救出(1)
警察の振りをするための防護服は、思いのほか役に立った。お陰で、郁夫は電車に乗ることが出来たのだった。
警察車両は無線によって常に位置情報を捕捉されてしまうため、早々に乗り捨てた。それ以前に郁夫の運転があまりにも怪しかったので、仮に強奪したのが一般車両だったとしても、現地に到着することは難しかっただろう。タマネギの呪いで生命を落とすよりも先に、自らの運転で生命を落とし兼ねない。
結果、再び歩くこととなったのだが、東の空が明るくなり始めた頃、電車の音を耳にした郁夫は乗ることを提案した。防護服でタマネギガスを封じてさえいれば、辺りに人がいようと困ることはない。そう考えたのだ。美佳は渋っていたが、電車の素晴らしさについて長時間のプレゼンを行なったところ、どうにか納得してくれた。美佳曰く、『話を聞くのが面倒臭くなった』とのことだ。
ニッポンのサラリーのマンは働き者が多い。早朝だというのに車内は混んでいた。それでも偶然、座席が一つだけ空いていたので、郁夫は美佳に座るよう勧めた。
「美佳ちゃん、疲れてるだろ?」
「先生だって疲れてるでしょ。座りなよ」
「いや、俺は全然余裕」
実際にはかなり疲弊していた。一晩中、眠りもしないで歩いていたのだ。とはいえ、多摩里大学の最寄り駅までは三十分ほどだ。その程度の時間であれば立っていられる。なにより、美佳の体力のほうが心配だった。
郁夫の言葉を聞いた美佳は珍しく恐縮した表情をし、シートに腰を掛けた。
「先生、荷物持つよ」
「サンキュ」
リュックや寝袋など、荷物一式を美佳に託すと、彼女はそれを抱えて、ウトウトとし始めた。短時間ではあるが、眠らせてあげよう。そんなことを思い、郁夫は吊り革に捕まって窓の外を流れる景色を眺めた。
その後、二つ三つ駅を過ぎた時、郁夫の背後に人が立った。混んでいるとはいえ、不自然なほどピタリと身体を近付けてくる。痴漢か、とも思ったが、どうも様子が変だ。
背中に意識を集中すると、鋭く尖った物の感触がした。
「長沢郁夫だな? おっと、変な動きをするなよ」
耳元でそう言われ、郁夫は小声で応じた。
「どうして、この人混みの中で俺を特定できたんだ」
「お前、その防護服は目立ってるぞ」
「クソッ、盲点だった」
「さて、俺の指示に従ってもらおうか」
ナイフらしき物を背中に強く押し付けられる。
「近頃の警察は、随分と物騒な逮捕の仕方をするんだな」
「残念ながら、俺は警察じゃない」
ふと、美佳の言っていた『誰かがタマネギガスを利用したいんだと思う』という話を思い出す。そこで郁夫は、虚勢を張った。
「お前はタマネギ男の力が欲しいんだな? だったら俺を殺せないだろ。そんな刃物は脅しにならねえよ」
「なかなか機転が利くようだな。位置情報の偽装や警官の変装をしただけのことはある」
実際には全て美佳の発案だ。だが誇らしげに、「まあな」と返事をしておく。
「しかしだ、俺がこのナイフで切るのは、お前の身体ではなくて、その防護服だ」
「なんだと」
「この逃げ場のない空間でガスが放たれれば、死人が出るぞ。そこで眠っているお前の可愛い彼女を死なせたくはないだろ」
郁夫は音量を抑えつつも、怒りを込めて声を発した。
「その子は、残念ながら俺の彼女じゃない!」
「ム、ムキになるなよ。とにかく、誰も死なせたくないなら言うことを聞け」
その声色で本気であることが察せられる。おそらく敵はガスマスクを所持しているのだろう。美佳もガスマスクを持ってはいるが、眠っている状態では対処が遅れる可能性がある。それに、他の乗客に関しては確実に被害に遭うこととなる。
郁夫は諦めて、「分かった」と告げ、こう付け加えた。
「その代わり、美佳ちゃ、あ、彼女には手を出さないでくれ」
敵の頷いた気配がする。
「では、次の駅で降りてもらおう」
美佳が目を覚ますと、郁夫の姿がなかった。
電車は終点である多摩里大学の最寄り駅で停車している。まさか郁夫は一人で大学に行ってしまったのだろうか。あの寂しがり屋が、そんなことをするとは思えない。しかし実際問題、郁夫の姿はどこにも見当たらない。
どうしたものか。少し悩みはしたが、いずれにしても目的地は決まっている。郁夫が先に行っているにしても、どこかで寄り道をしているにしても、多摩里大学に行けば合流できるかもしれない。
「あの人は、まったく……」
美佳は、リュックを背負って駅を出た。
大学までは一本道だ。普段ならば学生達で賑わっている通りなのだろうが、春季休業の最中ということもあってか、人は少ない。その上、学生向けの食堂や書店なども、開店時間になっていないだけかもしれないが、軒並みシャッターを下ろしている。静かだ。その静けさの中、美佳は呼吸の音を響かせて歩いた。
道はやや上り坂になっていたらしく、門の目の前に辿り着いた時には、全身が汗ばんでいた。思えば、昨日はシャワーも浴びていない。どうしてこんな目に合わなければならないんだ、と無性に腹立たしくなる。そうはいっても、タマネギの呪いの結末を確認しないわけにはいかない。このままではテロリストにされてしまうのだ。
仕方ない。自分自身に言い聞かせ、美佳は郁夫の姿を求めて、また歩きだした。そうして門をくぐろうとした時、黒塗りの車がすぐ横を通り抜けていった。
その車の後ろ姿を睨みながら呟く。
「へえ、大層なご身分になりましたね」
車には、強面の男達と、白い防護服を着た人の姿があった。