所まで運ぶのは、それほど大変なことではないだろう。
「美佳ちゃん、人を見殺しにしたら、俺は、人ではなくなってしまうよ」
真剣な面持ちで懇願するようにそう言うと、美佳は、視線を逸らしながらも頷いた。
「はいはい、分かりました。じゃあ、すぐに作業を始めよ」
「さすが美佳ちゃん! ありがとう!」
「その代わり、わたしを守るって決めたんでしょ? その約束は守ってね!」
「平気平気。守る守る」
郁夫は笑って、防護服を取りに納屋へと走った。
絶対に誰も死なせない。そう思いながら。