混乱(1)
郁夫と美佳は、ホロ付きトラックの荷台にいた。
――北へ行け。タマネギの里を目指すのだ。
夢の中で根岸から与えられた指示はそれだけだった。多摩里大学から逃走した二人は衣服を乾かしがてら近隣の山中に身を隠し、そこで根岸から指示を貰ったのだ。
日はとうに暮れている。
コンビニで購入した地図を確認したところ、タマネギの里は栃木県の北部に位置していた。とてもではないが、徒歩で行ける距離ではない。そこで美佳がヒッチハイクをし、街道を往く運送屋のトラックを止めた。郁夫は当然ながら怪しい防護服姿であったが、美佳が謎の交渉力を発揮し、すんなりと乗せてもらえたのだった。
「ねえ、先生。何度読んでも意味不明なんですけど」
手記を読み終えた美佳が膝を抱えながら零す。
「そんなこと言われても、俺だって意味が分からないよ」
郁夫は不貞腐れ気味に応じた。
必死の思いで手に入れた根岸メモであったが、その内容は、神崎の言う通り、役に立ちそうになかった。根岸は理系ではないものの研究者だ。手記には論理的な内容が記されているものと思ったのだが、期待は外れ、そこに書かれていたのは単なる日記だった。
日記は、根岸が日本に帰国し、多摩里大学に監禁されたところから始まっている。日付はタジキスタンで古代タマネギを食べた五日後だ。当然ながら、その時には既に根岸はタマネギ男と化しており、全身からガスを発している状態だった。だが文章を読む限り、慌てている様子はなく、淡々と事実のみが書かれている。
そこから数ページに亘って代わり映えのしない日常が続くのだが、監禁されてから約一週間後、変化が訪れた。現在の郁夫と同様、根岸の皮膚が、剥けたのだ。記載によれば剥けた皮膚は繁幸が回収している。つまり、繁幸も神崎もタマネギ男の皮が剥けるということは承知していたはずだ。ただ拳銃の弾を防ぐほどの強度があるとは思いもしなかったことだろう。
その後、根岸は、二、三日置きに脱皮を繰り返し、その度にタマネギ体型に近付いていった。あわせて、意識の混濁だろうか、徐々に筆跡が乱れ、書かれている内容は意味不明なものに変化していき、やがて監禁から一か月もすると、『タマネギ素晴らしい』、『タマネギ凄い』、『タマネギは世界を席巻する』といった、タマネギへの称賛の言葉だけがページを埋め尽くしていた。根岸メモ全体で見れば、その称賛の言葉が大半を占めている。
郁夫にしてみれば、これから自身にどんな変化が訪れるのかを知れたことは収穫であったが、本当に知りたいことは、タマネギの呪いの解消法だ。しかし、そのことに関しては一切記述がなかった。強いてあげるならば、最後の一文が意味深ってことぐらいだ。
考えを巡らせている最中、美佳が手記を見ながら呟く。
「復讐の時は来た、か……」
それは最後の一文。郁夫が視線を向けると、彼女は話を続けた。
「先生、根岸准教授は多摩里大学で完全にタマネギになっちゃったんだよねえ?」
「そうだな。手足が棒みたいになって、そのまま研究室で意識を失ったよ」
「要するにさ、最後の一文は、字を書けなくなる直前のものってことでしょ? 自分を閉じ込めた神崎って人達に復讐をしたい気持ちは分かる。でも、一体どうやって復讐をするつもりだったの?」
「俺が知るわけないだろ」
「根岸准教授の記憶があるんじゃないの?」
「だから前にも言ったけど、手記は根岸さんが何かの力に操られて書いたもので……」
そこまで言って思い至った。
「美佳ちゃん、それ、誰が誰に復讐しようとしてるんだ?」
「ん? 普通に考えれば根岸准教授が武器商人達に復讐をしたがっているって読み取れるよ。もちろん長沢先生の話を今更疑うつもりはないけどさ」
「だけど、そうなると、一体どうやって復讐をするつもりだったんだよ」
「それをわたしは聞いたんでしょ」
「根岸さんは、タマネギの力が継承されることを知っていた、とか?」
郁夫がそう問うと、美佳は短く唸り声をあげた。
「うん、それはあり得るかもね。そして、復讐のあてがあったのかも。よくよく考えてみれば、不自然なことが幾つかあるんだよね」
「え? 例えば?」
「まず、監禁を行なっていたのに警備が手薄だったってこと。繁幸教授の研究室から逃げる時には追手がかからなかったし、多摩里大学に至っては施設に鍵が掛かっていなかったんだよね。次に、先生が着ている防護服は誰が用意したのかってこと」
「これは美佳ちゃんが警察から奪ったんだろ」
「そうじゃなくて、多摩里大から逃げる時、出口にそれが畳んで置いてあったでしょ」
「言われてみれば」
「つまり、わたし達には協力者がいる」
「協力者? 誰?」
美佳は根岸メモをパタンッと音をたてて閉じ、それを指差しながら言った。
「このノートをわたし達に託した人だよ」
「オヤジが? まさか」
「でも、そう考えるのが自然でしょ?」
郁夫の脳裏に繁幸の言葉が蘇る。郁夫は、重々しく口を開いた。
「オヤジが俺を助けるわけがないよ。あいつは、俺のことを研究材料って言ったんだ」
「周りの人達を騙すための演技じゃないの? なにより、家族なんだし」
「あのオヤジは母さんも見殺しにしたんだ!」
八つ当たり気味にそう言うと、美佳は申し訳なさそうに視線を落とした。
その姿を見て落ち着きを取り戻し、すぐさま謝罪をする。
「あ、美佳ちゃん、ごめん……」
美佳は、首を傾げて笑った。
「ううん、平気……」
それからしばらくして、車が止まった。荷台の外の様子を探るために耳を澄ますと、扉の開閉する音が響き、運転手の声が聞こえてきた。
「おい、着いたぞ」
どうやら、目的とするタマネギの里に到着したようだ。郁夫と美佳は、互いに目配せをし、荷台から降りた。空気が冷たい。防護服越しでも寒さが伝わってくる。東京からわずか百キロほどしか北上していないのに、環境が大きく異なる。
運転手も同じことを思ったのか、心配そうに尋ねてきた。
「お嬢ちゃん達、ホントにこんな何もない寒い所で降ろして良いのか?」
それに対して美佳は明るい笑顔で、「大丈夫です」と言い、深々と頭を下げてから感謝の言葉を口にした。運転手はその様子を認めると、小さく手を振って車に乗り込んだ。
トラックが、遠ざかっていく。すると、美佳が冷めた面持ちで呟いた。
「さて、これからどうしましょうね」
美佳の視線の先には、運転手の言っていた通り何もなかった。道沿いの電信柱に、『タマネギの里』と書かれた立て看板があるだけで、辺りは一面、畑だ。タマネギの里というのは、ただのタマネギの産地のことのようだ。
「俺さ、タマネギの里ってテーマパークかと思ってたよ」
「どんなテーマパークよ、それ」
「とりあえず、一眠りして根岸さんに次の指示を貰わないとな」
「でも、さすがにこの寒さで野宿は辛いよね」
郁夫は周辺を見渡し、美佳に提案をした。
「誰かに、宿はないか聞いてみるか」
美佳が呆れたように返事をする。
「誰かって、誰もいないでしょ」
「でも、雑踏の音が聞こえるし、街は近いだろ?」
「はい? そんな音、聞こえないよ」
話が噛みあわず、少しばかり気まずい。
その雰囲気を払拭しようとしたのか、美佳は、おどけた調子で言葉を継いだ。
「どちらにしても、わたし達は指名手配中のテロリストなんだから、気安く人に声を掛けるわけにはいかないでしょ。どっか、暖を取れる場所を探そ」




