混乱(4)
『選ばれし者よ。ここに来い』
「アー、アー、アー、アー……」
『選ばれし者よ。時は来た』
「アー、アー、アー、アー……」
「ねえねえ、先生。さっきから『アー、アー』って、うるさいんだけど」
「アー、アー、アー、アー……」
「ねえ、聞いてる? うるさいんだけど」
「うるさいって言いたいのはこっちのほうだよ!」
「え? なんでわたし怒られたの?」
郁夫と美佳はマンションに向けて歩いていた。マイケルは近くと言っていたが、ここは広大な畑の真ん中だ、徒歩ともなれば結構な距離がある。既に一時間は歩いているが、未だマンションの影は見えない。
「美佳ちゃん、頭の中で声が響いてるんだ」
「声って、導きの声?」
「アー、アー、アー、アー……」
「ちょっと先生、返事してよ」
「あ、悪りい。その声がさ、段々大きくなってるんだよな。で、それを誤魔化すために声を出してるんだけど、誤魔化し切れねえよ!」
「だからって、わたしに当たんないでよ」
声の発信源は確実に近付いていた。美佳と会話をしている間にも『こっちに来い』、『急げ!』と、何度となく郁夫は呼ばれている。この声はいつまで続くのだろう。もしタマネギの呪いが解けるまでだったなら堪ったものではない。
「こっちだ! すぐそこだ」
郁夫は、進行方向からやや外れた位置を指差した。
それを見た美佳が嫌そうに言う。
「まさか、そこに行くつもりじゃないでしょうね?」
図星だ。美佳のほうに向き直り、両手を広げて提案をする。
「声の主が何者なのか気にならないか? そして、その先に何があるのか」
「少しは気になるけど、それは神崎って人が捕まってから確認するのでも良くない?」
「アー、アー、アー、アー……」
「先生。それ、わざとやってるでしょ?」
美佳の言いたいことは理解できる。命を狙われているとも言えるこの状況、少しでも早く安全な場所に退避したいというのは郁夫にしても同じだ。しかし、すぐそこに現状を打開する方法があるかもしれないというのに、それを見過ごすのも躊躇われる。
「美佳ちゃん、先生からの一生のお願いだ。ちょっと、ちょっとだけだからさ」
郁夫は、手を合わせて懇願した。
「もう『先生』という言葉の概念が大崩壊だよ……」
そうは言いながらも美佳は一つ頷いて、声のする方角を示した。
「すぐそこなんでしょ? 話を聞くのも面倒だから、パッと確認しちゃお」
「よっ、さす美佳!」
美佳が、何も返事をせず、歩き始める。郁夫は慌てて美佳を追い越し、声のする場所を案内することにした。
しばらく行くと、そこにはプレハブ製の建物があった。車が何台も収まるであろう大きさがあり、どうやら何かの倉庫のようだ。
『選ばれし者よ。良くぞ来た』
謎の声は、その中から聞こえてきていた。
美佳が確かめるように郁夫の瞳を覗き込む。郁夫は大きく頷いて、さっそくシャッターに手を掛けた。ガラガラと音を鳴らし、頭の高さまで鉄のカーテンを持ち上げる。薄暗い倉庫内に光が射し込み、声の主が姿を晒す。
「こ、これは……」
郁夫のその呟きの続きを、美佳が引き取る。
「タマ、ネギ?」
同時に辺りが騒がしくなった。
『待ちくたびれたぞ! 選ばれし者!』
『早く力を与えよ! 契りを交すのだ!』
『さあ、世界を征服する時は来た!』
目の前には収穫されたタマネギが山積みになっており、それらが脳に直接語り掛けてきたのだ。郁夫は咄嗟に両耳を塞いだ。すると、美佳に肩を叩かれた。
「なに? 美佳ちゃん」
片手を耳から離し、美佳のほうを向く。
「ねえ、先生。ひょっとして声の主って、タマネギ?」
「う、うん、そうみたいだね」
「タマネギの声を聞けるようになっちゃったの?」
「声を聞けるだけなのかなぁ。案外、会話も出来ちゃったりして……」
そう言ってから郁夫はタマネギのほうに向き直り、声を発した。
「なっ!」
『おうっ!』
郁夫は黙ってシャッターを閉じた。
『おいっ、なぜ扉を閉めるのだ!』
『選ばれし者よ。開けろ!』
『開けて、力を与えるのだ!』
改めて両耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んで唸り声をあげる。
「う、うーん」
「先生、何が起こっているのか説明してよ」
郁夫は立ち上がって、清々しい声色で美佳に告げた。
「よし。美佳ちゃん、マンションに向かおう」
「はい? タマネギの声は? 導きの謎は解明できたの?」
「それがさ、タマネギ達が、『力を与えよ』とか、『契りを交せ』とか、『世界征服』とか言ってんだよ。これって完全に魔王っぽいものが復活するフラグだぜ。思うにだ、俺はこれ以上、タマネギに接触してはいけない。だからもうマンションに行こう」
説明を終えると、腑に落ちないのか、美佳は唇を尖らした。
「わたしは別に良いんだけど、先生は本当にそれで良いの? 後になって、やっぱりタマネギの謎を知りたい、なんて言わない?」
「そういう言い方するなよ。迷うだろ」
郁夫は腕を組んで、再び唸り声をあげた。
その時、どこからか、しわがれた声が聞こえてきた。
「お二人さん、わしの倉庫に何か用かな?」
声の出処に視線を移すと、倉庫の脇に腰の曲がった老人が立っていた。その老人の頭はツルリと禿げ上がっており、どことなく皮を剥いたタマネギを思わせる。
慌てて美佳が弁明するように両手を振る。
「あ、すみません。旅行に来た者なんですけど、この建物が何なのか気になりまして」
「これは、タマネギの倉庫じゃ」
「そうみたいですねぇ。では、失礼します。お邪魔しました」
美佳に腕を引かれ、そそくさとその場から退散しようとする。
ところが、老人とすれ違った直後、呼び止められた。
「そこのアバンギャルドな服の人、待つのじゃ」
防護服のことを言われていると察し、すかさず応じる。
「お、俺のことですか?」
「そうじゃ……」
指名手配犯と気付かれたのかもしれない。そう思い、郁夫と美佳は目配せをして逃げるタイミングを計った。だが、老人からは意外な言葉を投げ掛けられた。
「おぬしは人間ではないな? そう、タマネギの精霊じゃ」
タマネギ男のことはニュースで報じられていないはずだ。郁夫は、老人の顔を見つめながら呆然と尋ねた。
「どうして、そう、思ったんですか?」
その言葉を聞いた老人は、柔らかく微笑んだ。
「わしは何十年もタマネギを育てておるのじゃ、タマネギのことならなんでも分かる。おぬしの姿を一目見た時から、タマネギの精霊と気付いておったよ。そして、おぬしが悩みを抱えていることもな」
「本当ですか?」
「ああ、もちろんじゃ。どれ、悩みを聞かせてみなさい。おっと、その前にお面を外してはくれんか? ようやっと巡り会えた精霊様じゃ。顔を拝ませて欲しいのお」
郁夫はしばし考え込み、それから美佳に小声で話し掛けた。
「美佳ちゃん、ガスマスクを装着して」
「はい? 先生、何をしようとしているの?」
「俺はこの爺さんに懸けてみようと思う。俺がタマネギ男だということを見破った上で顔を見たいと言ってるんだ。きっと、タマネギガスの影響はないに違いない」
「本気で言ってるの?」
「タマネギの導きっていうのは、この爺さんとの出会いのことだったんだよ」
真摯な訴えに打たれたのか、美佳は渋々ながらも指示に従った。
老人が期待の眼差しを寄越す。郁夫は、勢い良くマスクを外した。
「ギャァァァ! 目が痛ぁぁぁい!」
老人は、その場に崩れ落ちた。
「嘘だろ!」
「ほら、やっぱり!」
郁夫と美佳が叫んだ時、再びどこからか声がした。
「お爺ちゃん、また誰かにタマネギの精霊とか言ってるんですか?」
そちらに視線を向けると、倉庫の陰から中年女性が現れた。
女性はその場の状況を認めると、わなわなと身体を震わし、甲高い悲鳴を上げた。
「キャァァァ! 人殺しぃぃぃ!」
まずい。思った瞬間、美佳が郁夫の手を引いた。
「先生、逃げよう!」
郁夫は細かく何度も頷き、美佳と共にマンションの方角へと走った。
繁幸が警察署を出ると、目の前の道に黒塗りの高級車が停まった。
その車に近付くと、後部座席の扉が開き、案の定、黒服の男、神崎が姿を見せた。何も言わないが、手招きをしている。隣に座れということだろう。
繁幸は車に乗り、シートに腰を沈めてから口を開いた。
「随分とタイミングが良いな」
「ええ。間もなく事情聴取が終了するという報告を受けましたので」
「なるほど、君が裏から手を回していたのか。どおりで即座に釈放されたわけだ」
「言いましたでしょう、私には友達が多いのですよ」
車が発進する。外の景色を眺めながら繁幸は諭すように語った。
「過信は禁物だ。私の部下の一人、田中が、どうやら失踪したようだ」
だが神崎は忠告など気にも留めず、鼻で笑った。
「昨日の騒動を目の当たりにして恐れをなしたのでしょう。安心してください。すぐに所在を突き止めて処分しますよ」
「そんな簡単な話なら良いがね」
神崎は再び嘲るように笑い、肩をすくめてみせた。
「ところで長沢教授、タマネギガスの新たな犠牲者が現れたそうです」
我が息子ながら馬鹿なのではないかと思う。昨日の今日だ。さっそく事件を起こすとは狂っているとしか思えない。繁幸は溜め息をつき、神崎に尋ねた。
「現場はどこだ?」
「東京の中心地です。タマネギ男と行動を共にしていた女子高生、花岡美佳の自宅で、その母親が倒れたそうです」
「家にかくまってもらおうとして失敗したというところかな。で、タマネギ男は?」
「それがですねえ、タマネギ男は近くにいないようなのですよ」
タマネギガスが使用されたならば郁夫が周辺にいたはずだ。
「どういうことだ?」
「実は、ガスの発生源はタマネギ男ではなく、花岡美佳の部屋に置いてあった赤タマネギだったのです」
あまりにも意外な返答に、繁幸は身を乗り出した。
「古代タマネギが複数個存在していたということか?」
「いいえ。調べによれば、その赤タマネギは、およそ一週間前にタマネギ男がスーパーで購入した物のようです」
「つまり、普通のタマネギが呪いのタマネギになったのか……」
胸の奥から興奮が湧き上がる。タマネギ男は、催涙ガスを発生させるだけの存在ではなく、呪いのタマネギを増やす力も持っていたのだ。
「長沢教授、嬉しそうですね」
「当たり前だ。私にとって研究は生きることに等しい」
呟いた時、着信音が鳴った。同時に神崎が、「失礼」と断りを入れ、懐から携帯電話を取り出して耳に当てる。その横で、繁幸はタマネギの可能性について思いを馳せた。
通話を終えた神崎が言う。
「教授、また嬉しい報告が入りました。更にタマネギガスの犠牲者が現れたようです」
繁幸は、ほくそ笑んだ。
「今度はタマネギ男の父親でも倒れたか?」
その冗談を聞き流し、神崎が、淡々と報告を口にする。
「倒れたのは農場の老人です。場所は、栃木県北部、タマネギの里」