救出(4)
校舎内は静かだった。施錠されていなかったので、繁幸、あるいは大学関係者がいると思われるが、誰の姿も見えない。少なくとも神崎の部下の気配は感じられなかった。しかし悠長に構えている余裕はない。美佳の言う通り、敵を殲滅したわけではないのだ。
郁夫は走った。まずは四階を目指す。迷うことはない。施設内の景色を見れば見るほど記憶が鮮明に蘇ってくる。ただしそれは、郁夫自身のものではなく、根岸の記憶。
四階に辿り着くと、その感覚はより如実となり、辺りの景色を懐かしく感じられるようになった。ここに来るのは久しぶりだな。そんなことさえ思う。
「そこの角部屋が俺の、いや、根岸さんの研究室だ」
走りながらそう言うと、美佳は無言で頷いた。
部屋の入口は一年前と何も変わっていなかった。中央に鍵穴のあるドアノブ。窓のない木製の白い扉。郁夫はその扉の前に立つと、さっそく開けようとした。
「ちっくしょ、鍵が掛かってる」
どうしよう。そう思った時、美佳が廊下に設置されている消火器を高く持ち上げた。
「先生、扉から離れて」
眼前に消火器が迫ってくる。ヤバイ、殺される。
「ちょっ、まっ!」
振り下ろされた消火器は郁夫の身体のすぐ横を通り、ドアノブを破壊した。
既視感に襲われる。以前、似たような状況があった気がする。というより、あった。それは根岸の記憶ではなく、郁夫本人の記憶。
「美佳ちゃん、無茶しないでくれよ!」
「先生、扉が開いたよ」
美佳は郁夫の言葉を聞き流し、部屋に入っていった。郁夫も後に続く。
室内は整然としていた。ただし長く使用されていなかったせいか、至る所に埃が積もっている。それを払いもせず、郁夫は、本棚、机の引き出し、冷蔵庫の中など、隅々を漁った。メモの記されたノートの外観は把握している。薄茶色した小さなリーフノートだ。視界に入りさえすれば一瞬で分かるのだが、一向に見つからない。
「先生、まだ?」
部屋の入口で外を警戒している美佳が言った。
急がなければならないことは分かっている。しかし見当たらない。郁夫は逸る気持ちを落ち着かせ、既に調べ終えた机を再度確認しようとした。その時、気が付いた。机の上の一角にのみ埃が積もっていなかったのだ。何かが最近まで置いてあった形跡だ。四角く切り取られたようなその形跡は、郁夫の求めるノートと同じ大きさだった。
「クソッ、オヤジが根岸メモを持ち去ったんだ」
「じゃあ、すぐにここを離れよう」
記憶を巡らせる。可能性を考える。
「オヤジは調べ物をしていた。そうなると図書館にいるかもしれない。いや、さっき間もなく研究所に来るって言っていたから、今頃は俺が監禁されていた場所かも……」
「先生!」
思考の運びを遮るように美佳が叫んだ。郁夫は我に返り、美佳のことを見た。
「美佳ちゃん、もう少しだけ」
「先生、やっぱり一旦諦めよう。態勢を整えてから改めて探すことにしようよ。それに時間が経てば、根岸准教授の記憶は先生の中にあるんだから、手記がなくても内容を思い出すかもしれないでしょ」
「それは無理だ。手記を書いたという記憶はあるけど、その内容は根岸さんの意思によるものではなくて、もっと別の力が……」
そこまで言うと、脳裏に靄が掛かった。
――力が、欲しいか?
郁夫は頭を抱えた。お構いなしに美佳が急かす。
「どちらにしても、いまは逃げよう。捕まったら先生は死ぬまで実験動物にされちゃうんだよ。そんなことになったら元も子もないでしょ!」
その言葉を聞いて思う。違う。悲惨な目に合うのは自分だけではなく、美佳に至っては殺されてしまうかもしれない。郁夫は、視線を落として頷いた。
「わ、分かった。今日は、逃げよう」
美佳が即座に郁夫の手を引く。二人は出口へと走った。窓から外を見る限り人の姿は見えない。いまなら無事に逃げられるだろう。だが、すぐにその考えを改めざるを得ない状況に陥った。屋外に出た瞬間、銃声が鳴り響いたのだった。
恐る恐る振り返ると、そこには、銃を構える神崎が立っていた。
発砲自体は脅しだったようで二人とも怪我はしていない。しかし、銃口がこちらを向いていて身動きを取ることが出来ない。郁夫と美佳は、黙って神崎を見つめた。
神崎は近付いてこなかった。いや、ガスマスクを装着していないため、近付けないと言ったほうが正確だろうか。ただし両脇に鈴木と田中らしき防護服を着た人物を従えているので、このままでは時間の問題で捕縛されてしまう。
そんなことを思っていると、おもむろに神崎が口を開いた。
「はじめまして、小娘さん。君が警報を鳴らしたお陰で、一張羅が水浸しだ」
声を掛けられた美佳は強気に応じた。
「洗濯する手間が省けて、涙が出るほど嬉しかったんじゃないですか?」
「悪い子にはお仕置きが必要みたいだな。君達、素直に研究所に来るんだ」
「お断りします、って言ったら?」
少し間があってから、神崎は美佳を睨みながら口角を引き上げた。
「おい、小娘。お前、撃たれないと思ってるだろ?」
神崎の人差し指が引き金を絞る。
「美佳ちゃん!」
咄嗟に郁夫は美佳の前に躍り出た。同時に、乾いた破裂音が響き、銃弾が郁夫の脇腹に突き刺さる。郁夫は、片膝をつき、それから仰向けに倒れた。
「先生!」
美佳が駆け寄り、郁夫の手を握る。
「美佳ちゃん、俺はもうダメだ。お腹がヤバイ。これ死ぬ。絶対死ぬ」
「先生、弱気なこと言わないでよ」
「美佳ちゃん、いままで、ありがとう。楽しかったよ。でも、もうお別れだ。受験、頑張れよ。俺が教えた通りにすれば、君なら合格できるさ」
「しっかりしてよ先生。先生がわたしに勉強を教えたことなんてないでしょ」
このような状況においても美佳の指摘は的確だ。それでも郁夫は感動的な場面を演出しようと、「み、美佳、ちゃん」と、苦しそうに喘いでみせた。
ところが美佳は、涙を流すどころか目を丸くして、意外な言葉を口にした。
「せ、先生、血が出てないよ」
「そんなわけ……」
撃たれた箇所を見てみると、確かに出ていなかった。それだけではなく、よくよく考えてみれば大して痛くもない。
美佳が手際よく郁夫の服をめくり、傷口を確認する。
「な、なにこれ……」
その銃創の刻まれた箇所は、周辺の皮膚と共に捲れ上がっていた。
郁夫は更に状態を確認しようと、自らの脇腹に触れてみた。すると、ズルリという湿った感触がし、胴体前面にある皮膚、というより、厚さ一センチほどの肉が、剥けた。
「いやぁぁぁ、先生ぇぇぇ!」
美佳が叫ぶ。
その悲鳴を聞いた神崎が舌打ちをし、隣にいる防護服姿の人物に声を掛ける。
「死んだのか? 田中君、確認をしてきてくれ」
「私は鈴木です」
「あ、ああ、じゃあ鈴木君、確認してきてくれ」
指示を受けた鈴木が近付いてくる。
傷と銃弾は肉と共に剥がれ、その下から新たな皮膚が姿を現していた。結論を言えば、全くの無傷だ。しかし郁夫は、あえて死んだ振りをし、小声で美佳に話し掛けた。
「美佳ちゃん、聞いてくれ。そのままの姿勢で泣いた振りをするんだ」
「振りなんかしなくても、普通に気持ち悪くて泣きそうだよ。なんなのこれ。皮が剥けるなんて、まるで先生、タマネギみたいだよ」
「さ、最近、タマネギ男って呼ばれているよ……敵が来たぞ」
目を瞑り、ガクッという擬音が鳴りそうな勢いで首を垂らす。
美佳は指示通り、郁夫の身体に突っ伏して泣いた振りを始めた。
「馬鹿! 死んじゃうなんて本当に馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。先生の馬鹿。とっても馬鹿!」
馬鹿と言い過ぎだ、と思う。
それでも鈴木はなんら疑っていないようで、悠々とした足取りで近付いてくる。そして美佳の身体を引き剥がすと、郁夫に顔を寄せてきた。
郁夫はそこで目を開き、鈴木のガスマスクを奪った。直後、悲鳴が響く。
「ノォォォ!」
スローモーションと見紛うほどにゆっくりと、鈴木が泣きながら崩れていく。
すかさず立ち上がって、その身体を支える。鈴木の身体は水分が失われたことで既に軽い。そんな状態の彼を盾の代わりにして、郁夫は、神崎に訴えた。
「銃を捨てろ! 鈴木さんが干乾びても良いのか!」
ところが、返ってきたのは銃を捨てるというアクションではなく、銃弾だった。
鉛の弾が頬をかすめ、血が流れ出る。ただし、その頬は鈴木のもの。
「おいおいおい! 鈴木さんが可哀そうだろ!」
「お前が人質にしてるんだろ」
「クソッ、正論だ!」
「ちょっと先生、一ターンで言い負かされないでよ」
そんなやり取りをしている間も鈴木は涙を流し続けている。このままでは干乾びて本当に死んでしまうだろう。願わくは死なせたくない。しかし、いまの状況で人質という名の盾を失えば、戦況は悪くなる一方だ。
長く感じられる一瞬の牽制の時が過ぎ、神崎が改めて銃の狙いを定める。
「理由は分からないが、銃撃を受けてもお前は死なないみたいだな。だったら、身動きを取れなくなるまで、遠慮なく鉛弾を撃ち込ませてもらおうか」
その目は本気だ。神崎の言う通り、タマネギ男は多少の攻撃であれば無効化できるようだ。だが、どこか一箇所を集中的に狙われでもしたら、どうなるかは分からない。
もはや万事休す。そう思った時、馴染みのある声がした。
「神崎君、私の研究材料を傷付けないでもらいたいね」
いつの間にか神崎の背後に、メガネを掛けた白髪交じりの男、繁幸が立っていた。
「オヤジ……」
呟くが、繁幸は一瞥もくれず、なおも神崎に話し掛ける。
「タマネギ男の動きを封じたところで、ガスマスクをしていないのでは回収が困難だ。なにより、火災警報が鳴った上に銃声が響いたとあっては、間もなく警察が駆けつける」
神崎は視線をこちらに向けたまま不敵な笑みを浮かべた。
「長沢教授、私には友人が多いのですよ。裏から手を回せば黒いものも白く染まります」
「過信しないほうが良い。世の中には真実を探求しようとする者が少なからずいる」
「教授のようにですか?」
「そうだな」
そう言って繁幸は郁夫のほうに向き直り、一冊のノートを投げた。
「郁夫、いや、タマネギ男、それはお前が欲しがっていた根岸メモだ。その内容を解読しようとしたが、私では無理だった。そこでお前に託す。今日は見逃してやるので、次に会う時までに解読をしておけ。これは宿題だ」
郁夫は、顔を引きつらせながら繁幸を睨んだ。
「随分と偉そうだな。俺を完全に自由にする気はないのかよ」
「当然だ。私が私であるために、研究を断念するわけにはいかない」
更に反論をしようとしたが、そのタイミングで美佳が根岸メモを拾い上げ、話を遮るように郁夫の手を引いた。
「先生、いまのうちに逃げよう」
冷静になって見てみると、神崎が銃を下ろしている。どうやら神崎も逃げることを黙認したようだ。郁夫は歯痒さを抱きながらも小さく頷いて、鈴木の身体を投げ出し、美佳と共に門へと走った。
「ところでさ、先生」
「なに?」
「どうして一緒に電車に乗ってたのに、一人で捕まっちゃったの?」
「え? あ、ああ、その、深呼吸をしたくて電車を降りたら見つかっちゃったんだ」
「もう、しっかりしてよ……」