混乱(3)
食事を終え、タマネギの里の探索を開始する。
郁夫のことを呼ぶ声は、鼓膜を揺らしてくるのではなく、頭の奥に直接響いてくる。それでも、どの方角から聞こえてくるのか、おぼろげではあるものの察せられた。
大袈裟に、「たぶん、あっちだ!」、「こっちだ!」と、指をさしながら歩く。美佳は訝しげな表情を浮かべながらも黙ってついてきた。
日が出ている時間にもかかわらず、昨日と同様、人の姿はない。見れば、幾つかの畑は既に収穫が終わっているようで、何も植わっていなかった。ひょっとすれば暇な時期なのかもしれない。
しかし、しばらく畑道を歩いていると、地元の人だろうか、向かいから作業服姿の男がやって来て、すれ違った。郁夫は何も気にせずに歩き続けたのだが、数歩進んだところで美佳がガスマスクを装着し、小声でこんなことを言った。
「先生、いますぐタマネギガスを撒いて」
「なんで?」
聞き返したが、美佳は何も返事をせずに勢い良く後ろを振り返った。釣られてそちらを見る。そこには、先程の男がガスマスクを被って立っていた。
状況を理解できずに立ち尽くしていると、隣から「チッ」とかすかに舌打ちの音が聞こえ、同時に美佳が鉄串を抜いて駆け出した。
作業服姿の男が突き出された攻撃を軽やかにかわし、両腕を高く掲げる。
「待ってくれ! 私は敵ではない」
それでも美佳は攻撃をやめようとしない。郁夫は急いで二人に駆け寄った。
「美佳ちゃん、落ち着いて!」
どうにか彼女は後退したが、継続して鉄串を構えている。
「先生も手伝ってよ」
「敵じゃないって言ってるんだから話を聞いてみようよ」
「敵か味方か関係なく、身動きを取れなくしてから話を聞くべきだよ」
早口にそんなやり取りをしていると、男が腕を上げたまま話し掛けてきた。
「本当に私は敵じゃない。郁夫君、私の顔を良く見てもらえれば誰だか分かると思う」
「え? じゃあ、マスクを外してくださいよ」
そう言うと、男はゆっくりと顔を露わにした。三十歳前後の特徴のない顔だ。
美佳が耳元で言う。
「先生、知ってる人?」
「ごめん、誰だか分からない」
「うん。やっぱり身動きを取れなくしよう」
二人の会話が聞こえていたらしく、男は慌てて再度腕を上げた。
「郁夫君! 私だよ! 忘れちゃったのか!」
「あ、申し訳ありません。どこかでお会いしましたでしょうか?」
「先生、やっぱり刺しちゃおう」
男は郁夫に思い出させることを断念したらしく、咳払いをしてから自己紹介を始めた。
「私はマイケル中田という者だ。郁夫君の前では、『田中』と名乗っていた」
そこで記憶が蘇る。郁夫は男のことを指差した。
「ああ! 鈴木さんとセットの! 研究員の田中さん!」
「い、いや、鈴木さんとセットというわけではないんだが……」
とりあえず素性が分かったことで美佳は落ち着きを取り戻し、鉄串を構えたままではあるが、ガスマスクを外してマイケルに質問をした。
「で、研究員の人が、どうしてこんな所にいるんですか?」
「私の本職は研究員ではない。実は、某国の諜報員なんだ。国際的な犯罪者である神崎のことを調べるため、長沢教授のもとに侵入していたんだよ」
美佳が目を細め、更に問う。
「CIA?」
「すまない。それはノーコメントとさせてもらう。とにかく、私は君達の味方だ」
郁夫はそこまでの話を聞き、美佳の言っていた『協力者』という言葉を思い出した。
「美佳ちゃん、もしかして、この人……」
咄嗟に美佳が、郁夫の胸を叩いて続く言葉を制し、囁くように言う。
「先生、そのことはこっちから言ったらダメだからね」
そして、彼女は再びマイケルに質問を浴びせた。
「ところでマイケルさん、どうしてわたし達の居場所が分かったんですか?」
「それは、郁夫君の着ている防護服に発信器を付けさせてもらったからだ」
おそらく多摩里大学で防護服を畳んで置いておいたのはマイケルだ。そしてその時に発信器を仕掛けたのだろう。こんなことは郁夫でも想像できたのだから美佳も見当はついているはずだ。だが、彼女は惚けた顔をして首を傾げた。
「いつの間に付けたんですか?」
「君達が多摩里大学から逃げる時に防護服を用意したのは私だ。その際に」
「ああ。考古学部の校舎に防護服を置いたのは、あなただったんですね」
「何を言っているんだ? 私は研究棟の出口に畳んで置いておいたはずだ。それとなく協力者がいることを知らせるためにね。ちなみに、施設の鍵を開けておいたりと、常に裏から郁夫君の逃走を助けていたんだよ」
その話を聞いた美佳は深く頷き、鉄串を下げた。
「オーケー。先生、この人はわたし達の協力者で間違いないよ。全面的には信用できないけど、少なくとも敵の敵だとは思う」
マイケルも腕を下ろし、安堵の表情を浮かべた。
「分かってもらえて良かったよ。それにしても、どうして私が地元民ではないって気が付いたんだい? 服装も素振りも自然だったはずだ」
「自然過ぎたからですよ。長沢先生は明らかに不審者です。こんな田舎町で防護服姿の人がいたら、普通、気になりますよね?」
「なるほど、今後の参考にさせてもらおう。君は優秀なボディガードだな。鉄串を持って襲い掛かってこられた時には驚いたよ」
「ガスを撒くよう指示してから振り返るまでの間にマスクを被る、それほど反射神経に優れた人が何を言っているんですか」
二人は気取った顔で会話をしている。その横で、郁夫は狼狽えながら口を挟んだ。
「な、なあ、俺の格好ってそんなに不審なのか?」
その言葉を無視し、美佳が辺りを見渡してからマイケルに告げる。
「周りに誰もいないので、込み入ったことを話すには丁度良い場所ですね」
マイケルは頷いて、これまでの経緯を語り始めた。
「神崎は、大胆かつ狡猾な男なんだ……」
裏の世界に通ずる者ならば、誰もが神崎が武器商人であることを知っているらしい。だが、日本を含む各国の警察機関にまで彼の部下が入り込んでおり、決定的な証拠を見出せずにいた。そこで数年前から、マイケルは諜報活動をすることとなった。
神崎は近年、主に化学兵器を販売しており、その取引相手と目される繁幸にマイケルは近付いた。ところが、それでも尻尾を掴めない。諦めかけた時、今回の郁夫の騒動が起こり、ようやく幾つもの不正を捕捉できた。
ただし、警察に協力を仰ぐわけにはいかなかった。揉み消される可能性がある上に、外国の諜報員が国立大学に忍び込んでいると知られれば、神崎のこととは関係なく、国際問題に発展してしまう。その為、マイケルの本国から日本政府に働き掛けるという回りくどい手続きが行なわれた。
「……Xデーは間もなくだ。政府主導のもと神崎は逮捕される」
話を聞き終えた美佳は、口元を押さえながらマイケルに尋ねた。
「事情は分かりました。でも、どうしてわたし達に接触しに来たんですか?」
「それは君達を保護するため……いや、嘘は良くないな。正確にはタマネギ男を保護するためだ。神崎が逮捕されるまでの間に、タマネギの力がどこかへ譲渡されることを防ぎたい。私は公に行動できないので密かに監視しに来た。見つかってしまったけれどね」
美佳が探るような目付きをする。
「話自体は信用しますけど、それは言い回しを変えただけで、武器商人達と大差ないんじゃないですかねえ? 長沢先生を保護した後、どうするつもりですか?」
マイケルは痛いところを突かれたのか、わずかに言いよどんだ。
「神崎が逮捕されたら、おそらく、私の本国でタマネギの研究は続けられると思う。もちろん兵器への転用も含めてね。ただし、これだけは信じてもらいたい。我々は決して人権を無視した実験など行なわない。郁夫君の呪いを解くことを最優先に考えるよ」
郁夫の目から見て、マイケルが嘘を言っているようには思えない。美佳も同じことを考えたのか、こちらに視線を寄越して小さく頷いた。これで手打ちだ。
その後、美佳とマイケルは情報交換をし、今後の予定について話し始めた。マイケルによれば一週間後に神崎は逮捕されるらしい。同時に、被害者である郁夫と美佳の救出も公に行なわれるだろうとのことだ。つまり、それまで逃げおおせれば安全は確保される。更に、絶対とまでは言えないものの、タマネギの呪いを解いてもらえるかもしれない。
話の最後に、マイケルは懐から鍵を取り出した。
「念のため、この近くにマンションの部屋を借りておいた。食料も用意してある。私は仲間と合流するために一足先にタマネギの里を去るが、そのマンションに身を隠してくれれば無事に一週間を過ごせるだろう」
郁夫は鍵を受け取り、それからマイケルと固い握手を交わした。