覚醒(1)
先程まで全く人の姿がなかったというのに、いまでは碁盤の目のように張り巡らされた畑道の上を何台ものパトカーが走っている。けたたましくサイレンを鳴らし、大きな事件でも起こったかのようだ。いや、事実、都心でテロを行なったとされる容疑者が潜んでいるのだ、当然と言えば当然かもしれない。
郁夫と美佳は、広大な畑の中央に位置する納屋で、息を殺していた。
「馬鹿馬鹿馬鹿! 先生の馬鹿! 本当に馬鹿!」
「なあ、前から言おうと思ってたんだけどさ、馬鹿って言い過ぎじゃないかな」
「本当に馬鹿なんだから仕方ないでしょ!」
タマネギ倉庫から二人はすぐに逃げ出したものの、干乾びた老人の姿によって一目で郁夫達の犯行と思われたのだろう、瞬く間に警戒態勢は敷かれてしまった。辺りは見晴らしの良い畑が広がっている。隠れられる場所が限られているこの状況、いまのところ無事ではいるが、時間の問題で発見されてしまうに違いない。
しかし美佳は愚痴を零しながらも、その眼光は鋭く、未だ諦めていないようだった。木製の古い壁にある隙間から外の様子を窺っている。郁夫もそれに倣い、外を覗く。既に警官達は付近に当たりを付けたのか、パトカーを降りて棒で茂みを漁っている。ただし防護服は着ていない。のどかなこの里では相応の装備がなかったのだろう。
「まだ勝ちの目はありそうだね」
そう言って美佳が上唇を舐める。
「美佳ちゃん、また悪いこと考えてんだろ?」
尋ねると、彼女は視線を外に向けたまま話し始めた。
「あまり騒ぎを大きくしたくはないけど……」
『タマネギの力を使うのだ』
『さあ、解放せよ』
『タマネギは無限の可能性を秘めている』
郁夫は咄嗟に耳を塞いだ。
「ああ、うるさい! うるさい!」
「はい? 人が真剣に話をしてるのに、その言い方はないでしょ」
首を横に振り、手を広げて弁解する。
「違えよ。タマネギの声がするんだ。大ボリューム、しかもステレオで」
美佳は一瞬だけ怪訝な顔をし、それから改めて外を覗くと、小さな声で述べた。
「この辺りのタマネギ畑は、収穫がまだみたいだね」
確かに、周辺には細長い緑の葉が茂っている。
「そいつらだ。そいつらが、話し掛けてくんだよ」
「そいつらって、タマネギを擬人化しないでよ」
「とりあえず、なんて言うのかなぁ、うるさいんだよな」
「そう思うなら、逃げる手立てを一緒に考えてよ」
腕を組んで悩む素振りをしてみる。だが何も浮かばない。それどころか、更にタマネギ達の声が頭の中に満ちていく。
「うむむむむ……」
「先生、何か良いアイデアは浮かんだ?」
やがて、ひと際大きな声がする。
――力が、欲しいか?
郁夫は目眩を覚え、たどたどしく美佳に告げた。
「ヤ、ヤバイ……根岸さんが、呼んでる」
「どういうこと?」
「噛み砕いて言うと、モーレツに眠い」
「嘘でしょ? こんな時に!」
脳裏に手足の生えたタマネギの姿が浮かぶ。こちらに向かって手招きをしている。その姿が鮮明になればなるほど、深い闇に意識が落ちていく感覚にとらわれる。
「み、美佳ちゃん、俺を置いて、先に、行け……」
そこまで言った時、目の前の景色が暗転した。
手足の生えたタマネギ、すなわち根岸の、声がする。
――機は、熟した。
「……先に、行け」
そう言い残すと、郁夫は意識を失い、美佳の胸にもたれかかってきた。
「ちょ、ちょっと先生、しっかりしてよ!」
強く揺さぶるが、目を覚ます気配はない。致し方ない。そう思い、美佳は当たり前のように郁夫の身体を床の上に投げ捨てた。
言われるまでもなく、担いで運ぶことが出来ない以上、置いていくしかないのだ。最悪な展開は、二人同時に捕縛されること。それだけは避けなければならない。
美佳はガスマスクを装着し、まず郁夫の防護服を脱がした。
警官達は防護服どころかガスマスクさえ持っていないようだ。意識を失っているとはいえ常にガスを発している郁夫を捕まえるのは、困難なはずだ。応援が来るまで手は出せない。その間に郁夫が目を覚ましてくれれば御の字。仮に目を覚まさなかったとしても拘留できる施設は限られる。医療機関、あるいは研究所。これまでの経緯からすると、繁幸教授の研究室が最も有力だろう。そう何度も簡単に脱走を許してくれるとは思えないが、自分さえ自由ならば、まだ手の打ちようがある。場合によってはマイケル中田の力を借りるという選択肢もある。とにかく、いまは一人ででも逃げるのが先決だ。
問題はどうやって逃げるかだ。ニュースでは自分達が毒ガスを所有していることになっていた。警官達もそれを承知しているはずなので不用意に近付いてはこないだろう。かといって、単身の女子高生に対して発砲をしてくるとも思えない。闇雲に走り抜けるか。いや、さすがにそれは難しい。
何か使える物はないかと辺りに視線を向け、短く唸る。
「うん、ないよりはマシかな……」
美佳はブリキ製のバケツと柄杓を手に取った。
タマネギガスの射程距離は半径約五メートル。ただし、高濃度タマネギエキスを撒くことでその範囲を広げることが出来る。理想としては農薬散布用の噴霧器でもあれば良かったのだが、施錠もされていないこの古い納屋には原始的な農具しかない。鍬や鋤で乱闘を演じるよりも、バケツと柄杓で打ち水ならぬ打ち毒をしたほうが幾らかスマートだ。加えて、逃走経路にガスが漂うことで追跡を妨げる。しかし。
この作戦を実行するためには、タマネギ男の汗を入手しなければならない。
美佳は覚悟を決めて大きく頷き、郁夫の手を取った。
「お母さん、お父さん、ごめんなさい。あなた達の育てた大切な一人娘は、再び男性の手汗を搾ろうとしています……」
バケツを置き、その真上で手に力を込める。
すると郁夫が身体を起こし、手を握り返してきた。突然のことに美佳は思わず肩をピクリと引き上げ、安堵よりも先に怒りを露わにした。
「ちょっと先生、わたしの手を握るために寝た振りをしてたの!」
だが郁夫は何も答えず、感謝を示すかのように繋いだ手を上下に振っただけだった。
何を考えているのか分からないが、とりあえず手汗は搾らずに済んだようだ。彼が目覚めたのであれば、作戦を練り直す必要がある。
そんなことを考えていると、郁夫が美佳の手を解放し、それから立ち上がって扉に視線を向けた。
「どうしたの?」
郁夫の背中に向かって問い掛けるが、引き続き返事はない。それどころか、郁夫は美佳から、一歩、二歩と遠ざかり、扉を開け放って外へ出ていってしまった。
しばしその様子を呆然と眺めてから、慌てて後を追う。
「先生、なにやってんの!」
美佳がそう言うと同時に、周辺からも声があがった。
「いたぞぉ!」
一瞬にして郁夫と美佳は警官達に囲まれてしまった。その数は二十人ほど。最も近い者でさえ十メートルは離れているのでガスによる攻撃は不可能。しかも警官達は迷いもなく銃を引き抜いた。強引に走って逃げるか、一旦は投降するか、考えを巡らせる。
その時、唐突に郁夫が低い声で叫んだ。
「力が、欲しいか!」
ドンッと空気が震える。景色が陽炎のように歪む。どうやら辺りの畑から何らかの気体が大量に噴出し、光が屈折したようだ。
事態を把握するために頭をフル回転させるが、理解は追いつかない。そんな美佳をよそに景色はなおも揺れ続ける。
その揺れる景色の中、警官達が、次々と涙を零して倒れていった。
タマネギの里へ向かう車中で、繁幸は、神妙な面持ちで神崎に声を掛けた。
「神崎君は、アレロパシーという言葉を知っているかな?」
それに対し、隣に座る神崎が澄ました顔で応じる。
「化学用語ですか? あいにく存じ上げません」
そう返答があるであろうことを見越していた繁幸は、当然のように説明を始めた。
「アレロパシーとは、特定の植物から放たれる化学物質が、他の動植物に何らかの作用を与える現象のことを言う。日本では他感作用とも呼ばれているな」
「タマネギガスによる催涙効果の話ですか?」
「広義においては、それもアレロパシーと呼べる。ただし、一般的にはアレロパシーと言えば、他の植物の生育阻害および生育促進効果を指すことが多い。例えば、カモミールにはタマネギの成長を助ける効果があると言われている」
そこまでの話を聞いて合点がいったのか、神崎は深く頷いた。
「タマネギ男から放たれたガスによって、一般的なタマネギの催涙成分生成が促進されたということですね」
「そう。タマネギガスにはタマネギを覚醒させる働きがあるに違いない」
「なるほど。それで……」
呪いのタマネギは花岡美佳の自宅だけではなく、その後、都内の複数箇所でも発見された。それらは全て郁夫の利用したスーパーで販売された物と判明している。
「教授、そうなると、タマネギ男の逃走過程において、その半径五メートル以内にタマネギがあった場合、それらも」
「いいや。五メートルというのは、あくまで催涙ガスの到達距離だ。タマネギ覚醒ガスの拡散範囲については何も分かっていない」
「つまり?」
「タマネギ男に触れるほど近付くと呪いのタマネギになるのか、あるいは……」
繁幸はそこで思った。昨日、郁夫は何らかの方法で情報を入手し、根岸メモを求めて多摩里大学までやって来た。現在はタマネギの里にいるようだが、闇雲に逃げて辿り着いたわけではないだろう。今回も目的があって向かったと考えるのが妥当だ。タマネギが大量にある地域にわざわざ潜伏するということは。
「タマネギの里全体がガスに覆われているかもしれないな」
そう繁幸が言うと、神崎が顔を綻ばせた。
「それは素晴らしい」
横目で彼のことを睨み付ける。
「研究対象としてはその通りだが、捕まえるとなると厄介だぞ」
「ご安心ください。部下達に防護服を支給してあります。繁幸教授には、この車の中で待っていていただけるだけで結構です。すぐに解決しますよ」
繁幸は溜息でもって相槌を打ち、それから独り言のように呟いた。
「しかし皮肉なものだな。あいつに逃げられたことで次々と新たな発見がされるとは」
好奇心と行動力は研究の根幹をなすものだ。郁夫は幼い頃から得体の知れない物を恐れもせずに食べてしまえる子だった。その無謀とも言える習性は、ひょっとすれば、研究者に向いているのかもしれない。
そんなことを思い、繁幸は、密かに笑った。