衝突(3)
部屋に入ると、郁夫は真っ先に大きなベッドに飛び込んだ。
「だぁぁぁ! フッカフカだぁぁぁ!」
そんなテンションの郁夫に対し、美佳は至って冷静に述べた。
「そこどいてくれる? 先生はお風呂場に行って換気扇を点けて寝てね」
「マジで?」
「そうしないと、わたしはガスマスクを外せないでしょ。こんなのをずっと装着していたら、顔中ニキビだらけになっちゃうよ」
「ま、そうなんだろうけどさ……」
「寝袋もあるし、ほら、浴室は広いよ」
美佳の指し示したほうを見ると、そこはガラス張りになっており、その向こう側には浴室があった。確かに広い。
「分かったら、先生は退散して」
渋々立ち上がる。美佳は空いたベッドの上にうつ伏せに寝そべった。よほど疲れていたのだろう。郁夫は、その背中に向かって、おどけた調子で声を掛けた。
「いやぁ、美佳ちゃん、今日は本当にありがとう」
「どぉ、いたしましてぇ」
力のない言葉が返ってくる。
「それにしてもさ、美佳ちゃん、どうしてそんなに協力してくれんだよ」
なんとなしに尋ねると、美佳は身体を転がして、横向きの姿勢になった。
「協力しないほうが良かった?」
「いやいや、凄え助かってるよ。単純に、どうして美佳ちゃんはそんなに天使なのか気になっただけだよ」
美佳は一瞬だけ考える素振りを見せ、それから語りだした。
「今日、先生の話を聞いた時から違和感があったんだよね。まあさ、先生の話だし、そこまで気にはしてなかったんだけど」
「違和感って、どんな?」
「古代遺跡の中で調査隊員四名が亡くなってるんだよね。根岸准教授のことを調べる際にスマホで検索もしたけど、先生の話と同じ記事がヒットしたよ」
「それは表向きの話な」
「なんで?」
「なにが?」
美佳は身体を起こしてベッドの上に座り、再び話し始めた。
「いい? 人がタマネギになるって、素人考えでも世紀の大発見だよ。それなのに、どうしてそれを隠蔽したの?」
「言われてみれば、そうだな」
「わたしが思うに、誰かがタマネギガスを利用したいんだと思う」
「利用って、こんなの人を攻撃することくらいにしか使えないぜ」
「じゃあ、人を攻撃するのに使うんじゃない?」
顔を引きつらせ、「まさか」と呟く。
「根岸准教授は、一年前に遺跡で死亡したことにされ、その後、非人道的な実験を受けたと考えるのが妥当でしょ。事実、長沢先生だって監禁されてるし、わたし達はテロリストに仕立て上げられている。もし捕まりでもしたら、わたしは……」
美佳は、親指で自身の首筋をなぞった。
「そ、そんな、うちのオヤジがそんなこと……」
そこまで言って、郁夫は考え直した。
「あ、いや、うちのオヤジなら、やりかねないな」
沈んだ空気を払拭するように、美佳が明るい声を発する。
「だからさ、抵抗してやろうって思ったわけ。一か八か、タマネギの呪いを台無しにしてしまえば、先生もわたしも助かるかもしれないでしょ」
「お、おう。気のせいか、美佳ちゃんから後光が射して見えるよ」
ガスマスクがあって目元しか見えないが、美佳が微笑んだのが分かった。
「さてと、先生、今日はとりあえず寝よう。もう遅いし」
壁掛け時計を見ると、既に午前一時を過ぎている。
「そうだな。良い子は寝る時間だ」
「他の部屋の人達は、寝てないみたいですけどねぇ」
美佳は冗談のつもりでそう言ったのだろう。ところが耳を澄ましてみると、本当に他の部屋から人の動いている音が聞こえてきた。パタン、パタンという、扉の開閉する音だ。
「こんな時間に外出でもしてんのか?」
そう呟くと、美佳が真剣な目をして窓際に向かった。郁夫も後を追う。
窓にはブラインドカーテンが備え付けられており、二人は、その隙間から外の様子を覗き見た。眼下にはホテルの駐車場が広がっている。そこには黒いワゴン車が四台並んでいた。全く同じ車種が何台も並ぶなんて不自然だ。
息を殺して駐車場を観察し続けていると、やがて、ホテルから大勢の人達が列を組んで出てきた。宿泊客のようだ。しかも、その列を誘導しているのは警官だった。
どっと手汗が滲む。郁夫は怯えながら美佳に告げた。
「ヤ、ヤバイ、警察だ」
美佳が落ち着いた声色で呟く。
「準備が良過ぎる。まるで、あらかじめこの周辺を巡回していたみたい」
よくよく見てみると、ワゴン車の周辺には白い防護服を着た警官もいた。警察は本気のようだ。逃げなければならない。だが、先程と同じようにはいかないだろう。
「み、美佳ちゃん、良いアイデアある?」
「先生も少しは考えてよ!」
「お、仰る通りでございますです」
郁夫は警官達のことを改めて見てみた。随分と落ち着いている様子だ。車は覆面パトカーで、サイレンも鳴らしていなかった。その上、民間人の避難までしている。充分に準備を整えてから、気付かれないように突撃をするつもりだったのだろう。その証拠に、防護服を着ている警官の中には、まだガスマスクを装着していない者もいる。
「美佳ちゃん……」
郁夫は呟いた。
「なに?」
美佳が面倒臭そうに返事をする。
「美佳ちゃん、良いことを思い付いたよ。ペットボトルを用意して」
「え? さっきのお茶のボトルで良い?」
美佳は怪訝な面持ちで空のペットボトルを取り出した。郁夫はそれを受け取ると、蓋を開けて拳を握り締めた。
ボタボタと、ボトルの中に手汗が落ちていく。それを見て、美佳が叫んだ。
「いやぁぁぁ、なにそれ、気持ち悪いぃぃぃ!」
「気持ち悪いって言うなよ! これは高濃度のタマネギエキスなんだ」
「もう常識が行方不明だよ」
そんな話をしている間に、ペットボトルは手汗で満たされた。
「まだ搾れそうだな。もう一本ボトルあるだろ?」
美佳が頷いてボトルを差し出す。郁夫はすぐさま再び拳を握った。ところが、徐々に手汗の分泌量が減り始めた。
「美佳ちゃん、搾るのを手伝って!」
渋々美佳が郁夫の拳を握り締める。すると、手汗が大量に流れ出た。
「いやぁぁぁ、わたしは他人の手汗を搾るために生まれてきたんじゃないのにぃぃぃ!」
「俺だって搾られるために生まれてきたんじゃないよ!」
やがて、そのペットボトルも満たされた。
「で、先生、それをどうするの」
そう言う美佳に、郁夫は一本のボトルを差し出した。
「一本は護身用に美佳ちゃんが持ってなよ。すぐに気化するから、ガスマスクを装着していない相手に対しては有効だよ」
「で、もう一本は?」
郁夫は誇らしげに、「見てろ」と言い、窓を開け放った。そして、蓋をしていないペットボトルを警官達に向かって投げつけた。ボトルがワゴン車に当たり、タマネギエキスが散る。直後、辺りにいる人々が悲鳴をあげて倒れていった。
なぜか美佳も悲鳴をあげる。
「いきなり宣戦布告!」
「見ろ! 民間人も含め二十人くらいは逝ったぞ!」
「馬鹿なんじゃないの。少しは考えてよ!」
「え、でも、かなり相手の戦力を削いだだろ」
美佳は片手で頭を抱え、もう片方の手で外を指差した。
「ほらほらほら、警察の人達が走って突撃してきたぁぁぁ!」
「ちっくしょ、結構生き残ってたな」
郁夫と美佳は急いで荷物をまとめて部屋を後にした。
とりあえず非常口を出て、鉄の階段を降りる。だが、階下から慌ただしい足音が聞こえてきた。ダメだ。既に全ての出口を押さえられているのかもしれない。
「先生、戻ろう」
言われた通り屋内に引き返す。かといって、状況が良くなったわけではない。
「あれ? ひょっとして詰んだ?」
走りながらそう言うと、美佳が元の部屋に入っていった。郁夫もそれに倣う。そしてベッドの所まで戻ると、美佳がバスローブの紐を取り出した。
「先生! わたしのことを縛って!」
突然の発言に、動揺しながら返事をする。
「え、いや、そういうアブノーマルなことは、ちゃんと段階を踏んでから……」
「なに言ってんの! 作戦を考え付いたから言うことを聞いて!」