救出(3)
郁夫は頭の中で羊を数えていた。起きていると不吉なことばかり考えてしまうため、出来るならば夢の中へ逃避したいのだが、どういうわけか眠ることが出来ない。昨晩から一睡もしていないので、普段の自分ならば寝るなと言われても寝ている。
そうして羊の数が一万を超えた頃、郁夫は断念し、ベッドの上で体育座りをした。
「どうせ夢といっても、タマネギ姿の根岸さんが現れるだけなんだろ」
一人ごちる。すると既視感を覚えた。かつて、いまと同じように、ここで体育座りをしていた気がする。過去に来たことがあるのだろうか。いや、一度もない。
ふとわけもなく、そういえば、と思う。
郁夫は、ガラスの向こうにいる防護服を着た人物に声を掛けた。
「あの、田中さん」
「私は鈴木だ」
「す、すみません、鈴木さん……」
田中と鈴木は昨日のことがあったせいか、ガスマスクに対する愛が育まれたらしく、ガラス部屋の外にいる時でさえ常に完全防備だ。お陰で二人の区別がつかない。
「鈴木さん、聞きたいんですけど、ここって根岸准教授が監禁されていた場所ですか?」
「ああ、そうだ」
「やっぱり、そうですよね」
これまでに知り得た情報から、根岸の辿った道を推測することが出来た。
一年前、古代遺跡から戻った根岸は勤め先である多摩里大学でタマネギ男になった。その情報を聞きつけた神崎は研究プロジェクトを立ち上げ、毒の権威である繁幸を招聘したに違いない。根岸メモがここで書かれたことを考えると、根岸は、完全にタマネギになるまで、多摩里大学で過ごしていたことになる。そしてタマネギになった後、繁幸の研究所へ運ばれることとなった。その輸送途中のものを、食べられてしまった。
では、いま現在、根岸メモはどこにあるのか。答えは、ここ、多摩里大学だ。
根岸メモを求めているということを、なぜ神崎や繁幸に知られてしまったのかまでは分からない。ただ、ここで待ち受けていたということは、メモはずっと多摩里大学に保管されていたと考えられる。神崎の話し振りから察するに、これまで根岸メモは重要視されていなかったようだ。繁幸にしても、急に興味を示し、まさにいま、内容を調べている。
繁幸は間もなく訪れるということなので、近くにいる。近くで調べ物をしている。つまり、いま、この学内で、根岸メモは、繁幸に読まれている。
そこまで考えが至った時、頭の奥のほうで一つの映像が瞬いた。
植物の根のように細い腕が、一冊のノートを握っている。
――この手記を、私の研究室で保管してくれ。
これは、根岸の最期の記憶だ。根岸メモは、考古学の校舎にある。
しかしそれが判明したところで、もはや手の打ちようがない。
「鈴木さん、根岸メモって見せてもらえないんですかね」
ダメ元で尋ねてみるが、答えは、「ノー」の一言だけだった。
せっかくここまで辿り着いたのに。そう諦めた時だ。突如、ジリジリと火災警報が鳴り響いた。続けて、天井から水が降り注ぐ。
「一体、何事だよ!」
叫ぶと、ガラスの向こう側からも叫び声がした。
「グアァァァ!」
「なんだこれは! 乾くぅぅぅ!」
「め、目がぁぁぁ!」
様子がおかしい。強面の男達がタマネギガスを浴びたかのように苦しんでいる。
防護服を着ている鈴木と田中が、状況を確認するため奥の扉へと向かった。瞬間、その扉が勢い良く開き、白い粉末が噴射された。
その粉末による煙の向こうに誰かがいる。郁夫は、その人影を見て叫んだ。
「美佳ちゃぁぁぁん!」
そこには、消火器を手にした美佳が立っていた。全て美佳が画策したことなのだろう。
あまりの嬉しさにガラスに張り付く。すると、美佳が駆け寄りながら言った。
「先生、ガラスから離れて」
「へ?」
美佳は走る勢いそのままに消火器を振り上げた。ヤバイ、殺される。郁夫が咄嗟に後方に跳ぶと同時にガラスの壁は粉々に砕け散った。
「美佳ちゃん、この部屋は鍵が掛かってないよ!」
「そういうのは早く言ってよ!」
「言う余裕なんてなかっただろ!」
「ゴチャゴチャ言ってないで、逃げよう!」
一連のやり取りの間、鈴木と田中は何もしてこなかった。ゴーグルに消火器の粉末が付着して、視界を奪われたままのようだ。これで逃げられる。
だが、早くも神崎の部下が正気を取り戻しつつあった。倒れていた者達もゾンビのように起き上がってくる。おかしい。ガラスが破壊されたいま、マスクをしていなければタマネギガスの影響を受けるはずだ。
状況を察したのか、美佳が言う。
「やっぱりね」
「ど、どういうことだよ!」
「いわゆるタマネギと同じだよ。タマネギは、冷やしたり、水に晒したりすることで、目に沁みなくなるでしょ。スプリンクラーから水が撒かれていることで、タマネギガスが拡散しづらくなっているんだと思う」
「よし、それなら」
拳を強く握り締める。手から汗が滲みだす。郁夫は、「くらえ!」と、それっぽく叫んでから、その搾りたての高濃度タマネギエキスを淡々と男達に振りかけた。
「プッシャァァァッ」
「プッシャァァァッ」
「プッシャァァァッ」
男達の目から勢い良く涙が噴き出す。もはや辺りの水は、スプリンクラーによるものなのか、涙によるものなのか、判別が出来なくなっていた。舞い散る飛沫に照明の光が当たり、虹が出来る。その虹のゲートをくぐって、二人は屋外へと向かった。
びしょ濡れになりながら、どうにか研究所から脱出すると、そこには場違いな物があった。郁夫の着用していた防護服だ。綺麗に畳まれたスーツとフード、美佳の改造したガスマスク、それらが一式揃って地面の上に置いてあったのだ。
「なんで、こんなところに?」
郁夫は神妙な面持ちでそう呟いた。
「どうしてここにあるのかは分からないけど、これがあれば逃走の幅が広がるよ」
美佳はそう言って防護服を拾い上げ、郁夫に投げて寄越した。そして、すぐに背を向けて門の方向へと駆け出した。その背中を見て、慌てて告げる。
「美佳ちゃん! ダメだ。根岸メモを回収していない」
美佳がすぐさま振り返る。
「はあ? 先生、状況を見てよ! 敵の中には倒れていない人もいた。水は流れたままだから毒の力がどれほど維持できるか分からない。それに、わたし達が気付いていないだけで、隠れている敵もいるかもしれないんだよ!」
「それでも! いまメモを見失ったら今後の所在が分からなくなる。いまなら、この大学にあるんだよ。考古学の校舎、根岸さんの研究室に!」
「どこにそんな保証があるの。だいたい研究室の場所を探すのでさえ手間でしょ」
そこで郁夫は後ろを向いた。立ち並ぶ棟が見える。同時に、激しい既視感に襲われる。
「美佳ちゃん、研究室の場所なら分かるよ。俺は、この大学のことに詳しい」
そう、根岸の記憶が、教えてくれる。
美佳は、郁夫の真剣な雰囲気に気圧されたのか、引き返してきた。
「分かった。じゃあ案内して。ただし、危険だと判断したらすぐに逃げるからね」
郁夫は頷いて、目的とする校舎を見据えた。