誕生(1)
――先生。長沢先生、起きてよ。
夢の中で呆れ気味な声が響く。その声は幾度となく繰り返され、やがて世界全体が揺れた。長沢郁夫はそこで目を覚まし、自らがどのような状況に置かれているのかを把握するため、瞳をグルリと動かした。横たわる自分と、そんな自分の肩を揺さぶる十代の少女が見える。そうだ、いまは家庭教師のバイト中だった。
ピンク色のシーツの敷かれたベッドから身を起こし、少女に声を掛ける。
「なに? もう終了時間?」
声を掛けられた少女、花岡美佳は、長い髪を揺らしながら首を横に振った。
「違うよ。先生の寝言がうるさいから起こしたんだよ」
「え? 俺、何か言ってた?」
「うまい! うまいぞ!って叫んでたよ」
「なんだそれ?」
「こっちが知りたいよ」
腕を組んで記憶を巡らせる。言われてみれば、何かを食べていた気もする。
「ああ、暗闇の中で何かに噛り付いていたかもな……」
「何かって?」
「それは思い出せないんだけど、暗闇の中にさ、何人ものオッサンがいて、そのうちの一人が丸い物を食ってんだよ。で、俺も一緒にそれを食うんだ。俺、何を食ったんだ?」
「だから、知るわけないでしょ」
そう言って美佳は勉強机の前に座った。回転式の肘掛け椅子からキシリと音がする。
郁夫はその姿を認めると、再び口を開いた。
「そういうわけだから、美佳ちゃん、おやすみ!」
「そういうわけって、どういうわけ!」
寝転ぼうとしたところを美佳に咎められ、致し方なくベッドの縁に座る。
「美佳ちゃん。俺は眠いんだよ。寝かせてくれても良いじゃん」
「あのさあ、長沢先生。先生は一応わたしの家庭教師でしょ? 少しは仕事しなよ」
「またその話か……」
郁夫は膝の上に両肘を乗せると、偉そうに語り始めた。
「いいか? これは二人の密約だろ? 勉強ばかりの毎日が嫌だって言っていた美佳ちゃんに憩いの時間を与える。そして俺はバイト代を得る。ウィンウィンの関係だ」
「限度ってもんがあるでしょ。普通さあ、女子高生の部屋で熟睡する?」
「憩いの時間を与えた見返りだよ。俺が担当の家庭教師になってなきゃ、今頃美佳ちゃんは勉強漬けで休みがなかったぜ。礼を言って欲しいくらいでござる。ウィンウィン」
「わたしがもうすぐ受験生だってこと、分かってる?」
美佳はチェックのスカートをはためかせ、大袈裟に脚を組んでみせた。
「まだ受験まで一年近くあるじゃん。のんびり勉強を頑張れよ」
「他人事? その勉強の手助けをするのが先生の役目でしょ」
「俺、勉強、苦手」
「は? 有名私大に通ってるくせに、なに言ってんの?」
「いやぁ、俺さ、付属校からのエスカレーターで大学に入ったから、中学受験以降ほとんど勉強してないんだよね。ぶっちゃけ、美佳ちゃんのほうが頭良いと思うぜ。あ。内申点の上げ方なら教授してやれるよ」
その言葉を聞いた美佳は、鼻から息を吐き出した。
「へえ、そんなサービスがあったなんて初耳です」
「調子の良ささえあれば万事解決。多くの人に好かれるぜ。例えばさ、美佳ちゃんが大学に合格した時はこう言うと良いよ。『先生方のお陰で合格できましたぁ』ってな。で、俺はこう返事をするんだ。『いやぁ、美佳ちゃんの頑張りの成果ですよ』って」
「実際わたしが一人で頑張ってるじゃない」
「おいおいおい、違うよ。そこはさ、『そんなことないですぅ。長沢先生には大変お世話になったですぅ』って言おうよ」
よほど馬鹿馬鹿しくなったのか、美佳は肩をすくめて椅子を回転させた。
「はいはい、先生のお陰です。それはそうと、もうすぐ終了時間だよ」
「うわ、マジだ。なんだよ。満足のいく睡眠をとれなかったじゃん」
「充分寝たでしょ。寝癖もついてるし」
「え?」
「頭のてっぺんが尖ってるよ」
指し示された場所に触れてみると、確かに頭頂部の髪が立っていた。郁夫の髪型はサイドを刈り上げたショートで、日頃は無造作に下ろしているのだが、どういうわけか、いまは壁に突き刺せそうなほど槍状に尖っていたのだった。
「なんだこれ? 悪りい、整髪料ある?」
「ウェット系のムースしかないけど」
差し出された整髪料を受け取り、さっそく髪に馴染ませる。しかし、どんなに抑えようとしても尖がりはバネのように立ち上がる。
「ちっくしょ、直らねえ」
悪戦苦闘していると、美佳がからかうように笑った。
「ハハハ。タマネギみたい」
結局、髪を尖らせたまま郁夫は帰宅した。
幸いにも春休み中の夜ということもあり、奇抜な髪型をしていても粋がった若者程度にしか思われなかったようだ。お陰で注目を浴びることもなく、いつも通りの午後十時には自宅マンションに着いた。ただし、いつもとは違う点もあった。部屋の灯りが点いていたのだ。普段であれば深夜に帰宅する父が、帰ってきているようだった。
郁夫の父、長沢繁幸は、仕事と趣味と家庭の区別が出来ない典型的なワーカーホリックだ。国立大学で毒性学の教授をしており、病で他界した母が危篤だった時でさえ研究室にこもっていたほどだ。その為、日付が変わる前に在宅していることは滅多にない。
郁夫は玄関を通ると、訝りながら室内を覗き込んだ。
「ない。ないぞ。アレがない……」
丸メガネを掛けた初老の男が、呟きながら白髪交じりの頭を掻き回している。父、繁幸だ。その様子は明らかに取り込み中ではあるが、何も声を掛けずに自室に向かうのは気が引け、郁夫は、申し訳なさそうに、「ただいま」と告げた。
「郁夫、アレを知らないか?」
「オヤジ、『おかえり』くらいは言おうよ……で、アレって?」
「アレだよ。タマネギだ」
「タマ、ネギ?」
夢の中で見た紫色の球体が脳裏に蘇る。しかし郁夫は、そのことを口外してはならないという予感がし、ただ白々しく首を傾げた。
「ガラスケースに入った紫色のタマネギだ。知らないか?」
「タマネギなんて、し、知らないなぁ。いや、タマネギという存在がこの世にあるってことは知っているけどさ、その、ケースに入ったタマネギの心当たりはないよ」
「そうなると、盗まれたのか」
誰がそんなものを盗むんだ、そう思って尋ねる。
「タマネギだよな?」
「ああ、タマネギだ」
「考え過ぎだろ」
「警察に通報するか」
繁幸の表情は真剣そのものだ。通報などされたら堪ったものではない。
「タ、タマネギだよな?」
「ああ、タマネギだ」
「警察は大袈裟じゃないかなぁ」
「そんなことはない。よし、通報しよう」
繁幸がスマートフォンを手に取る。郁夫は咄嗟にその手を押さえた。
「タマネギなんだよな?」
「ああ、タマネギだと何回も言っているだろ!」
「タマネギ一つで大騒ぎするなんて、おかしいだろ」
「あれは古代遺跡で発見された貴重なタマネギなんだよ」
「え、そんな、凄いタマネギなんだ……」
冷や汗が背中を流れる。
「それを冷蔵庫に隠しておいたはずなんだが、何者かにケースごと持ち去られた」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。オヤジの勘違いじゃないか? ほら、タマネギって、確か常温保管だろ? 他の場所に置き忘れたとかじゃないかなぁ」
繁幸が目を細め、郁夫のことを見つめる。
郁夫は居た堪れない心持ちになり、すぐさま話を続けた。
「一日だけでも、よく考えてみたほうが良いよ。何かを思い出すかもしれないだろ?」
加えて、念を押すように愛想笑いをする。
しばしの沈黙の後、繁幸が細かく何度も頷いた。
「そうだな。一旦、考え直してみるか」
どうにか通報まで一日の猶予を得られたようだ。郁夫は心の内で胸を撫で下ろし、ボロを出す前に早々と退散することにした。
「じゃあオヤジ。俺、疲れてるから、もう、寝るよ。おやすみ」
「ああ」
その短い返事を聞き、繁幸に背を向けて歩きだす。
すると、唐突に声を掛けられた。
「ところで郁夫」
「な、なに?」
振り返って尋ねると、探るような視線を向けられた。
「お前、どうしてタマネギみたいな頭をしているんだ?」
当然ながらバイト先で寝癖を作ったとは言えない。
「あ、えっと、これは、最近、流行ってんだよ」
もちろん流行ってなどいない。
「そうか」
しかし納得してくれたようだ。
郁夫は再び、「おやすみ」と述べ、今度こそ本当に部屋を後にした。
自室に戻ると、郁夫は慌ててゴミ箱の中を漁った。硬い何かが手に触れる。それは、一辺十五センチほどの四角いガラスケースだった。
やはり、紫色の球体を食べたのは夢ではなかった。
床に両手両膝をついて深くうな垂れる。同時に、記憶が鮮明に蘇ってくる。数日前の深夜、あらゆるものがスイーツに見えるというオリジナリティ溢れる寝惚け方により、貴重なタマネギを、まるのまま食べてしまったのだ。
後悔先に立たず。既に胃袋に収めてしまった物を元に戻すのは不可能。何か別の方法でこの危難を乗り越えなければならない。素直に謝れば良いだろうか。いや、自宅の桜の木を切ってしまったとかならともかく、歴史的遺物を食べてしまったともなれば、器物破損あるいは文化財保護法に抵触する恐れがある。それは悪手だ。ならば、白を切り続ければ良いだろうか。いや、それもダメだ。警察の捜査が入れば、たちまちのうちに侵入者がいたか否かが判明してしまう。下手をすれば罪状が重くなる。
もはや八方塞がり。たかがタマネギを食べてしまっただけで、どうしてこんなに苦悩しなければならないのだ。そこまで考えが至った時、ある妙案を思い付いた。
「そうだ、ただのタマネギじゃないか……」