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作者: mikoinrp

既に投稿した「妙子」「妙子2」と同様の軽妙な恋愛物語です。読んだらすぐに忘れてしまうような軽い物語ですが、読んでいる間は止められないような面白さを持つように書いたつもりです。

「キャー」

 「ヒャア」

 「あらあらあら」

 「あーあ」

 「ご免なさい。ちょっとこっち来て」

 「あーあ」

 「ほら、早く、早く」

 「うへー」

 「ちょっと上がって」

 「濡れちゃいますよ」

 「いいわよ。板張りだから濡れたって。あーあ、靴の中まで水が貯まってる」

 「弱ったな」

 「ご免なさい。今乾かすからズボン脱いで」

 「え?」

 「アイロンかけるから直ぐ乾くわよ、ほら脱いで」

 「はあ」

 「靴下も。あー、下着もびしょびしょね。あれ通信販売で買った散水器だから圧力が強いのよ。頑固な車の汚れも簡単に落とせるっていう奴なの」

 「はあ、水の圧力が痛かったです。何かぶつかって来たのかと思った」

 「下着も脱いで。何とかするから」

 「はあ、でも」

 「あ、そうか。ちょっと待って。怜ちゃーん、怜ちゃーん」

 「ウースッ」

 「ちょっとバスタオル持ってきて」

 「ウースッ」

 「あの子空手習い始めたばかりだからあんな返事すんのよ。返事だけ1人前になったつもりなの」

 「はあ、そうですか」

 「何すんの? バスタオル持ってきたけど」

 「こっちに頂戴」

 「そのおじさん誰?」

 「道路に水撒いてたらこの人にかけちゃったの」

 「母さんのやりそうなこと」

 「やりそうじゃなくて、やっちゃったの」

 「だから」

 「はい。ブリーフも脱いで」

 「いいです」

 「良くない。びしょびしょのブリーフなんか穿いてたら風邪惹くわよ」

 「大丈夫です」

 「恥ずかしがること無いの。その為にバスタオル持ってきたんだから」

 「私が」

 「何?」

 「バスタオル持ってきたのは私」

 「そうよ」

 「おじさん何やってんの? バスタオル掛けるんじゃなくて腰に巻くんだよ。寝るんじゃ無いんだから」

 「はあ、なるほど」

 「ぶきっちょだなー。もっと上に巻くの。そうで無いとブリーフ脱げないでしょ?」

 「あんた下着貸して」

 「何で?」

 「取りあえず何か穿かせないといけないでしょ?」

 「母さんの貸してやればいいじゃない」

 「私のは駄目。体の大きさ比べれば分かるでしょ」

 「そうか。デカイもんなー、そのケツは」

 「何ですか。もっと女の子らしい口のきき方しなさい」

 「大きいって言うとその偉大さが表現しきれないよ」

 「いいからあんたの下着持って来なさい」

 「それじゃ気に入らなくて穿いたこと無い奴でいい?」

 「いいわよ、何でも」

 「済みません。あの、別に無くてもいいですから」

 「駄目よ。ぶらぶらして気持ち悪いじゃない」

 「はあ、我慢しますから」

 「私が気持ち悪いでしょ。考えただけで」

 「はあ」

 「これなんだけど」

 「どれ。何これ?」

 「だからパンティ」

 「まるきり透けてるじゃない。あんたこんなの買ったの?」

 「まさか。義理チョコ贈っただけなのにそんなの贈って返す色ボケがいるのよ」

 「ホワイト・デー?」

 「そう。そんなの贈れば穿いて見せるとでも思ったんじゃない?」

 「穿いて見せるったって、これじゃ穿いてないのと同じじゃないの」

 「そうよ。だから裸を見せろっていうようなもんよ」

 「驚いた。ま、いいわ。無いよりマシでしょ」

 「は?」

 「はじゃないわよ。これ穿きなさい」

 「これ・・・ですか?」

 「我慢して頂戴。ぶらぶらさせてるよりいいでしょ?」

 「はあ」

 「小っちゃいけど伸びるから大丈夫だよ、おじさん」

 「はあ」

 「ほら早く」

 「あ・・・」

 「ちょっと後ろだけでいいから見せて」

 「ちょ、ちょっと」

 「やっぱりモロ透けだわ、厭らしい」

 「何見てんの」

 「どんな感じに見えるのかと思って」

 「どんな感じ?」

 「穿いてないのと同じ感じ」

 「厭らしい」

 「おじさん、良かったらお揃いのブラもあるけど、それもする?」

 「いえ、それはいいです」

 「まあ、ブラもあるの?」

 「そう。これとペアの奴」

 「それもしないの?」

 「しないわよ」

 「そんなら母さんが貰おうかしら」

 「いいけど小さいから無理なんじゃないかな」

 「押し込むから」

 「これだけど」

 「あら、それも透け透けね」

 「決まってんじゃない。ペアなんだから」

 「あら、これは伸びるからいいわ」

 「伸びるったって限度があるよ」

 「大丈夫。押し込むから」

 「押し込んでばっかりね」

 「何が?」

 「あっ、母さん、ズボンが焦げてる」

 「えっ? あっ」

 「あっ」

 「あーあ、焦げてはいないけどアイロンの跡が付いちゃった」

 「母さんは・・・何やってんのよ」

 「あんたが話しかけるからよ」

 「いいですから、それで」

 「格好悪いわね、お尻にこんなの付いちゃって」

 「アバンギャルドねー」

 「こっち側にも付けたらどうかしら。バランスが取れて少しは見良い感じにならないかしら?」

 「駄目よ、母さん。そんなの1つでも少ない方がいいに決まってんじゃない」

 「1つでも少ないって、たった1つしか付いてないのよ」

 「たった1つで十分。見てみなよ。このおじさん泣きそうな顔してるよ」

 「はあ、もともとこんな顔なんです」

 「そうなのか」

 「あの、もういいですから」

 「そうお? あ、怜ちゃん、あんた靴下も貸して」

 「白いのしか無いよ」

 「白でいいわ」

 「はい」

 「これは小さいですねぇ」

 「伸びるから入るでしょ?」

 「ええ、でも丈が」

 「ああ、婦人用のソックスってアンクルまでしか無いのよ。此処の骨、これ何て言ったっけ?」

 「くるぶしですか?」

 「そうそう、それが隠れちゃいけないんだわ。そこが女のチャーム・ポイントなのかな。おじさん、感じる?」

 「は? 何が?」

 「これ見ると何かセクシーに感じる?」

 「さあー、別に」

 「私のじゃ駄目なのかな。母さんのはどう?」

 「はあ、別に厭らしい感じはしませんねえ」

 「厭らしいなんて言って無いじゃない。セクシーかって聞いてんのに」

 「ああ、だからセクシーには感じませんね」

 「そうか」

 「何か短いと落ち着かないですね。スースーして」

 「気に入らないの?」

 「いえ、いいです。有り難う。お借りします」

 「いいわ、それも上げる」

 「はあ」

 「ちょっとあっち向いてみて。あー、やっぱり格好悪いわねえ」

 「当たり前よ。アイロンの形そのまんまだもん」

 「困ったわね」

 「いや、もう、いいですから」

 「ちょっと名刺頂戴」

 「僕のですか?」

 「人の貰ってどうすんの」

 「はあ、どうぞ」

 「それじゃご免なさいね。取りあえずはこれで勘弁して頂戴ね」

 「はあ、有り難うございます」

 「おじさん、有り難うじゃないでしょ? 怒って捨てぜりふ吐いて出て行くくらいのもんじゃないの」

 「はあ、まあ・・・わざとじゃないし」

 「わざとじゃなくても、かかったのが水じゃなくて農薬だったらどうすんの」

 「農薬ですか?」

 「そうよ。母さん農薬人に掛けちゃったことだってあるんだから」

 「あれはほんのちょっと靴にかかっただけでしょ?」

 「靴が爛れてたよね」

 「爛れたんですか? 靴が」

 「そうよ。あれが足だったら大変だわ」

 「でも靴の皮って生きてんのかしらね。爛れるなんて」

 「暢気なこと言ってんじゃないの」


 雄作は玩具製造卸会社のセールスマンである。玩具屋を巡り歩いて自社製品を置いて貰うようにするのが仕事である。販売するのではなく委託するだけだが、それでもなかなか簡単には行かない。無駄なスペースを開けてある玩具屋など1つも無いから置いて貰うというそれだけのことがなかなか受け入れて貰えない。それに雄作は口べたで口数が少ない方だからセールスには向いていないのかも知れない。歩いていて水をかけられてから4日後、下着と靴下を返しに行った。上げると言われたがそうもいかないのでちゃんとクリーニングに出したから4日後になってしまったのである。名前も聞かなかったが場所は憶えている。しかしあの時は良く見ていなかったと見えて、改めて家の前に立って見るとなかなか大きな家だった。生け花教室と書いた大きな木製の看板が表札のように掛かっている。ブザーが無いので「ご免下さい」と言いながら玄関を開けるとなるほど、広い玄関には立派な生け花が飾ってあった。

 「あらあら、松井さんでしたわね。どうぞ上がって下さい」

 「はあ。これをお返しに寄っただけですから」

 「いいから上がりなさい」

 そう言ってスタスタ奥に行ってしまったので雄作はやむなく靴を脱いで上がる羽目になった。広い廊下で、何処に行ったんだろうと迷っていると先の方で顔だけ出して言う。

 「何やってるの? こっちこっち」

 「はい」

 「会社に2回電話したんだけど、営業で外出しておりますからって言うのよ」

 「はあ。セールスやってますから」

 「おもちゃのセールス?」

 「はい」

 「そう。これなんだけど」

 「何ですか?」

 「高いもんじゃ無いんだけど、弁償しないといけないと思って」

 「あー、この間のおじさんじゃん」

 「あら、怜ちゃん、どうしたの?」

 「何が?」

 「大伴さんとデートだって言ってたじゃない」

 「うん。もう終わった」

 「終わった? 随分短いデートなのね」

 「だって一言言う用があっただけだから」

 「一言って何?」

 「さよなら、もう電話しないでって」

 「何それ?」

 「つまり絶交宣言」

 「絶交? 喧嘩したの?」

 「違う。振っただけ」

 「振った? オーホッホッホ、何てことかしら。でも何で?」

 「好きじゃないから」

 「好きじゃ無いと振るの?」

 「間違えた。嫌いだから振ったの」

 「でも好きだったんじゃないの?」

 「好きだと錯覚してただけ」

 「へー。近頃の若い人は分からないわね、ネ?」

 「は?」

 「貴方もあんな感じ?」

 「え? 僕は若く無いですから」

 「いくつ?」

 「30です」

 「若いじゃん。今振って来た男なんて35だよ。それでうるうる涙流したりしてんの。厭になっちゃう」

 「35ですか」

 「そうよ」

 「あの透明の下着贈ってくれたの、ひょっとして大伴さんだったの?」

 「違う。あれは50過ぎの親父よ」

 「あ、それで今日はそれをお返ししに来ました」

 「何を?」

 「透明の下着です」

 「ああ、あれは上げたのよ」

 「でもそういう訳に行かないんで」

 「何で?」

 「何でって僕が持っていても使いませんから」

 「あのね。おじさんが穿いたパンティを私に穿けって言うの?」

 「いえ、その・・・だからちゃんとクリーニングに出しましたから」

 「クリーニングに出したって気分の問題よぉ。厭あね」

 「はあ」

 「おじさんのオチンチン包んだことあるパンティを私が穿くの? そうしろって言うの?」

 「あ、いや、その・・・」

 「怜ちゃん、突っかかるんじゃないの。恋人と別れたからって」

 「あんなの恋人じゃないよ」

 「あんたが厭なら私が穿くからいいわ」

 「母さんには無理でしょう」

 「だって伸びるんでしょ?」

 「伸びるったって、ネエ?」

 「はあ?」

 「入ると思う?」

 「はあ・・・、どうでしょう」

 「丸いから大きく見えるのよ。そんなに私のお尻は大きく無いの」

 「そうかしら」

 「ちょっと食い込むかも知れませんね」

 「ゲー、厭らしい」

 「え? あっ、そうじゃなくて、お尻に食い込むって言ったんです」

 「あそうか。穿いてみてお尻に食い込んだんだ、でしょ?」

 「ええ、段々中央に寄ってきて食い込んじゃうんですよね」

 「Tバックになっちゃうんだ」

 「ええ」

 「だって、母さん」

 「いいわ。勿体ないから穿いてみる」

 「女だとあそこにも食い込むかもよ」

 「何ですか、あんたははしたない」

 「へい」

 「あ、怜ちゃんが来たんですっかり忘れてた。これちょっと着てみて下さいな」

 「何ですか?」

 「スーツよ」

 「えー。いいですよ、そんな」

 「いいから弁償させて頂戴」

 「そんな・・・、あんなの安物ですから」

 「分かってるわ。アイロン掛けたんだから」

 「はあ」

 「いいから着なさい。貰ってくれなきゃ無駄になるだけよ、折角買ったのに」

 「でも何方かに差し上げて下さい」

 「何方かったって、うちは男はいないの」

 「でしたらお知り合いの方とか」

 「生け花教室だから知り合いは女ばっかり。遠慮しないで着なさい」

 「はあ、それじゃ」

 「何やってんの?」

 「はあ? ですから有り難く頂戴しようと思いまして」

 「頂戴するのはいいけど、ちゃんと合うかどうか見たいのよ。それ脱いで試着してみなさい」

 「はい」

 「ズボンも」

 「又ですか?」

 「1回脱いだんだから2回目はもういいでしょ?」

 「2回目は痛く無いんだから大丈夫って言ってるみたい」

 「何?」

 「いえ、こっちの話」

 「ちゃんと分かったわよ。処女膜のこと言ったんでしょ」

 「さようであります」

 「何がさようよ」

 「あら、大分大きいわね。貴方ウェストいくつなの?」

 「70です」

 「70ー? いい男が70しか無いの?」

 「はあ、子供の頃からずっと70なんです」

 「生まれた時から?」

 「馬鹿。あんたはいくつなの、怜ちゃんは」

 「年?」

 「娘の年くらい知ってます。ウェストの話」

 「ああ、ちょっと太っちゃったから60くらいかな」

 「ちょっと太って60?」

 「細かった時は54だった」

 「54? それはウェストとは言えないわ、そんなの」

 「じゃ何て言うの?」

 「知らない。76の買ったから6センチ大きいんだわ」

 「いえ、大丈夫です。ベルトしますから」

 「そうお? 手が楽に入っちゃうわね、ほら」

 「母さん何処に手ぇ突っ込んでんの?」

 「こんなに大きいんじゃ駄目ねぇ」

 「いえ、いいですから」

 「母さん何時まで突っ込んでんの?」

 「ささくれが何かに引っかかって抜けなくなっちゃった」

 「漫画みたい」

 「ささくれ剥けると痛いのよ」

 「今ズボン脱ぎますから」

 「3回目はもう気持ち良くなるかもよ」

 「馬鹿」

 「あれっ? ズボンには引っかかって無いですね」

 「本当だ。ブリーフに引っかかってる」

 「何? あっ、これは値札を付けるプラスティックだわ」

 「そうだわね」

 「おじさん今日もズボン脱ぐこと予想して新品のブリーフ穿いて来たの?」

 「え? これは新品じゃ無いです。まだ1回しか洗濯してないけど」

 「えー、それじゃずっとそれ付けたまま穿いてたの?」

 「ずっとって言ってもパンツは1日穿いたら洗いますから」

 「そんなの当たり前よ。1週間穿きぱなっしだなんて言って無い。おおー気持ち悪い」

 「自分で言って自分で気持ち悪がること無いの。それより早くハサミ取ってよ」

 「まだ引っかかってんのか」

 「イター、あんたが乱暴にするからささくれ剥けちゃったじゃないの」

 「どれ、本当だ。痛そう」

 「痛いわよ。これはなかなか治らないんだから」

 「大丈夫ですか?」

 「こんなの付けたまま穿いてるからいけないんだわ。信じられないことするわね」

 「済みません」

 「チクチクしなかったの?」

 「さあ、別にしなかったですね」

 「そんなとこに手を突っ込んだのがいけないんじゃないの?」

 「救急箱持ってきて」

 「うん」

 「生け花やってるでしょ? 水仕事だからささくれが出来んのよね」

 「大変ですね」

 「そうなの、これって痛いのよ。知ってるでしょ?」

 「はあ、大昔にやったことあるような気がします」

 「大昔にやっただけ? 幸せな人生送ってるのね」

 「はあ、そうでもありませんけど」

 「母さん、誰か玄関に来たよ」

 「そう?」

 「絆創膏だけ巻いてったら?」

 「あ、そうね」

 「それじゃ僕は・・・」

 「ちょっと待ってなさい。そのズボン何とかしないといけないから」

 「いいですから」

 「いいから待ってなさい」

 「おじさんおもちゃ売って歩いてんだって?」

 「はい」

 「大人の使うような奴もあるの?」

 「大人用ですか? ありますね」

 「どんなの?」

 「精巧な鉄道模型とか、後は囲碁・将棋・バックギャモンといったボード・ゲームなんかそうですね」

 「ボード・ゲーム? ボードじゃなくて棒のおもちゃは無いの?」

 「棒の?」

 「それで振動するような奴」

 「棒で振動する? どんな奴でしょう?」

 「知らなければいいの」

 「済みません、不勉強で」

 「おじさん子供がいるの?」

 「僕のですか?」

 「人の子供聞いてもしょうがないでしょ」

 「はあ、僕は独身ですから」

 「独身かあ」

 「ええ」

 「何で?」

 「何でとは?」

 「だから何で独身なの?」

 「つまり結婚してないからです」

 「馬鹿。そんなこと分かってる。何で結婚しないのか聞いてんの」

 「ああ、それは相手がいないからでしょうね」

 「情けない。人ごとみたいな言い方して」

 「はあ済みません」

 「会社にいないの?」

 「女性社員ですか?」

 「それくらいいるでしょ。そうじゃなくて付き合ってる人」

 「いないですね」

 「若い人がいないの?」

 「いえ、皆若い人です」

 「それじゃ何で? 同僚は厭なの?」

 「いえ、そういうことは気にしないんですけど」

 「まさかホモじゃ無いでしょ?」

 「ホモでは無いと思います」

 「思います? 多少は疑問があるの?」

 「いいえ、100パーセントホモでは無いと思います」

 「それってホモの気はあるけど100パーセントじゃ無いよっていう意味? それともホモの可能性は100パーセント無いっていう意味?」

 「後の方です」

 「私って理屈っぽくて厭な女だと思う?」

 「いえ、参考になります」

 「何の参考?」

 「商談のです」

 「何かあったの?」

 「こんな小っちゃいケースに入った人形があるんですけど、20ケースで1ユニットになってるもんですから、それじゃ1つ置いてみようかと言われて喜んで20ケース持っていったら、1つと言っただろうって怒られちゃいました」

 「なるほど」

 「あの・・・、お母さん忙しいみたいだから僕帰ります。宜しくお伝え下さい」

 「何処から帰んの?」

 「は?」

 「宜しくお伝え下さいって言うけど母さん玄関にいて、その玄関通って帰んじゃないの?」

 「はあ、なるほど。それじゃ玄関で僕が言います」

 「今は出てかない方がいいと思うよ」

 「どうしてですか」

 「お客っていうのが無類の話好きの婆さんだから巻き込まれると思う」

 「それは困ったな。でも僕は会ったこと無い人だからそんなことも無いでしょう」

 「甘いな、おじさん。話好きな人にとって会ったこと無い人ほど絶好の獲物は無いのに」

 「獲物?」

 「そうよ。私も母さんもあしらい慣れてるから婆さんはロクに話し相手になって貰えなくて欲求不満になっちゃうのよ。どうせ直ぐ母さんも戻るわ」

 「そうですか。それじゃ待っていよう」

 「怜ちゃん、山中さんのお婆ちゃんならそうと言えばいいのに。誰か来てるなんて言うからうっかり顔見せちゃったじゃないの」

 「もう帰った?」

 「うん、ようやく」

 「おじさんも帰りたいらしいよ」

 「ええ、これで失礼させて頂きます」

 「待ちなさい。計るんだから」

 「計るって何をですか?」

 「ウェストもだけど、あちこち詰めないとおかしいでしょ? 上着もダブダブじゃないの」

 「はあ。いいです、これで」

 「ちっとも良くないわ」

 「はあ」

 「脱いで」

 「又ですか?」

 「4回目なら絶頂もんよ」

 「あんたは下らないことばかり言ってんじゃないの」

 「母さん直しなんか出来るの?」

 「出来るわよ」

 「着物と違うよ」

 「馬鹿ね。着物の直しの方がずっと難しいのよ」

 「そうなのか」

 「あんたも洋裁でも習いなさい」

 「母さん直しが出来るんなら、私のもやって貰おうかな」

 「習いなさいって今言ったでしょ」

 「今から習っても間に合わない」

 「将来の為に習うのよ」

 「私の将来なんてあるんだろうか」

 「何言ってるの。将来は誰にでもあるでしょうよ」

 「母さんは楽天家だからね」

 「空手なんて役に立たないもの習わないで料理とか洋裁とか習えばいいのに」

 「空手は役に立つよ。襲われた時に反撃出来る」

 「誰もあんたなんか襲わない」

 「それどういう意味」

 「この人に聞いてみなさい」

 「おじさん、どういう意味?」

 「え? そんな・・・僕が言ったことじゃないのに」

 「焦ってるね。私ってそんなに魅力無いかな」

 「・・・」

 「ねえ、黙ってないで何とか言ってよ。そんなことは無いとか、とんでもないとか」

 「そんなことは無い、とんでも無いです」

 「チェッ、それじゃオームじゃない」

 「大体その服は何ですか、それは」

 「これ? これは作務衣っていうの」

 「そんなの着てる女の子がいますか。坊主じゃあるまいし」

 「格好いいと思わない?」

 「全然」

 「違う。おじさんに聞いてんの」

 「は?」

 「人の話聞いて無いの?」

 「済みません。ちょっと擽ったかったので」

 「擽ったい? 敏感なのねぇ」

 「脇の下が感じるんだ?」

 「もう大丈夫です」

 「男でもそんな所に性感帯があるんだ?」

 「いえ、擽ったいってだけです」

 「擽ったいってことは感じるってことじゃない。ねえ、母さんそうでしょ?」

 「私に聞くんじゃないの。私はそんなことしたこと無いから分からない」

 「そんなことってどんなこと? そんなことしたから私が生まれたんじゃ無いの?」

 「あんたはあっちに行ってなさい」

 「駄目。母さんが襲われるといけないから私が此処にいてやってるのに」

 「この人が私を襲うの? 私が乗ったら潰れて気絶しそうよ」

 「それは言えてるね」

 「別に襲うつもりはありません」

 「それじゃおじさんが襲われないように見てて上げるから」

 「それじゃ口を閉じて見てなさい」

 「口を閉じたら話が出来ないじゃない」

 「だからいいの」

 「親子の断絶だっていつも言う癖に」

 「松井さんのことそんなに気に入ったの?」

 「松井さんて誰?」

 「この人よ」

 「ああそうだった」

 「あんまり変なことばかり言うと嫌われるわよ」

 「変なことって?」

 「今まで此処であんたが喋ったこと全部」

 「ひぇー、全否定なんだ」

 「そう」

 「おじさんもそう思う?」

 「別にそうは思いませんけど」

 「あのね、おじさん『けど』っていうの口癖だね。それは良く無いよ」

 「あ、そうですか」

 「けどとか思いますとかは駄目。男ならもっとはっきり断定的な喋り方した方がいい」

 「そうですか。営業やってるとこんな喋り方になっちゃうんですよね。あんまり断定的に喋らない方がいいと思って」

 「そうか。でも仕事じゃ無い時は喋り方変えたら?」

 「さあ。仕事じゃなくて喋ることなんて殆ど無いですから」

 「うちに帰っても誰もいない訳か」

 「そうですね」

 「私と電話で喋りたい?」

 「へ?」

 「そんなこと思いもしないって」

 「母さんに聞いてない」

 「困った顔してるから代わって答えて上げたのよ」

 「困ってる?」

 「別にそういうことはありませんけど、僕は30だから」

 「だから?」

 「いえ、30才ですから」

 「30才はもう何度も聞いた。あ、そうか。私の年が知りたいのね? 私っていくつに見える?」

 「さあー、そういうの苦手でして」

 「だからパッと見でいいのよ」

 「18くらいですか?」

 「馬鹿。何処に目ぇ付いてんの」

 「はあ、済みません」

 「24よ」

 「誰が見ても24に見えないのよ」

 「そんなに若々しいかしら?」

 「幼稚なの」

 「何処が?」

 「全部」

 「この服のせいでそんなこと言うんだな」

 「まあ、それもあるわね」

 「それじゃスカート穿けばいいんでしょ?」

 「スカートの穿き方って知ってる?」

 「馬鹿にして」

 「スカート穿いて髪型とか顔とか少しは女らしくしてから誘うもんよ」

 「ふん。スカート見て驚くなよ」

 「スカート見て驚く人がいますか」

 「良し、分かった。松井ちゃんも驚いたらいかんよー」

 「松井ちゃん?」

 「おじさんの名前でしょうが」

 「はあ、そうでした」

 「しっかりしてよ。自分の名前くらい覚えて頂戴よ」

 「いえ、別に忘れてた訳じゃ無いんですけど、ちゃんなんて言われたから面食らっちゃって」

 「松井クンの方がピンと来る?」

 「はあ。好きな方で結構です」


 雄作は営業だから携帯電話を持ち歩いていて、電話番号を聞かれた。直しが出来たら電話するからもう1度来いというのである。営業はテリトリーが決まっているからそんなに遠くにいるということは無いが、それでもあの親子のことだから今すぐ来なさいなどと言いそうで、たまたま遠くの店に行ってたりする時に電話があったりすると困るな、などと思っていた。しかし電話があったのは休日で家にいる時だった。寝ころんでボンヤリしていた時だった。


 「もしもし、真行寺ですけど」

 「はあ?」

 「松井さんでしょ?」

 「そうですけど」

 「けどは駄目だって言ったでしょ?」

 「あっ、ひょっとして貴方はあの・・・」

 「何ですか?」

 「あの坊さんの普段着みたいな服着てた女の子じゃないですか?」

 「坊さんの普段着ねえ。確かにそうだわね」

 「名前を聞いてなかったもんだから誰かと思った」

 「母さんから聞かなかったの?」

 「さあー、聞きませんでしたね」

 「そそっかしいからね、母さんは」

 「いや、聞かなかった僕の方もそそっかしいんだ」

 「それで直しが出来たから今すぐいらっしゃい」

 「今すぐですか」

 「そうよ。仕事休みでしょ? 今日は」

 「ええ」

 「何やってたの? 今」

 「はあ、特に何も」

 「会社が休みだっていうのにいい年してうちでゴロゴロしてたの?」

 「え? まあそうですね」

 「そんなことだから恋人が出来ないんだわ」

 「やっぱりそうかな。でも出歩いても恋人が出来るとは思えないんだけど」

 「又『けど』って言う」

 「あっ、癖になっちゃってて」

 「じゃ分かったわね」

 「何がですか?」

 「私の言うこと聞いて無かったの? 直しが出来たからいらっしゃいって言ったでしょ?」

 「ああ、それなら聞いてました」

 「じゃ今直ぐいらっしゃい。飛んで来るのよ。10分で来なさい」

 「へ? それは無理です。此処からだと結構かかるんです」

 「此処って何処にいるの?」

 「今うちにいます」

 「だからうちって何処にあるの?」

 「ああ、阿佐ヶ谷です」

 「そんなら直ぐ近くじゃないの」

 「でも駅から遠いから」

 「タクシーで来なさい」

 「タクシーに乗る程は遠く無いです」

 「此処までタクシーで来るのよ」

 「えー、其処までですか?」

 「タクシー代くらい払って上げるから心配しないでいいの」

 「いや、それくらい持ってますから払いますけど」

 「ほら又」

 「何が?」

 「けど」

 「あ、そうでした」

 「いいわね。10分で来るのよ」

 「はあ」


 直ぐに来なさいなどと言うに違いないと思っていたがその通りだった。せっかくの休日なのにスーツを又試着するのだからワイシャツとネクタイをしなければいけないと思い、いつもの仕事着を出して着た。それから通りに出てタクシーを拾ったが、既にもう10分経っていた。怒るかなと思ったが、道が混雑していたことにすればいいんだと思ってほっとした。


 「ご免下さい」

 「いらっしゃいませ」

 「あの、松井と申しますけど、電話で来るように言われまして」

 「そうですか。ではお上がり下さい」


 長い髪を西洋人形のように垂らした可愛い女性がミニの、これもまた可愛らしいワンピースを着て案内に立った。見たこと無い人がいるんだなと思ったが、今日は休日だから今までとは違うんだと気が付いた。それにこれだけ広い家だから今まで会わなかった人が大勢いても不思議では無い。もうすっかり馴染みになってしまったいつもの座敷に通された。


 「では母を呼んで参りますから暫くお待ち下さい」


 と丁寧に挨拶されて雄作はドギマギしてしまった。あんなお嬢さんもいたのかと思った。如何にも生け花教室の令嬢に相応しい感じの女性である。程なく例のふくよかなおばさんがいつもの通り和服で入ってきた。その後ろにちょっとうつむき加減に先ほどの令嬢が控えている。


 「松井さんタクシーで来たの?」

 「はあ、済みません。何しろ道が混んでいまして・・・、10分で来るように言われてたんですけど」

 「それじゃこれお車代」

 「えっ、いいですよそんな」

 「いいわよ。怜ちゃんがタクシーで来るように言ったんでしょ?」

 「まあそうなんですけど」

 「いいから収めなさい、ほら」

 「あ、済みません。それじゃ有り難く頂戴します」

 「小銭入れなんて出して何やってんの?」

 「はあ、ですからお釣りを。4850円でしたから」

 「いいわよ、そんなの」

 「でも車代ですから」

 「車代のお釣りなんて聞いたこと無いわ」

 「そういうもんですか」

 「そういうもんよ。貰ったこと無いの?」

 「ええ、初めてです」

 「今日は休みなのにちゃんとスーツ着て来たのね」

 「はい。どうせ試着しなければいけないと思いまして」

 「それはそうよ」

 「あの、いつもの方はどうしたんですか」

 「いつもの方?」

 「あの空手習ってるとかいうお嬢さんです」

 「ああ、怜ちゃん?」

 「そうです。そんな名前の方でした」

 「此処にいるじゃない」

 「え? 何処に?」

 「何処にって、私と貴方以外には1人しかいないでしょ」

 「すると・・・」

 「・・・・・クックックッ、ガッハッハッハ」

 「何ですか、その笑い方は」

 「可笑しくて可笑しくて、もう我慢出来ない。ガハハハハハー、ゴホゴホゴホ」

 「馬鹿。笑いすぎて咳き込んだりして」

 「だって全然気付いて無いんだもん」

 「いやー、驚いた。分からなかったなー」

 「化けたでしょ」

 「絶対私だって言っちゃ駄目よって言われてたのよ。ご免なさいね、松井さん」

 「いえ、別にそんなことはいいんですけど。驚いたなあ。女なんですねえー」

 「私のこと男だと思ってたの? 今まで」

 「いやいや、そうじゃ無いんですけど」

 「それじゃ女なんですねーっていうのは何?」

 「それはその、つまり凄い美人だったんですねーっていう意味です」

 「うーん。それいいなあ。もう1回言って」

 「は?」

 「今のもう1回言ってみて」

 「はあ。凄い美人だったんですね。化粧して服を着ると」

 「それは余計でしょ。化粧して服着るとっていうのは」

 「はあ」

 「今まで裸だったみたいに聞こえるじゃないの」

 「あ、いや。そうじゃなくてですね・・・」

 「もういいわ。怜ちゃん、もう十分楽しんだでしょ?」

 「うん。こんな楽しかったの生まれて初めて」

 「私も怜ちゃんのそんな姿見たの生まれて初めて」

 「そうでも無いでしょ。正月は着物着るじゃない」

 「着物姿は知ってるけど女の子らしい洋服なんて持ってないのかと思ってたわ」

 「うん。昨日買ったの、これ」

 「松井さんに見せる為に?」

 「うん。それと母さんにも」

 「そういうの着てればお見合いだってしくじらなかったのに」

 「しくじったんじゃ無いわ。こっちから断ったんじゃない」

 「でも男の方から断って来たりしてはいけない決まりだからたまたまそうなっただけよ」

 「そういう決まりなの?」

 「そう。お見合いは男の方から断ってはいけないの」

 「そうなんですか」

 「そうよ。まず女性側に先に返事を言わせるのよ」

 「それで女性がいいですと言って男性が厭だと思う時はどうするんですか? 厭だと思っても結婚するんですか?」

 「まさか。その時は仲人がいろいろ理屈を付けて壊すのよ」

 「理屈って?」

 「よくよく調べたら余りお勧めできない男性だということが分かったから申し訳ないけどこの話は無かったことにして下さいって。全部仲人の責任にすりかえちゃうの」

 「へー。そういうもんなんですか」

 「そうよ。お見合いしたこと無いの?」

 「ありません。そんな話されたことも無いし、あっ、あることはあるな」

 「あるの?」

 「この間、保険の外交やってるおばちゃんから見合いしないかって言われた」

 「それで見合いしたの?」

 「しなかった」

 「どうして? ブスだったから?」

 「いや、写真で見ると結構美人だったけど、出戻りでコブ付きだっていうから」

 「出戻りのコブ付きは厭だわね」

 「ええ、それに35才だっていうから」

 「5才も年上なの?」

 「それに親と同居が条件だという話だった」

 「出戻りでコブ付きで35才で親と同居しろって言うの? 随分身の程知らずの贅沢言うのね」

 「その代わり美容院経営してるから遊んで暮らせると言っていた」

 「遊んでていいって、その女が言うの?」

 「いや、だから保険のおばちゃんがそうなるよって」

 「何だ。それでも断ったのは偉いわね」

 「子供がねー」

 「子供がいるのが厭だったのか」

 「子供って言っても18才なんだ。それも男の子でグレてて難しい子なんだって言うから」

 「何? 35才で18の息子?」

 「そう」

 「何じゃそれは」

 「そういう感じがしてね。それで断った」

 「それじゃ遊んで暮らせるというのは気に入ってた訳か?」

 「まあ、それは好条件の1つだとは思ったけど」

 「好条件の1つか。マーツイ君、駄目ねえ、そんな楽すること考えては」

 「マーツイ君て僕のこと?」

 「そうでしょ」

 「僕はマツイって言うんだけど。マーツイじゃなくて」

 「まあ、あんたっていう感じをくっつけたのよ」

 「なるほど」

 「それじゃ、とにかくこれ着て見せてくれる?」

 「ああ、そうですね。あれ? これは前のと違いますね」

 「そう。あれは安物だったから」

 「安物と言っても僕の着てた奴より高そうに見えたけど」

 「それはそうよ。あれは3万円。これは5万円」

 「えーっ。5万円ですか?」

 「そう。貴方が着ていたのは2万円くらいじゃないの?」

 「良く分かりますね。1万8000円でした」

 「それくらいだろうと思った」

 「でもどうしてですか?」

 「何が?」

 「5万円のに取り替えたのは」

 「ああ、怜ちゃんが可哀想だから」

 「はあ?」

 「安物着た男と歩かせたりするのは可哀想でしょ」

 「はあ・・・?」

 「ほら脱いで。此処で脱ぐのもいい加減慣れたでしょ」

 「はあ」

 「5回目だから失神する程感じるよ」

 「あんたは5回目で失神したの?」

 「私は2回目から」

 「馬鹿」

 「これはいい奴ですねー。全然感じが違うなあ」

 「今まで着たこと無いの? 高い服」

 「そうですね。1番高いので3万2000円ですね」

 「駄目ねえ。怜ちゃんと付き合うんなら少しずつ高いのと取り替えてかないといけないわね」

 「付き合うってどういう意味なんですか?」

 「今まで女の子と付き合ったこと無いの?」

 「そう・・・、特別付き合ったというのは無いですね」

 「特別ってどういう意味?」

 「さあ、別に意味は無いかな」

 「そんなら単に無いって言えばいいの。格好付けたりしないで」

 「はあ」

 「それともセックスを伴わない付き合いならあるっていう意味だったの?」

 「さあ・・・、それも特には、いや、全然無いです」

 「それじゃ女の子との付き合いがどんなもんかは知らない訳ね」

 「ええ、どういうもんでしょう?」

 「一緒にお茶飲んだり、映画やコンサートに行ったり、その後セックスしたり、そういう意味」

 「へ? でもどうしてですか?」

 「何が?」

 「何で僕と付き合うんですか?」

 「付き合いたいから」

 「なるほど」

 「ユーサクは付き合いたく無いの? 私と」

 「ユーサク?」

 「オサクって読むの?」

 「いや、ユーサクって読みます」

 「そんならどうなの?」

 「どうなのって?」

 「私と付き合いたく無いの?」

 「いえいえ、とんでもない」

 「それ、付き合いたいっていう意味? 付き合うなんてとんでもないっていう意味?」

 「前の意味です」

 「そんな言い方しないで自分で言いなさい」

 「はあ。付き合いたいです」

 「どうして?」

 「いやあ、意外に可愛いですもんね」

 「何? それじゃこの服見て付き合いたくなったのか?」

 「いや、別に服だけじゃなくて」

 「他には?」

 「お化粧とか」

 「ふん。他には?」

 「ヘアスタイルも凄くいいです」

 「他は?」

 「脚も綺麗です」

 「あのね、外見のことしか言えないの?」

 「はあ。中身のことはまだあんまり良く分かりませんし・・・」

 「それはそうだわね」

 「そうよ。怜ちゃんもあんまりそう短兵急は良くないわ。お茶と映画とコンサートはいいけど、その後のは当分我慢しなさい」

 「その後のって?」

 「あんたが言ったでしょ?」

 「セックスのこと?」

 「そう、それ」

 「まあ私は女だから我慢できるけど」

 「松井さんも我慢出来るわね」

 「はあ。それはもう、今まで30年我慢してきましたから」

 「何? それじゃ童貞なの?」

 「済みません」

 「しょうがないわねえ」

 「あんた達の会話って何だかおかしいわね。私のピントがずれてるのかしら」

 「そうでしょ」

 「あんたお見合いの時にもそんな調子だったんじゃ無いでしょうね?」

 「別に、こんな調子よ」

 「呆れた」

 「だって今時30で童貞なんていないよ、母さん」

 「それだけ真面目だってことじゃないですか」

 「単に持てなかっただけじゃないの?」

 「まあ、率直な話がそうです」

 「でも何で風俗行かなかったの?」

 「風俗ですか?」

 「そうよ。お金使えば童貞なんていくらでも捨てられるじゃないの」

 「何だか童貞って粗大ゴミみたいね。あんたの言い方聞いてると」

 「そうよ、そんな物だわ」

 「時代が変わったのかしら」

 「そうよ」

 「今時は処女じゃ無くても引け目を感じないでいいの?」

 「何で引け目を感じるの? 24で処女だったら気持ち悪いでしょうに、ねえ?」

 「は? あっ、まあ、そんなもんですか。そんなもんかな」

 「そうよぉ。そんなもんよ」

 「母さんには理解不能だわ」

 「それじゃ母さんは父さん以外の男を知らないの?」

 「当たり前のこと聞くんじゃないの」

 「ヒャー、信じられる?」

 「信じられますけど」

 「けどは要らない」

 「はい」

 「処女がいいと思う?」

 「さあー、まだ処女も何もやったこと無いもんで」

 「そうか。そうだよね。処女なんてつまらないよ。痛がるだけで全然感じないからね」

 「怜ちゃん、もう少し話をぼかすとか何とか出来ないの?」

 「恥ずかしがらなくてもいいよ、母さん」

 「恥ずかしいんじゃないの。聞いてて呆れちゃうのよ」

 「それじゃ出かける? それともうちで食べる?」

 「何を?」

 「何を食べたいの?」

 「食事のことですか?」

 「食べると言ったら食事に決まってるでしょ。それとも私の体を食べようとでも思ったの?」

 「いえいえ」

 「今母さんに言われたばっかりでしょうに」

 「はあ、だからそんなこと考えてもいません」

 「それで何が食べたいの?」

 「はあ、食事をするとは思わなかったから」

 「何か予定があんの?」

 「いえ別に」

 「それじゃいずれにしたって食べなきゃいけないんでしょ?」

 「それはそうですね」

 「何が食べたい?」

 「何でもいいです」

 「それじゃ質問方法を変えよう。今日もし此処に来なかったとしたら何を食べてたと思う?」

 「そうですねー。さんま定食納豆付きかな」

 「何それ?」

 「ご飯とみそ汁とお新香とさんまがセットになった定食で600円なんです。それに納豆を別に注文して付けるから750円になりますね」

 「誰が値段のこと聞いたの?」

 「はあ」

 「さんまと納豆ならうちでも簡単に作れるわよ」

 「厭だ、そんなの」

 「どうして?」

 「さんまって結構美味いもんですよ。納豆もだけど」

 「私はそんなの厭なの」

 「じゃ怜ちゃんは何が食べたいの?」

 「そうねえ。折角お洒落したんだから外で食べたい」

 「なるほど、そうね。私もそういう怜ちゃんとなら一緒に出かけたいわ」

 「母さんも来るの?」

 「支払い係」

 「なるほど。それはそうだった」

 「それに、30年も我慢したんならもう我慢しなくてもいいのよなんて話になるといけないから」

 「お目付役か」

 「そう」

 「あのね、母さん。やったって厭になれば直ぐ別れるんだから心配すること無いのよ」

 「まあ、何て事言うんですか」

 「それじゃ母さんも着替えるんでしょ?」

 「ええ、これじゃねえ」

 「それでいいんじゃ無いんですか? とても良さそうに見えるけど」

 「ユーサクは女の服装に口出ししないの。どうせ分からないんだから」

 「はあ」

 「分かるの?」

 「いえ、分かりません」

 「でしょう?」

 

 「何処行こう?」

 「しゃぶしゃぶでいいかしら?」

 「いいね。どう?」

 「はあ、いいです」

 「それ、厭ですっていう意味? それとも賛成ですっていう意味?」

 「後の意味です」

 「じゃ、しゃぶしゃぶにしよう」

 「でも高く無いですか?」

 「ユーサクは馬みたいに食う?」

 「何ですか。女の子が食うなんて言わないの」

 「馬みたいに食べる?」

 「つまり大食かっていう質問ですか?」

 「そう」

 「僕は小食です」

 「そうよね。その体見れば分かる」

 「本当ね。松井さんもうちょっと太った方がいいわね」

 「はあ。いくら食べても太らないんです」

 「今小食って言ったじゃない」

 「はあ。つまり食べれるだけ食べても太らないんです」

 「食べる量が少ないのね」

 「小食ですから」

 「私が食事療法して上げるから」

 「食事療法ですか? 別に病気じゃありませんから」

 「いいの、任せなさい。小食なら高カロリーの物を食べればいいのよ。ご飯を食べないで肉だけ食べるとか」

 「僕はご飯が好きなんですよね」

 「パンは?」

 「パンも好きです。帽子パンが好きですね」

 「何それ?」

 「甘食のことよ」

 「帽子パンって言うの?」

 「帽子の形してるでしょ?」

 「それって昔の言葉?」

 「さあ、どうかしら。今は使わないの?」

 「聞いたこと無かったな」

 「メロンパンも好きですよ」

 「子供みたいな好みなのね」

 「そうですか?」

 「焼きソバパンとかカツ・サンドは?」

 「そういうのは嫌いじゃないけど、別々の方がいいですね」

 「別々って?」

 「焼きソバとパンとか、カツとパンとかって」

 「別々に食べたってお腹に入ったら一緒じゃない」

 「そうなんですけど」

 「焼きソバパンって何?」

 「そのまんま」

 「そのまんまって?」

 「パンの中に焼きソバはさんである奴」

 「厭ねえ、そんなの」

 「結構美味いんだ、これが」

 「結構美味しいのよ、これは」

 「え?」

 「そういう風に言うんです」

 「へい」

 「へいじゃない、はい」

 「はい」

 「あのー、1つ質問してもいいですか?」

 「何?」

 「生け花教室って看板がかかってましたよね」

 「そう」

 「全然生徒さんがいないんですか?」

 「何で?」

 「だって誰も会ったこと無いし、あの・・・、お母さんが先生なんでしょう?」

 「そう」

 「先生がいつも僕の相手してて教えてる様子が無いから」

 「私の母さん知らないの?」

 「いえ、良く存じ上げてます」

 「それなら分かるでしょ?」

 「何がですか?」

 「生徒がいない訳が」

 「はあ? 何か評判でも悪いんですか?」

 「馬鹿。分かって無いじゃない。何が良く存じ上げてますなの」

 「は?」

 「母さんは真行寺瞳子っていうの」

 「トーコさんですか?」

 「そう。分かった?」

 「何が?」

 「やっぱり全然分かって無いんだ」

 「ひょっとして有名人なんですか?」

 「そう、有名人。ついでに私もちょっと有名人」

 「怜子さんが?」

 「怜子さんって誰?」

 「え? あなたのことじゃないんですか?」

 「私は怜。子は付かない」

 「あ、そうなんですか」

 「真行寺怜って聞いたこと無い?」

 「さあー、生け花のことはあんまり詳しく無いもんで」

 「馬鹿。生け花じゃない」

 「それじゃ何教えてるんですか?」

 「教えてんじゃない。ハープ奏者よ」

 「ハープ? 薬になる奴ですか?」

 「それはハーブ」

 「済みません」

 「奏者って言ったら楽器のことに決まってんでしょうが。走る人だと思った?」

 「ああ、楽器のハープですか」

 「分かったようなこと言ってるけど分かってんの? 本当に」

 「分かってます。ハープならおもちゃの奴もありますから」

 「失礼な、おもちゃじゃないわ。私がやってるのは本物のハープ」

 「ええ、ですから本物のハープも知ってます」

 「触ったことある? 本物のハープに」

 「さあ、それは無いですね。見たことも無い」

 「帰ったら見せて上げる」

 「帰ったらって何処に?」

 「うちに決まってんでしょ」

 「又行くんですか?」

 「ユーサクちゃん、食事をご馳走になっておいてハイさよならは無いでしょう?」

 「は?」

 「家まで送っていくのが礼儀ってもんでしょう?」

 「ああ、そうでした」

 「そうするとちょっとお茶でも飲んで行きなさいって上がることになるのが普通でしょ?」

 「はあ」

 「だったら、又行くんですかって科白は出てこないでしょ?」

 「はあ、そうでした。済みません」

 「あんまり虐めちゃ駄目よ」

 「何言ってるの。これから虐めるんだよ。母さんの名前知らないっていうんだから」

 「いいのよ。そういう人の方が気楽でいいわ」

 「済みません。存じ上げませんで」

 「あのね。母さんは日本生け花教会の会長やってんの」

 「はあ」

 「全然感心して無いな。婦人雑誌でもなんでも母さんの名前が出てないことは無いくらいなのに」

 「ああ、僕は活字は余り読まないもので、失礼しました」

 「活字読まなくても写真くらい見るでしょう?」

 「そうですねえ。言われれば見たことあるのかなあ。何かそんな感じがしてきたな」

 「適当なこと言ってんじゃないの」

 「僕、人の顔を覚えるのが苦手なんですよね」

 「言い訳になってない」

 「済みません」

 「裸の女の写真しか見ないんでしょ」

 「そう・・・でも無いですけど」

 「そうですって言いそうになったね」

 「いえ、そんなことありません」

 「私の写真も見たこと無いかなあ。ドレスを着ないハーピストってことでちょっとは有名なんだけどな」

 「裸で演奏するんですか?」

 「馬鹿。裸でハープ演奏する人が何処の世界にいるの。何考えてんの。母さん、こいつぶっ叩いてやって」

 「自分でやんなさい」

 「そうね。母さんが叩くと死んじゃうかもね」

 「腕の力はあんたの方が強いでしょ。私はお尻が大きいだけ」

 「腕の力が強いんですか?」

 「後で腕相撲する?」

 「いえ、僕は自慢じゃないけど力は無いですから」

 「私の手を握れるよ」

 「はあ?」

 「手を握らないと腕相撲出来ないじゃない」

 「はあ。結構です。遠慮しときます」

 「あのね、ハープってずっとこうやって腕上げてるでしょ? だから此処んとこに筋肉が付いちゃうのよね」

 「はあ、そうですか」

 「松井さん、もっと沢山お上がりなさい」

 「いえもう満腹です」

 「まだ2皿しか食べて無いじゃない」

 「だからもう2人前も食べた」

 「馬鹿ね。しゃぶしゃぶの肉って1皿が1人前という訳じゃないのよ」

 「一応そういうことになってるんじゃないかしら」

 「そうなの?」

 「でも3皿4皿くらいは普通食べるわね」

 「そうでしょ? もっと食べなさい」

 「でももう入らない」

 「ご飯も食べて無いじゃない」

 「もうご飯なんてとても食べれない」

 「駄目ねえ。そんなんで私を満足させられると思ってんの?」

 「今夜ですか?」

 「馬鹿。何考えてんのよ」

 「あんたが言わせてるんじゃない」

 「そうか」

 「お肉が駄目ならせめて野菜くらいもう少し食べたら?」 

 「そうですね。野菜くらいなら何とか食べれるかな」

 「それじゃこれも上げるから食べなさい」

 「そんな、いくら野菜でもそんなには食べれない」

 「野菜なんて煮てごらんなさい。うんと少なくなっちゃうんだから」

 「そうは言ってもそれは多すぎる」

 「はい、口開けて」

 「そんなこと言っても無理だよ」

 「いいから開けなさい、ほら」

 「アツ、アツツツツ」

 「あらご免ご免。熱かったか」

 「ハーハー」

 「舌やけどした?」

 「やけどした」

 「でももともと味なんかうるさい方じゃ無いんでしょ?」

 「何てこと言うの。そういう問題じゃ無いでしょ?」

 「そうか」

 「それにしてもあんたでもそういうことするのね、感心したわ」

 「どういうこと?」

 「殿方の口まで運んで上げるっていうこと」

 「ああ、初めてやった」

 「そうでしょうね。想像も付かないものね」

 「何で? 今実際見たでしょ?」

 「だから、これまでは想像出来なかった」

 「これからは想像出来るでしょ」

 「そのお洋服やっぱりいいわね」

 「はい。本当に有り難うございます」

 「もう水かけられないようにして頂戴ね」

 「母さんが水かけないようにするべきなんじゃないの?」

 「だから他の人に」

 「母さん以外にそんなことする人いないよ」

 「そうかしら」

 「いえ、僕水かけられたの初めてじゃないですから」

 「前にもあるの?」

 「ええ」

 「それじゃユーサクもぼんやりしてんだわ。うっかりとぼんやりの組み合わせで事故ったのね」

 「何ですか、それは」

 「うっかり母さんとぼんやりユーサクの組み合わせ」

 「あんた大伴さんと会ってた時にもそんなにお喋りしてたの?」

 「あいつの時は喋らなかった」

 「だって最初は好きだった時もあったんでしょ?」

 「そうなんだ。今から思うと信じらんないのよね」

 「その頃も喋らなかったの?」

 「ああ、あれの時は向こうが喋って私は聞き役だった」

 「どうして?」

 「あれがね、男の癖に良く喋るんだわ。立て板に水なんてもんじゃない、バケツぶちまけたみたいに」

 「そうなの?」

 「そう。軽薄で厭だわ」

 「松井さんはセールスやってる割には口が重いんですねえ」

 「ええ、どうも口下手で」

 「あんたの場合は立て板に水じゃなくて横板に水だわ」

 「どういう意味ですか?」

 「話が流れていかない」

 「はあ」

 「まあ立て板に水よりいいかも知れない」

 「でも松井さん、それでセールス出来ますの?」

 「はあ、まあ成績はあんまりいい方じゃ無いですね」

 「いい方じゃ無いなんて格好付けてるけど、最下位なんじゃないの?」

 「まあ、はっきり言うとそうですね」

 「そういう時だけ断定的な言い方になるのね」

 「そんな訳でも無いけど」

 「ほら又けど」

 「あっ」

 「それでいくら貰ってんの?」

 「何が?」

 「給料」

 「ああ、30万だけど手取りはだいぶ少ないな」

 「だいぶってどのくらい?」

 「税金とか保険とか引かれると25万くらい」

 「25万。そんなんで生きていけんの?」

 「生きてはいける。だからまだ死んでない」

 「それはそうね。だから定食の値段が直ぐ出てくるのか」

 「そう」

 「何処に住んでるの?」

 「阿佐ヶ谷です」

 「ああ、そうだった。今度食料の差し入れ持って行ってやるわ」

 「うちにですか?」

 「私が行ったらまずいの?」

 「いえ、そんなことは無いです」

 「誰か女がいるとか」

 「まさか。誰もいません」

 「エロ本が積んであるとか」

 「そんなの有りません」

 「何で? 好きじゃないの?」

 「そんなことも無いけど」

 「男ならエロ本の1冊や2冊持っててもいいのよ」

 「ビデオ借りてきて見るから」

 「アダルト・ビデオ?」

 「ええ」

 「まー、厭らしい」

 「何ですか。エロ本は良くてビデオはいけないの?」

 「いや、いいんだけど。ちょっとからかっただけよぉ」

 「あんた芸術家はやめちゃったの?」

 「何? どういうこと? やめないよ」

 「いっつもブスッとしてろくに口きかないで、どうしてそうなのって聞くと芸術家なんてこうよって言ってたじゃない」

 「そんなこと言った?」

 「言ったわ」

 「食事してる時は芸術家はお休みなの」

 「何言ってるの。松井さんといるといつもこんなじゃないの」

 「ユーサクといると? そうかな?」

 「そうよ」

 「いつもはブスッとしてるんですか? 想像出来ないなあ」

 「ユーサクが漫画だから芸術家やってらんないのよ」

 「僕って漫画ですか?」

 「言われたこと無い?」

 「あります」

 「そうでしょ」

 「でも自分では凄く真面目なつもりなんですけど」

 「だから可笑しいんだわ」

 「そんなもんですか」

 「芸術家の夫なんて漫画の方がいいかも知れないわね」

 「母さんもそう思う?」

 「あんたもそう思うの?」

 「なんかねー、そんな感じがしてきちゃった」

 「そうね。2人で芸術家やってたら辛気くさくて厭な家庭になっちゃうかも知れないわね」

 「あのー、僕は自分では漫画だとは思って無いんです」

 「ユーサクがどう思ってるかなんて問題じゃないの」

 「はあ」

 「それじゃこれ平らげて帰りましょうか」

 「もう本当に一口も食べれません」

 「私が食べるんです」

 「あ、失礼しました」

 「私もちょっと頂戴」

 「あんたも良く食べるわねえ。珍しい」

 「うん。此処のしゃぶしゃぶ美味しい」

 「何言ってるの。前は不味いって言ってたじゃないの」

 「そう?」

 「言うことがコロコロ変わる」

 「成長し続けてるからよ」


 「じゃお茶出すから上がりなさい」

 「はい」

 「しゃぶしゃぶは満足した?」

 「ええもう。思い残すことは無いって感じです」

 「あらあら、しゃぶしゃぶ食べただけでもう思い残すことは無いの?」

 「考えてみたら僕は女の人と一緒に食事したのってこれが2回目なんですよね」

 「情けないのね」

 「1回目は何食べたの?」

 「焼き肉定食でした」

 「焼き肉定食?」

 「ええ、昼間でしたから」

 「夜は食べなかったの?」

 「食べなかったって?」

 「だから、その女性と一緒に食べたのは昼だけ? 昼だけで別れたの?」

 「ああ、だから保険のおばちゃんですよ。そこで保険の勧誘されんのかと思ったら見合いの話だったんです。結局断ったんだけど、『あんた焼き肉奢って貰ってそれは無いだろ』って詰られちゃって参った」

 「情けない。女性と一緒に食事したこと無いの?」

 「だから、そのおばちゃんと1回だけ」

 「会社に若い女性がいっぱいいるんでしょ? 食事ぐらいは付き合ってくれないの?」

 「僕はセールスで昼間は会社にいないから」

 「仕事が終わってからの話よ。一緒に飲みに行こうとか」

 「さあ、何しろ朝会社でちょっと顔を合わせるだけで、僕が会社に戻る頃には彼女達はもう退社しちゃってるから同僚とは言っても殆ど馴染みが無いんだ」

 「なるほど、そういう事情がある訳か。それにしてもちょっと情けない話ね」

 「ええ。女性と一緒に食事するのがこんなに楽しいもんだとは知らなかった」

 「楽しかったの?」

 「はい、だからもう思い残すことは無いって感じ」

 「童貞のまま死んでいっていいの?」

 「ああ、それは死ぬまでには1回経験しておきたいと思いますね」

 「1回?」

 「いや、出来れば2回くらい」

 「2回でいいの?」

 「まあー、3回くらいは望んでもいいのかなあ」

 「何回でもいいよ、望むだけなら」

 「はあ」

 「それじゃ、こっちの部屋」

 「はい」

 「ハープ見せて上げるから」

 「わー、凄い部屋ですね」

 「何が?」

 「何と言うか、映画のセットみたいな感じですね」

 「映画のセット? どうして?」

 「何か高そうな物ばかりで・・・、あんまり現実的で無いって言うか」

 「そうかしら。高い物ばかりなのは確かだけど」

 「あ、あれがハープですね」

 「そう。何か弾いて欲しい物ある?」

 「うーん。エリーゼのためにくらいしか知らないんです。クラシックは」

 「それはピアノの曲だわ」

 「あ、そうですか」

 「そうね。ハープの曲なんて言っても知ってる訳無いわね。まあ音だけ聴かせて上げる」

 「はい、お願いします」

 「何か落ち着かないわね」

 「誰か聞いてると思うとそういうもんなんですよ。僕は耳を塞いでましょうか?」

 「何言ってるの? 聴かせてやるって言ってるのに耳塞いだら意味無いじゃないの、馬鹿ね。 私はコンサートで人に聴かせるのは馴れてるのよ。1人くらいいたってどうってこと無い。落ち着かないのはミニスカートなんて穿いてるからだわ。ユーサク、あっちに座りなさい」

 「あっちって此処ですか?」

 「そう、そこ」

 「これは背もたれがありませんね」

 「当たり前よ。それはベッドなんだから」

 「ああ、こんな広いベッドに1人で寝てるんですか?」

 「そうよ。一緒に寝たいの?」

 「いや、とんでもない」

 「何で? 私と寝たく無いの?」

 「いや、寝たいです」

 「それじゃとんでもないってどういうこと?」

 「そんな失礼なこと考えてもいませんって言ったつもりだったんです」

 「なるほど。何時までも立ってないで其処に座りなさい」

 「いいんですか? ベッドに座ったりして」

 「いいわ。こっちのソファーに座ると私の下着が見えちゃうでしょ?」

 「ああ、なるほど」

 「まあ透けたパンティじゃ無いから見たっていいんだけど」

 「それじゃ目ぇ瞑って聴きますから」

 「いいわよ。其処なら見えないから」

 「はい、そうですね。此処で目ぇ瞑ったら眠っちゃいそうですもんね」

 「馬鹿。私がハープ弾いてやってるのに私のベッドで眠ったりしたら絞め殺してやるわよ」

 「大丈夫です。ちゃんと起きてますから」

 「段々弾く気が無くなってきちゃったな。ちょっと其処で横になってごらん」

 「横ってこうですか?」

 「そっち向くんじゃない。仰向けに横たわれって言ったの」

 「え? でもそんなことしたら本当に眠っちゃいそうですよ」

 「だから子守歌弾いてやろうって思ったから、ちょっと目を瞑って眠ってごらん」

 「いいんですか?」

 「いいよ。ハープってものが如何に偉大な力を持ってるか示して上げるから」

 「それは有り難いなあ。それじゃほんの5分くらいだけ失礼して横にならせて貰いますね」

 「目を瞑って」

 「はい」

 「眠くなってきた?」

 「ええ」

 「それじゃ子守歌弾いて上げるから眠るのよ。いい?」

 「ええ・・・ワァッ」

 「起きちゃった?」

 「凄い音ですね。とても眠れたもんじゃない」

 「大きい音でしょ?」

 「大きいなんてもんじゃ無いですね。それエレキギターみたいに電気でも使ってるんですか?」

 「違うわ。ハープなんていうと素人はポロンポロンって可愛い音出すと思ってるでしょう? でもオーケストラと競演したってかき消されないくらいの音が出るのよ、今みたいに」

 「凄いもんですねえ」

 「どうしたの?」

 「あら、母さん聞こえた?」

 「聞こえたわよ。あんな大きい音出して何かあったのかと思ったじゃないの」

 「ユーサクが眠たいって言うから子守歌弾いてやったの」

 「それでベッドに座ってるの?」

 「あっ、済みません」

 「そんな所に立ってないでこっち来なさい。此処、私の隣に」

 「はあ、それじゃ失礼します」

 「どうしたの? 私邪魔したんじゃないかしら」

 「いいの。此処に座ってると私の下着が見えちゃうからあっちに座らせたの」

 「あ、なるほどそうね」

 「ミニスカート穿いてハープの前に座ったのなんて初めてだから落ち着かなかった」

 「ハープの前でも後ろでもミニスカートなんて穿いたこと無いじゃない」

 「そうなんだけど・・・、あらっ、ユーサクの癖が移っちゃったわ」

 「でもそのミニスカート素敵ですよ。頭がくらくらするくらい」

 「これでくらくらするの?」

 「ええもうさっきからのぼせてるみたいな感じですよ」

 「それじゃちょっとこっち向いてごらん」

 「はい」

 「見える?」

 「脚がですか?」

 「脚は見えるでしょうよ、ミニスカートなんだから」

 「ああ、その奥は大丈夫です。見えませんから」

 「そう? 良く見てよ」

 「良く見ても見えそうで見えないから大丈夫・・・、あっ」

 「見えたでしょ?」

 「はい」

 「怜ちゃん何やってんの?」

 「だからちょっと脚開いて見せてやった」

 「親のいる前でそんなことする娘がいますか」

 「面白そうだから」

 「本当に馬鹿なんだから。考えられない」

 「もう1回見たい?」

 「もういいです。鼻血が出るといけないから」

 「やってらんない。私は退散するわ」

 「いいよ。母さんも座ってたら」

 「親の前でいちゃつくんじゃないの」

 「いちゃついてないよ。からかっただけ」

 「それをいちゃつくって言うんです」

 「そうだ。母さん久しぶりに飲む?」

 「え? あんたとうちで飲むなんて何年ぶり? 地震でも来なきゃいいけど」

 「ユーサクも飲めるんでしょ?」

 「はあ、ビールで無ければ」

 「そう言えばさっき飲んで無かったね。珍しい人だな、飲めないのかなって思ったけど」

 「僕はビールは飲めないんです」

 「どうしてビールは駄目なの?」

 「泡があるから駄目なんです」

 「泡があるとどうして駄目なの?」

 「どうしてですかね。慌てちゃうのかな」

 「馬鹿、下手な洒落言うんじゃないの」

 「父さんもビールは苦手だったわ。泡を飲むから腹が張るって言ってね」

 「へー。ユーサクは父さんと一緒なんだ」

 「はあ。あれ? この部屋には水道も冷蔵庫もあるんですね」

 「そうよ。今頃気が付いたの? そこのドアあけるとシャワーもあるよ」

 「凄いなあ。家の中に家がある」

 「家の中に家がある? 変なこと言うのね。ただ水が引いてあるだけじゃない」

 「はあ、言ってみればそうですね」

 「ブランデーなら飲める? 泡は無いわよ」

 「はい、飲めます」

 「私、あんたと飲むのも久しぶりだけど、この部屋に入ったこと自体が珍しいことだわ」

 「避けてるからね」

 「あんたが?」

 「母さんが」

 「馬鹿言うんじゃないの。自分の娘を避けてる親が何処にいますか。部屋に入ろうとするとあんたが目くじら立てて怒るからよ」

 「そう? 別に怒って無いじゃない」

 「今までの話」

 「そうだった?」

 「この人不思議な雰囲気持ってるのかしらね」

 「ユーサクのこと?」

 「そう。この人といるとあんたのトゲが無くなる」

 「トゲって?」

 「トゲトゲしさ」

 「ユーサクが抜けてるからだわ」

 「トゲが抜けるんですか?」

 「あんたが抜けてるの」

 「はあ」

 「あんた男の人とデートするといつもそんな調子?」

 「どんな調子?」

 「ビシャビシャ決めつけてばかり」

 「それどういう意味?」

 「まるで子供叱りつけてるみたいに言いたい放題じゃないの」

 「そう?」

 「ああ、いいんです。別に気にしてませんから」

 「分かってる」

 「こういう人が合うのかしらね」

 「合うみたい」

 「大伴さんみたいな人と一緒になってくれれば言うこと無いんだけど、うまく行かないんじゃしょうがないものねえ」

 「うまく行かないわ、あれは」

 「どうして?」

 「ああいう気取ったのは苦手なの」

 「気取ってる?」

 「気取ってるわよ。大体あの服装からしてそうじゃない」

 「そうかしら。お洒落だと思うけど」

 「今時アスコット・タイなんてしてる男いないよ。今日は変えたなと思うと蝶ネクタイだもん」

 「いいじゃないの。そういう好みなんでしょう」

 「好みじゃないのよ。僕は『人と同じっていうのが我慢ならんのですわ』なんて言っちゃって」

 「それがお洒落っていうことの意味でしょう? あんたも人と一緒が厭だからあんな坊さんみたいな服着てるんじゃないの」

 「あれはもうやめた。母さんに上げる」

 「いらないわ。何でやめたの?」

 「だってこういう服の方がいいんでしょ?」

 「それはまあ、そうして欲しいって何度も言ったじゃ無いの」

 「こらっ、ユーサクに聞いてんだよ。ボケ」

 「え? 何ですか?」

 「あんた横に座ってて聞いて無いの?」

 「いや、親子の会話を盗み聞きしてはいけないと思いまして」

 「隣にいて盗み聞きも何もあったもんじゃないでしょ。ただぼんやりしてただけじゃないの」

 「いや、その。何と言うかこんないい酒飲んだこと無いもんですから、気持ち良くなっちゃって」

 「もう酔ったの? 大丈夫?」

 「あ、全然大丈夫です。まだ酔ってません」

 「ふん。まあ酔ったら寝てってもいいけど」

 「いえいえ帰りますから大丈夫です」

 「タクシー代持ってんの?」

 「4850円くらいは持ってます」

 「夜は深夜料金だからもっと高くなるよ」

 「あ、そうか。そしたら電車で帰りますから大丈夫です」

 「何? 4850円しか持ってないの?」

 「いえ、5100円くらいあったと思います」

 「大して変わんないじゃないの」

 「はあ」

 「ま、いいわ。帰りに少し上げるから」

 「いいですよぉ。ご馳走になったのにその上2回もお車代貰ったりしたら罰が当たります」

 「罰はもう当たってんのよ」

 「何がですか?」

 「私が呼んだらユーサクは何時でも駆けつけるの。それが罰だわ」

 「何かして欲しいことがあるんですか?」

 「だからそういうことがあったら呼ぶのよ」

 「僕はあまり力仕事は得意じゃ無いんですけど、それで良かったら」

 「誰が力仕事やって貰うって言ったの?」

 「あ、いや、力仕事でなければ喜んでお手伝いします」

 「分かって無いみたいだけどもまあいいや。取りあえず毎週日曜は私の為に予定を開けておきなさい」

 「それは大丈夫です。日曜はもうずっと先の先まで予定なんかありませんから」

 「それもそうね」

 「それであんたいつもその服着るの?」

 「まさか。服ぐらい買うわよ。そうだ、来週は一緒に買い物するからそのつもりでいなさい」

 「僕ですか?」

 「そう。あんたしかいないでしょ」

 「まあ、余程重い物でなければ大丈夫です」

 「服だから重いってことは無いわ」

 「いやー、もう本当に結構ですよ。たった1回水かけられたくらいでそんなに服買って貰う訳にはいきません。固ーく辞退させて頂きます」

 「馬鹿。ちょっとこっちへ頭よこしなさい」

 「こうですか?・・・イタッ」

 「誰があんたの服買うって言ったの。人の話を良く聞いてなさい。私の服を買うんだわ」

 「あ、そうでしたか」

 「やっぱり少し酔ってるみたいね。酔うといつもに増してボケて来るみたいね」

 「はあ。でも酔って冴えてくるっていう人もいるんですよね」

 「それはいるでしょ、そういう人も」

 「羨ましいなあ、そんな人」

 「そういう人は普段から冴えてるのよ」

 「そうでしょうね。僕なんか普段もちょっとボケ気味だから」

 「それは今私が言った」

 「そうでしたか?」

 「母さん、どうしよう」

 「イタ、イタ・・・イタタ。僕が何か悪いことしましたか?」

 「そう男の人の頭をペタペタ叩かないの。大事な場所なんだから」

 「こうしないではおれないのよ、こいつ」

 「イタイ、イタイ」

 「見ちゃいらんない。いちゃついちゃって」

 「いちゃついてる? 私っていちゃついてるのかな」

 「そうよ。まあ喧嘩するよりはいいけど」

 「うーん。この情けないユーサクちゃんに惚れちゃったのかなー」

 「今度は頭撫でてるの? まあ、その辺にしておいて頂戴ね。親の前で変なとこ撫でたりしないでね」

 「変なとこ? 母さんじゃあるまいしズボンに手を突っ込んだりはしないわ」

 「あれはサイズを見てただけ」

 「それでささくれが引っかかって抜けなくなるなんて傑作ね」

 「あんな物付けたままブリーフ穿いてるからですよ。ちょっと考えられないことする人だわ」

 「今日のはどうかな? 又付けてるんじゃないの?」

 「これっ、親の前でそんなことするんじゃ無いの」

 「ちょっと見るだけよ。今日のは付いて無いけど大分草臥れたブリーフだわ」

 「ちょっと何すんですかぁ?」

 「いいからじっとしてなさい」

 「あの、又脱ぐんですかぁ?」

 「もう閉めたわよ。来週あんたのブリーフも買って上げるわ」

 「それくらい自分で買いますよ」

 「いいの。私にも好みがあるんだから」

 「でも僕のブリーフって言いませんでした?」

 「だから私の好みのブリーフ穿くのよ、私じゃなくてあんたが」

 「又透明の奴ですか?」

 「馬鹿。あれは気に入ってなかったから上げたんじゃないの」

 「ああ、そうでした。良かった」

 「何が良かったの?」

 「又透明の奴穿かされるのかと思った」

 「別に人に見せるもんじゃないからどうでもいいでしょ?」

 「でもうちに帰って脱いだとき自分のあれを見てギョッとしちゃいましたよ」

 「あれって何?」

 「つまりオチンチンです」

 「見たこと無かったの?」

 「いえ、そんなことは無いんですけど・・・、いや、間違った。そんなことはあるんですけど、透明な奴の中に収まってるのなんか初めて見ましたからね」

 「そうでしょうね。あんた今日ここで寝てく?」

 「いえ、大丈夫ですよ。帰れますから。全然酔ってなんかいません」

 「大丈夫かなぁ? どう思う、母さん?」

 「あんたが一緒に寝たいだけでしょうが」

 「私が? そうなのかな?」

 「帰してやりなさい。あんたも酔ってるんだわ、きっと」

 「うん。ちょっと酔ったかな」

 「松井さん。はい、2回目のお車代。2回目だからもう痛く無いわ」

 「厭だ、母さん」

 「あんたの真似しただけ」

 「あの、本当に金なら持ってますからいいんです。今日は大変ご馳走になりました。楽しかったです。このご恩は一生忘れません」

 「大袈裟ねえ。命を助けたみたいに聞こえるじゃないの」

 「はあ。ともかく有り難うございます。それじゃ失礼します」

 「そっちじゃない。そこはシャワー・ルーム。出口はこっち」

 「あっ、ドアが2つある部屋なんて入ったこと無いもんだから」

 「ほら、お車代有り難く持って行きなさい」

 「いやいや、本当にそれは受け取れません」

 「へー。遊んで暮らせるのは好条件だと思った割には固いこと言うのね」

 「男ですから」

 「それじゃ駅まで送るわ」

 「いいですよ。そんなことしたら貴方が駅から戻る時に僕が又送らなくちゃいけないことになる」

 「私は空手習ったから大丈夫なの」

 「そう言えば空手やめちゃったのね」

 「うん。今はエアロビクスやってる」

 「ころころ変わるわね」

 「まだ成長期だから」

 「付き合う相手もコロコロ変えるんじゃないの?」

 「こいつは飽きそうも無いよ。スルメみたいだから」

 「こいつなんて言うんじゃありません」

 「へい」

 「またそれだ」


 翌週の日曜日、雄作のアパートに怜が来た。近くに来てから電話してくるだろうと思っていたら住所だけで探し当てたようである。


 「外は汚いけど中は綺麗ねえ。感心、感心」

 「そうですか。来るっていうから掃除したんです」

 「そうか。食料買ってきたから後で料理して上げる」

 「食料って何ですか?」

 「肉とか野菜とか。ほら」

 「ウワッ、それは何ですか?」

 「肉じゃないの。スライスしてないだけよ。ブロックで買ったから」

 「何だか高そうな肉ですね」

 「高いわよ。100グラム5000円したから」

 「えっ? 100グラム5000円? それって何グラムですか?」

 「これ? これは1キロ」

 「すると・・・、えーっ、5万円じゃないですか」

 「良く出来ました」

 「ウヘー、驚いた」

 「この間のしゃぶしゃぶよりずっといい肉なのよ」

 「勿体ないなあ。5万円なんて」

 「いいのよ。ユーサクよりよっぽど稼ぐんだから」

 「貴方がですか?」

 「そうよ。1回コンサートやればユーサクの給料よりもっと貰えるわ」

 「へー、ハープって儲かるんですねぇ」

 「ハープって儲かる? 変な言い方するわねえ。そんなこと言われたの初めて」

 「だって、12回コンサートやったら僕の年収分以上に稼いじゃうんでしょ?」

 「まあそういうことになるわね」

 「驚いたな。2週間もかからないで年収分稼いじゃうんだ」

 「そんな毎日コンサートしないわよ。たまにやるから聴きに来てくれるんじゃないの」

 「そうですか」

 「そうよ。知り合いに声掛けたり、宣伝したり、会場満席にするのって大変なのよ。歩いてて、『あっ、ハープのコンサートか、それじゃ入ってみるか』なんていう人いないでしょ?」

 「そんなもんですか?」

 「ハープのコンサート聴きに行ったことある?」

 「無いですね」

 「何のコンサートでもいいから、歩いてて看板見つけてその気になって入っちゃったなんてことある?」

 「無いです」

 「でしょう? それに私はドレスを着ないけど、普通のハーピストなんて何十万もするような舞台衣装を作ったりするから出ていく物も大きいのよ。大体ハープっていくらくらいするのか知ってる?」

 「さあ、知りません」

 「いくらすると思う?」

 「高そうですよね」

 「高いわよ」

 「100万くらいですか?」

 「まさか」

 「そうですよね。いくら何でも。50万くらいですか?」

 「馬鹿。1000万くらいよ」

 「えっ? あれが?」

 「あれって?」

 「先週見せて貰ったあれが1000万?」

 「あれはもうちょっと高い」

 「もうちょっとって?」

 「2000万くらい」

 「ゲッ、それはちょっとでなくて倍だと思いますけど」

 「そうね。思わなくても倍だわね」

 「信じらんないなあ。そんな高いもんなのかあ」

 「そうよ。だから普通のハーピストなんてハープ買った時のローン返すんで大変なのよ」

 「豪邸が買えますもんね、2000万て言ったら」

 「豪邸は買えないけど小さい家なら買えるわね」

 「凄いなあ」

 「そういう訳」

 「そしたら、こんな無駄遣いしないで下さいよ」

 「肉のこと?」

 「ええ、この分ローンの支払いに廻せばだいぶ楽になるでしょう?」

 「私はキャッシュで買ったからローンは無い」

 「キャッシュで2000万?」

 「そう」

 「ああ、目がくらくらして来た」

 「しっかりしなさい。情けない」

 「驚いたなあ。宝くじでも当たったんですか?」

 「そんなもの当たる訳無いでしょ」

 「そうですよね。僕なんかかすったことも無い。最高が300円」

 「何が?」

 「だから300円が当たったことあるだけ」

 「300円なんてあるの?」

 「あります。1番下は50円です」

 「いつも宝くじ買うの?」

 「いつもでは無いけど時々買います」

 「パチンコは?」

 「したこと無いです」

 「競輪・競馬は?」

 「ああ、賭事は嫌いなんです」

 「そう、良かった」

 「貴方は好きなんですか?」

 「私も賭事は嫌いよ。下ごしらえだけでもやっておこうかな」

 「何ですか?」

 「後で料理する、その準備を今しておこうということ」

 「準備ってどんなことするんですか?」

 「だから丁度いい大きさに切って塩胡椒しておくの」

 「困ったな」

 「何が?」

 「包丁が無いんです」

 「包丁が無い?」

 「ええ」

 「包丁が無くてどうやって料理するの」

 「カッターじゃ切れませんよね」

 「カッターって?」

 「これですけど」

 「それは紙切るカッターじゃないの」

 「ええ」

 「そんなんで料理出来る訳無いでしょ。普段料理ってしないの?」

 「はあ、いつも外食してるんで」

 「それじゃまな板も無い?」

 「無いです」

 「箸くらいはあるわよね?」

 「はい。食料を差し入れしてくれるというので箸は買っておきました」

 「どれ?」

 「これです」

 「割り箸か」

 「はい。割り箸は嫌いですか?」

 「まあいいけど」

 「割り箸は見てくれは悪いけどその都度捨てるから衛生的だと思って」

 「お米なんかはあるの?」

 「ありません」

 「茶碗は?」

 「ありません」

 「皿は?」

 「それも無いですね」

 「呆れた。一体どんな食料持ってくると思ったの?」

 「ですから、コロッケとかカツとか」

 「ああ、出来合のお総菜を持って来ると思ったのね」

 「はい」

 「ステーキ作るつもりで来たんだけど」

 「塩と胡椒も無いんです。済みません」

 「分かったわ。全部一通り無いっていうことなのね。随分綺麗に片づいてると思ったけど要するに物が無いだけなんじゃない」

 「まあ、そういうことです」

 「冷蔵庫の中は一体何が入っているの? まあ」

 「何も無いからコンセント抜いてあるだけで、壊れてはいないんです」

 「うーん。くらくらして来た」

 「大丈夫ですか? 何か飲み物買っておこうとは思ったんですけど、何が好きで何が嫌いか分からないもんですから、来てからでいいかと思って」

 「うん、それはいいけど。今まで良く生きてきたね、ユーサク」

 「はあ、まあ何とか」

 「驚いたなあ」

 「そうですか」

 「ひょっとして布団なんかも無いんじやないの? 寝袋使ったりして」

 「まさか。布団くらいありますよ。枕も寝間着もあります」

 「とにかくうちに行こう。此処ではまともな料理なんか出来ない。折角高い肉買ったのに無駄になる」

 「済みません」

 「それはそうと何でスーツ着てるの?」

 「はあ、怜さんが来るというから」

 「普段は何着てるの? うちにいる時」

 「シャツを着てます」

 「どんなの? 仕事じゃ無いんだから、それでいいわよ」

 「いや、そういう訳には行きません」

 「いいわよ。着替えなさい」

 「でもお宅に行くんでしょ?」

 「そうだけど、別にスーツじゃなくていいわ」

 「でも」

 「もじもじしてないで早く着替えなさい」

 「着替えるって、シャツですから」

 「そんなにおかしなシャツなの? どんなの? 見せてごらん」

 「えーと、これです」

 「それは下着じゃないの」

 「はい。ですからシャツです」

 「呆れた。そのシャツなのか」

 「はい」

 「外に行く時はどうするの?」

 「休みは外に出ませんから」

 「だって食事に行くんでしょ?」

 「ああ、その時はこれ着ます」

 「ワイシャツ?」

 「ええ」

 「なるほど」

 「ちょっと待って下さい」

 「何やってるの?」

 「はあ。ネクタイしてます」

 「ネクタイなんか要らない」

 「でもスーツでネクタイしないとヤクザみたいに見えますから」

 「そうなの? ヤクザってそんな感じ?」

 「さあ、あんまりヤクザに詳しくは無いんですけど、そんな感じがしませんか?」

 「じゃ好きにして頂戴」

 

 「これ冷蔵庫に入れて直ぐ出かけるから此処で待ってなさい」

 「はい」

 「待てよ。下ごしらえしておく方がいいかな。じゃちょっと上がって」

 「はい。いいですよ、此処で待ってますから」

 「玄関で待たす訳にはいかない。いいから上がりなさい」

 「では」

 「あらら、松井さんのうちに行ったんじゃ無かったの?」

 「そうなんだけど、戻って来た」

 「どうして?」

 「あそこじゃ料理出来ない」

 「料理? 怜ちゃんが料理するの?」

 「決まってるでしょ。コック連れていく訳にいかないじゃない」

 「へーえ、驚いた。まさか即席ラーメンじゃないんでしょうね」

 「母さん馬鹿にしてくれるね」

 「だってあんたが料理するなんて何か悪いことが起きなきゃいいけど、心配だわ」

 「母さんだってそんなに料理うまくは無いでしょ」

 「まあ、うちは生け花教室でお料理教室じゃないから」

 「なるほど、うまいこと言う。それなら私もハーピストでシェフじゃないから」

 「結構松井さんが1番料理上手かったりするんじゃないの?」

 「まさか。まあ後でゆっくり話して聞かせるわ」

 「何が? まあとにかく松井さんお上がりなさい」

 「はあ。またまたお邪魔させて頂きます」

 「そうだ。私ちょっと出かける前に下ごしらえしていくからユーサクの相手していて」

 「何処に行くの?」

 「だから洋服買いに」

 「それじゃ母さんが料理して上げようか?」

 「駄目、駄目。私がやるの」

 「いくら上手くないと言ってもあんたよりは余程マシよ」

 「それはそうでも私がやるの。練習だから」

 「何の練習?」

 「だから料理の練習」

 「あらまあ、これは随分上等のお肉を買ったわね」

 「腕が悪い分材料でカバーしようと思って」

 「5万円だそうです。それだけで」

 「5万円。それじゃ私もお相伴に預かろう」

 「駄目よ。1キロしか無いんだから」

 「大丈夫ですよ。僕は200グラムあれば十分だから」

 「それじゃ2人で400グラムずつだから丁度いいじゃないの」

 「しょうが無いなあ。ま、いいか」

 「そうよ。余らせたって腐るだけです」

 「私は300グラムでいいからユーサクも300グラム食べなさい」

 「いや、200グラムで丁度いいんだ」

 「何で分かるの?」

 「偶に奢ってステーキ定食食べることあるんだけど、それが200グラムでどうかすると食べきれないこともある」

 「駄目ねえ。200グラムで食べ切れ無いなんて」

 「まあ、それじゃ松井さん、こっちにいらっしゃい。怜ちゃんが下ごしらえしてる間私が生け花でも教えて上げるから」

 「はあ。生け花ですか」

 「厭なの?」

 「いえ、とんでもない。恐縮です」

 「珍しい。母さんが人を教えるなんて」

 「うん。練習しないと、たまには」

 「生け花の練習?」

 「まさか。講習の練習よ」

 「なるほど」

 「こっち、こっち」

 「はい」

 「そこに座って。楽にしていいわ、あぐらでも何でも」

 「はあ」

 「はい。これだけ持ってきたから好きなの選んで頂戴」

 「別に好き嫌いって無いんですけど、それじゃこれにしますか」

 「あら、やっぱり目立つのを選ぶわね。でも芍薬は難しいのよ、生けるのが」

 「これ芍薬って言うんですか」

 「そう。立てば芍薬座れば牡丹って言うでしょう?」

 「ああ、これのことだったんですか」

 「こういう花が好きなのかしら」

 「そうですね。この中ではこれが1番いいかなと思って」

 「ふーん。と言うことは案外松井さん、見かけに寄らず派手好きなのね」

 「はあ、そうですか」

 「それに何か緑色の草を取り合わせにするとしたらどれがいいと思う?」

 「そーうですね、そういうのは分かりません」

 「いいのよ。松井さんの直感で。これがいいなって思うのを選べばいいの」

 「それじゃ、これがいいかな」

 「うーん。かすみ草ねぇ」

 「駄目ですか?」

 「いえ。いいとか駄目とかってことは無いの。花材は好きなの選べばいいんだから。でも、その取り合わせは難しいわね。松井さん筋金入りの派手好きなんだわ」

 「はあ、そうでしょうか」

 「そう言えば、怜ちゃんがミニスカート穿くまでは全然興味示さなかったものね」

 「は? そんなこと無いです」

 「あの坊さんスタイルで可愛いと思った?」

 「さあ、その・・・」

 「思わなかったでしょう。でもミニスカート見て凄く気に入ったんでしょう?」

 「ええ、美しい方だなあと思いました」

 「それはそうよ。あの子も捨てたもんじゃ無いのよ。でもお陰でお洒落するようになったから見る見る美人になってきたわ」

 「はあ、本当に」

 「松井さん、親御さんはどうしてるの? 何やってらっしゃるの?」

 「はあ。僕が大学卒業する頃、両親は引き続いて病死しました」

 「まあ、何のご病気?」

 「父は結核で母は心臓病でした」

 「まあ、すると松井さんも心臓は丈夫な方では無いのかしら」

 「そうですね。特に悪いということはありませんけど、特に丈夫ということも無いんでしょうね」

 「大学はどちらを出られたの?」

 「東西大学です。哲学を専攻しました」

 「まあ、秀才なんじゃないの」

 「10で神童20過ぎれば只の人って奴ですね」

 「あら、自分でそんなこと言うもんじゃ無いわ。でも哲学なんて凄いのね」

 「いや、これが又実社会にこれほど役立たない学問も無いもんでして」

 「そういうもんなの?」

 「はあ、おもちゃのセールスには少なくとも役に立ってくれませんね」

 「それはそうでしょうね。哲学とおもちゃじゃね」

 「はあ」

 「でも東西大学を出たんならもっといい所にいくらでも就職出来たでしょうに」

 「はあ。やっぱり両親に引き続き死なれて正気を失っていたんでしょうね。2年ほど職に就かずにブラブラしてしまったもんですから」

 「なるほど。それはそうね。それはショックだったでしょうね」

 「はあ。もう忘れましたけど」

 「で、お父さんは何をやっていらした方なの?」

 「役人でした」

 「何処にお勤めだったの?」

 「まあ法務省に勤めて、最後は法務総合研究所というところに奉職していました」

 「法務総合研究所って何する所?」

 「まあ、法律に関係する研究をする所ですね。法律制度を研究したり、あるいは改正が必要な法律の素案を作ったりと、そんなようなことだと思います」

 「まあ、凄いのねえ」

 「いや、僕じゃなくて父の話です」

 「あ、そうだけど」

 「それもそういう所に勤めていたというだけで実際父がそこで何をやっていたのかは知りません。掃除係りだったかも知れないし」

 「法務省から行って掃除係りは無いでしょう。それで将来はどうするつもりなの?」

 「将来と申しますと?」

 「ずっと今の会社に勤めてるつもりなの?」

 「さあ、特に考えてはおりませんけど」

 「ずっと勤めるつもりは無いってこと?」

 「あ、いや、そのぉ何と言うか成り行き任せですね」

 「自分の人生なんだからもっと主体的に考えなければ駄目ね」

 「はあ。考えることが苦手でして」

 「何言ってるの。哲学なんて考える学問なんでしょう? 何か知らないけどやたら難しいことを」

 「はあ。それで苦手になってしまいまして」

 「貴方、世の中すねてるわね」

 「いえいえ、とんでもない。これでも精一杯生きてるんです」

 「そうかしら? どうもそうは思えないわね」

 「はあ、済みません」

 「別に謝ることは無いんだけど。怜ちゃんのことはどう思ってるの?」

 「はあ、可愛い方だなあと思ってます」

 「それで将来どうするつもりなの?」

 「さあ、それはあの方次第ですから」

 「そんなことは無いでしょう。貴方にもこうしたい、ああしたいっていうものがあるんでしょう?」

 「そうですねえ。だから今言ったとおりです」

 「今言った通りって?」

 「だから彼女がしたいと思うようにして上げたいというのが僕の願いです」

 「そしたら怜ちゃんが結婚したいと言ったらどうするの?」

 「はあ、宜しければそうさせて頂きます」

 「それじゃ怜ちゃんが別れたいと言ったらどうするの?」

 「まあ、その時はそうします」

 「そうしますとは?」

 「つまり別れます」

 「それじゃ貴方の気持ちっていうものは無いの?」

 「いや、ですからそれが僕の気持ちです」

 「そんなのってあるのかしら」

 「はあ」

 「好きだったら別れてくれって言われても、はいそうですかなんて言えないのが好きだっていうことの意味なんじゃないの?」

 「まあそういう人もいるでしょうね」

 「あなたはそうじゃないと言うのね」

 「はあ。人の意思に逆らってまで何かをしようというタイプでは無いようです」

 「それじゃ怜ちゃんのことが、端的に言って好きなの?」

 「好きです」

 「どれくらい?」

 「さあ、そういうのをこれくらい、あれくらいと言うのは難しいですねえ。どう言えばいいんでしょう?」

 「どう言えばいいんでしょうって正直に言えばいいのよ。死ぬほど好きだとか、死ぬほどでは無いとか」

 「それは酷く難問ですねえ」

 「そんなに難しいかしら?」

 「死ぬほど好きだというのは別れるなら自殺するとか、そんなことを言うんでしょうか?」

 「まあ、そういう意味なんでしょうね」

 「なるほど」

 「それで?」

 「はあ」

 「はあじゃ分からない。私の大事な独り娘なのよ、怜は。どうか答えて頂戴」

 「ええ。僕は自殺っていうのが出来ない人間なんですね。実際何度も試みたから分かっているんです」

 「あっ。ご両親が亡くなった時のことね?」

 「はい」

 「そうか。それは悪かったわ。でも要するにもの凄く愛してるのかどうかを聞かせて欲しいのよ」

 「それでしたらもの凄く愛してますね。何しろ僕の人生観が変わりそうに思えて来ましたから」

 「貴方の人生観なんていうときっととても難しいことを考えているんでしょうね」

 「いえ。単に流されて生きてるというだけです。ちょっと格好付けて言えばあるがままに暮らしていると言うか」

 「なるほど」

 「まあ大したことは無いんです」

 「なるほど」

 「それだけなんです」

 「なるほど」

 「いや、ですからそんなに感心されるような人生観では無いんです」

 「いえ、何となく分かったわ。松井さんという人が」

 「ええもう、これだけの人間ですから」

 「母さん、終わったから出かけるよ」

 「あ、怜ちゃん。終わったの?」

 「うん」

 「それじゃ行ってらっしゃい」

 「うん。さ、ユーサク行こう」

 「はい」


 「母さんと何喋ってたの?」

 「いろいろ聞かれてた」

 「何を?」

 「仕事のこととか親のこととか」

 「そんなのどうでもいいのに」

 「そうですね」

 「それで何と答えたの?」

 「はあ、そのままです」

 「そのままって?」

 「ありのまま」

 「ああ、なるほど。でもご両親は確か亡くなってるんだったでしょ?」

 「え? そうですけど」

 「なら、どうでもいいのにね」

 「ええ」

 「それでね。私がユーサクの下着と服を見繕って上げるから、ユーサクは文句を言わないのよ」

 「はい。でも金は僕が払いますから」

 「そんなの当たり前よ、なんて言うと思った? 私の好みで選ぶんだから私が払う。それでその後私の服をユーサクが選びなさい。こういうのを着てほしいなっていうのがあるでしょう?」

 「すると、それは僕が払うんですね」

 「いいえ、私が払うの」

 「それはちょっと公平では無いですね」

 「ううん。どうしてかって言うと私には拒否権があるから。あんまり変なのユーサクが選んだら私は拒否出来るのよ。でもユーサクは拒否権無し。尤も私は変なの選んだりしないけど」

 「はあ、なるほど」

 「さて、此処にしよう」

 「はあ、高そうな店ですね」

 「普通でしょ? これなんかどうかな」

 「はあ、ちょっと派手ですね」

 「だから文句は言わない」

 「はい、そうでした」

 「ちょっと着てみなさい」

 「はい」

 「あー、いいわね。見違える」

 「そうですか?」

 「うん。着替えてるうちにブリーフも選んどいたから、これ穿きなさい」

 「はい」

 「今靴下も持ってくるから」

 「はあ」

 「はい、これ靴下。それからズボンも持ってきたから試着してみなさい。70だから合う筈だけど」

 「はい。70なら合うと思いますけど・・・」

 「どれ」

 「あ、まだ」

 「いいわよ。もう何度も見てんだから、今更恥ずかしがんなくても」

 「はあ。丁度いいですね」

 「うん。いいな。重役みたいに見える。馬子にも衣装ね」

 「そうですか」

 「それじゃ会計してくるから待ってて」

 「あの。いくらしましたか、全部で」

 「いいの。ハープって儲かるんだから」

 「でも、いろいろ出ていく物も多いって話でしたよ」

 「それでもユーサクよりは遙かに儲けてる」

 「はあ」

 「で、私にはどんな服着て欲しい?」

 「はあ。可愛らしくて若々しくてちょっと派手な物がいいですね」

 「可愛らしくて若々しくて派手な物? 随分注文が多いわね」

 「はあ、多すぎましたか?」

 「こんなのどうかしら?」

 「いいですね」

 「じゃ、これは?」

 「いいなあ」

 「これも良さそう」

 「良さそうですね」

 「どれがいいの? みんないいって言うじゃない」

 「みんなって今選んだ3つはどれもいいから」

 「そうか。それじゃ面倒だから3つ買っちゃえ」

 「え?」

 「私まだ2着しか持ってないから」

 「2着しか持って無いんですか?」

 「うん。ユーサクが喜びそうな奴は」

 「ああ、でも何でもいいですよ」

 「坊主の服でもいいの?」

 「いや、まああれが好きなんだったら、あれでもいいんです」

 「いいの。もうユーサクの顔見ちゃったからあれ着る訳にはいかない」

 「僕の顔? 僕の顔ってなんですか?」

 「あれが私だって分かった時の顔よ。憶えてるでしょ?」

 「あの3回目にお邪魔した時のことですか? タクシーで行った時の」

 「そう。私が玄関で迎えたのに全然気が付かなくて此処にいるって母さんが言ってもまだ分からなかったでしょ? それであれが私だって分かった時のユーサクの顔のことよ」

 「どんな顔してました?」

 「驚いて、それから嬉しそうにパッと輝いた」

 「そうでしたか」

 「そうよ。あんなに生き生きした表情見せたのはあの時だけよ。私ああいう表情が好き。いつもああいう顔していて欲しいの」

 「はあ。僕もあの時はなんか命の炎がぱっと一瞬燃え上がったような感じがしましたね」

 「そう? 女のお洒落っていうのは大事なのね」

 「でももう怜さんが美しいということは分かりましたから、これからはどんな服装でも構わないですよ。あの美しさが僕の瞼に焼き付いてますから」

 「そんなの駄目よ。過去の思い出なんかに縋ることは無いでしょ? 現に美しく装えるんだから」

 「それもそうですね」

 「それじゃ、この3つの中から1つ選んで」

 「あれ? 3つとも買うんじゃなかったんですか?」

 「買うわよ。だけど今着替えるのを選んで欲しいの」

 「あ、なるほど。それじゃこれにして下さい」

 「へーえ。これねえ」

 「気に入りませんか?」

 「いえ、私は全部気に入ってるのよ。でも意外なのを選んだなって思って」

 「意外ですか?」

 「うん。見かけに寄らず派手好きなんだ」

 「はあ。お母さんにもさっきそう言われました」

 「またあれやったのかな?」

 「あれってなんですか?」

 「沢山花を持ってきて、こっから好きなの選びなさいっていうのやられなかった?」

 「はあ、やられました」

 「で、何を選んだ?」

 「はあ。白い大きな花を選んだら芍薬だって教わりました」

 「芍薬選んだのか。なるほど」

 「あれって何か心理テストみたいなもんなんですか?」

 「そう。あれをやるとその人間のことが1番良く分かるって言うの、母さん。私はどうかなって思うけど」

 「そうですね。正直に選んだらやっぱり性格が出るんじゃないですか?」

 「正直に選ばなかったの?」

 「いえ、正直に選びました。でも性格と言うよりむしろその時の気分が出ると言った方が正しいかもしれませんね」

 「そう? 芍薬選んだ時どんな気分だったの?」

 「そうですねぇ。ちょっと言葉で表現するの難しいな」

 「いいから言ってみて」

 「嬉しいっていう気分と漠然とした悲しみみたいな気分かな」

 「何で悲しいの?」

 「だから良く分かりませんよ」

 「でも何で悲しいのよ、教えてよ」

 「さあ、だからこの幸せがいつまで続くのかなっていう不安みたいなもんじゃないんですか」

 「この幸せって?」

 「だから今のこの幸せ」

 「私とのこと?」

 「それも含めて全部ですね」

 「全部って? 母さんのこととか?」

 「それもあるでしょうね」

 「他には?」

 「まあ、全部ですね。今生きてるっていうこと全部」

 「なんか抽象的ね。ま、いいわ。着替えてくるから待ってて」

 「はい」

 

 「どう?」

 「いいですねー。見違えるなあ。本当に美人ですね」

 「服がいいだけでしょ?」

 「いえ。服なんて所詮おかずですから、どんな美味いおかずがついてても不味いご飯は不味いもんですよ」

 「もっと単純に褒めなさいよ」

 「はい。ピッカピカに光って見えるほど綺麗です」

 「まあいいわ。許して上げる。本当に嬉しそうな顔してるから」

 「はい。本当に嬉しいですから。突然人生に幸せが転がり込んできてとまどっちゃいますよ」

 「それじゃ帰って食事にしようか」

 「いいですね」


 「母さんは何処に行ったのかな。探してくるから此処にいて」

 「何処か当てはあるんですか?」

 「家の中探すだけよ」

 「あ、そうか。広い家ですもんね」


 「母さん広間で花を生けてた」

 「そうですか。やっぱり生け花の先生なんですね」

 「ううん。滅多にやらないの。あれやる時は何か考えてる時なのよ」

 「そうですか」

 「まあいいわ。私作ってくるから。退屈だったらテレビでも見てて」

 「はい。ぼんやりしてるの得意ですから大丈夫です」

 「そうだったわね」

 

 「あら母さん、終わったの?」

 「ええ。食事の支度は?」

 「出来たわよぉ。今持ってくるから」

 「じゃ手伝うわ」

 「うん」

 「あの、僕も手伝いましょうか?」

 「運ぶだけだからいいわ。座ってなさい」

 「はい」

 

 「これは美味い。美味しいですね」

 「本当?」

 「ええ。もう死んでも悔いは無いって感じです」

 「大袈裟ねえ」

 「いや、本当に美味しいですよ。驚きました」

 「高いお肉だから美味しいのは当たり前ですよ」

 「また母さんはくさす。でも1番苦労したの何だと思う?」

 「味付けですか? あ、いや、焼き加減でしょう」

 「違うの。切り分けるのが1番難しかった。だって300グラムってどのくらいなのか分からないから」

 「あ、なるほどそうですね」

 「切って計って、足りないからもう少し足すっていう訳に行かないでしょ?」

 「本当にそうですね」

 「でも大体良さそうな感じに切り分けたじゃないの」

 「うん。どうやったと思う?」

 「どうやったの?」

 「厚さを物差しで計って、それを10等分してから3対3対4に分けて切ったのよ」

 「それは理論的ですねえ」

 「理論的だけど料理じゃないみたい」

 「母さんは文句が多い」

 「いつものあんたを真似しただけ」

 「私はそんな文句が多い女じゃ無いよ。ねえ?」

 「ええ、とっても可愛い人だと思います」

 「ほらごらん」

 「やってらんない」

 「何が?」

 「恋は女を変えるって言うけど本当ね」

 「厭だ。もともと可愛いのよ、私は」

 「それは分かってます。親だから」

 「でしょ? もとの私に返っただけ」

 「さようですか?」

 「何か悩み事でもあんの?」

 「何で?」

 「さっき花を生けてたじゃない」

 「生け花は私の仕事」

 「そうだけど考え事する時に生けるじゃない」

 「まあね」

 「何考えてたの?」

 「いろいろ」

 「何か仕事に行き詰まってるとか?」

 「仕事は行き詰まってません」

 「それじゃ何行き詰まってんの?」

 「恋の悩み」

 「えー、母さんが?」

 「母さんが恋に悩んだらいけないの?」

 「いけなくないけど」

 「けどは良くない」

 「え? あ、この人の癖が移っちゃって」

 「お幸せで宜しゅうございますこと」

 「母さん僻んでる?」

 「何で母さんがあんたに僻まないといけないの?」

 「だって私の恋はうまくいってるのに母さんの恋はうまくいってないから」

 「私の恋がうまくいってないの?」

 「だって今自分で言ったじゃない」

 「ああ、そうだったわね」

 「何か母さんおかしいね」

 「あんたは私が生け花協会のことで悩んでた時には全然気付きもしないで、気付いた後も気にもしなかった癖に、どうしたの? 今はやけに気にしてくれるのね」

 「まあ、人を思いやるゆとりが出来たのね」

 「恋をしてるから?」

 「まあそうかもね」

 「もう既にやったの?」

 「何を?」

 「失神するようなことを」

 「馬鹿」

 「柄にも無く照れたりして」

 「もう少し我慢しなさいって言ったのは誰なのよ」

 「言ったって聞いた試しなんか無い癖に」

 「あのー、もう遅いから僕はこれで失礼させて頂きます」

 「何言ってんの。まだ8時じゃない」

 「でも何か大事なお話がありそうですから」

 「いいから座んなさい」

 「ええ、でも」

 「いいの、ほら」

 「はあ」

 「ご免なさいね。松井さん。怜ちゃんもご免ね。別に悩んでる訳じゃないの。何だか寂しい気がしたもんだからちょっと絡んじゃったね。ご免なさい」

 「何が寂しいの?」

 「いよいよ怜ちゃんが嫁いで行きそうな気がしてね」

 「え? それはまだ分かんないけど嫁いで欲しくないの?」

 「ううん。嫁いでほしいわよ、それは。嫁いでくれるなら、相手は誰だっていいの。でもいざとなってみたら母独り子独りだから万感こみ上げて来ちゃって」

 「厭だなー、もう。嫁いだって別の世界に行く訳じゃないでしょ? ユーサクのことそんなに気に入らないの?」

 「気に入ったの。悔しいけど気に入っちゃったのよ。だからあんたも今度こそ年貢を納めそうな気がするの」

 「それが悔しいの?」

 「やっぱり娘だから愛してるんだわ」

 「そんなこと分かってるわよ。馬鹿だな、母さん。母さんから逃げていく訳じゃ無いのよ。なんなら此処で暮らしたっていいんだから、そうでしょ? ユーサク」

 「へ? あの、まだ其処まで話は進んでいないと思うけど」

 「急転直下進んだの」

 「急転直下ですねぇ」

 「厭なの?」

 「いえ、とんでもない」

 「それって厭ですっていう意味?」

 「いえ、とんでもなく嬉しいことだっていう意味です」

 「それじゃいいじゃないの。会社に通うのだって此処からのが便利でしょ?」

 「はあ」

 「それじゃもう引っ越ししなさい」

 「はあ?」

 「暫く一緒に住めば母さんもショックが和らぐから」

 「それでいずれ出ていく訳なの?」

 「さあ、それは先になって考えるけど」

 「松井さんはそれでもいいかしら?」

 「はあ。僕はいいんですけど」

 「いいんですけど、何?」

 「いや。何もありません」

 「それじゃそうしなさい。今日からもう帰らなくていいから、此処で暮らしなさい」

 「へ? それは又随分急な話ですねえ」

 「善は急げって言うでしょ? あんたも30年我慢したんだから」

 「はあ」

 「嬉しいでしょ?」

 「はい」

 「いよいよやれるなんて思ってんでしょ」

 「それはまだですか?」

 「いいわよ。あんまり我慢すると体に毒だから」

 「あんたが我慢出来ないだけなんでしょ」

 「母さんが火を付けるからよ」

 「火なんか付けたかしら」

 「今度こそ年貢を納めそうなんて言うからその気になっちゃったのよ」

 「前からその気だった癖に」

 「まあ、そうだけどそんなにはっきりはしてなかった」

 「そうだったの?」

 「だって母さんが気に入ったなんて言うからよ」

 「それじゃ大伴さんの時はどうして?」

 「家柄が良くて金があったってだけじゃない。本当は母さん気に入ってた訳じゃないことくらい知ってるよ」

 「そうかしら。私大伴さんのこと気に入ってなかったのかしら?」

 「そうよ。あれと結婚すれば私が幸せになると思って我慢してただけじゃない。だから壊れた時嬉しそうにしてたじゃないの」

 「そうだったかしら」

 「そうよ。丁度この人がいた時だったわ。振ったって私が言ったら本当に愉快そうに笑ってたじやないの。ねえ、憶えてるでしょ、ユーサクも」

 「さあー、良く憶えてませんけど」

 「近頃の若い人は分からない、貴方もそうなのかって母さんが聞いてたでしょ?」

 「ああ、そんなことありましたね、そう言えば」

 「それでユーサクが僕は若くない、30才だって答えたのよ」

 「ええ、そうでした」

 「そうだったわね。そうか。大伴さんを振ったって聞いたとき私思わず笑っちゃったのね、そう言えば」

 「そうよ。母さんが声出して笑うなんて珍しいもん。憶えてるよ」

 「そうか、思わず本音が出たっていうことなのかしら」

 「そうよ。でも何でユーサクを気に入ったの?」

 「まあ、あんたがどんどんいい方に変わっていくからね」

 「それに思った程単純な人では無かったって分かったからでしょ?」

 「何が?」

 「母さんの得意なテストをやった時に2人で話してたでしょ。ユーサクの親のこととか」

 「聞いてたの?」

 「聞いてたよ。下ごしらえしてたから花を選んでるところは聞き逃したけど」

 「いけない子ね、盗み聞きなんかして」

 「驚いたでしょ?」

 「驚いたのはそっちでしょ。松井さんのこと単なる馬鹿だと思ってたんでしょ?」

 「単なる馬鹿です」

 「知ってたわ。調べたんだから」

 「どうやって?」

 「探偵社に頼んでよ」

 「どうして?」

 「だって何も知らずに結婚する程馬鹿じゃないわよ、私だって」

 「調べたんですか?」

 「だから両親が死んだこと知ってたでしょ?」

 「そうですね。何で知ってるんだろうと不思議に思いましたよ」

 「ユーサクも馬鹿じゃないけど、私も馬鹿じゃないのよ」

 「馬鹿だなんて思ってません」

 「20過ぎれば只の人なんて惚けても駄目よ。大学卒業の時答辞読む筈だったのを辞退したっていうのも知ってるんだから。答辞読むなんて成績が1番だったってことでしょ。20過ぎても優秀だったんじゃない」

 「あれは只の人になる前の残り火みたいなもんで」

 「いいのよ。頭がいいとか悪いとかそんなこと関係無いんだから。そんなんで好きになったという訳じゃ無いんだから」

 「はあ。今は馬鹿ですから」

 「そうは思わないけど、それでもいいの」

 「そう言って下さると気が楽です」

 「もう、その他人行儀な話し方もやめなさい。私に敬語使う必要なんて無いの。それに私のことは怜って呼べばいいのよ」

 「はあ。でもまだやってないから言いにくいですねぇ」

 「何を? あ、このドスケベ」

 「済みません」

 「ま、いいわ。後で好きなだけやらせて上げるからもう自殺することなんて考えちゃ駄目よ。幸せが去っていく不安なんてのも必要ない。そういう悲しみとは私達縁が無いの。だってずっと別れる事なんて無いんだから」

 「はあ。ま、コロコロ気分が変わらなければの話ですよね」

 「もう成長期は終わったから気分は変わらない」

 「そうですか」

 「今度花を選ぶ時は白い芍薬じゃなくて赤い芍薬を選びなさい」

 「はい」

 「さて、それじゃ又3人で少し飲もう」

 「又飲むんですか?」

 「そう。飲んだ時のユーサクは滅茶苦茶可愛いから。でも沢山飲んだら駄目よ。後で立たなくなるから」

 「そういうことは親の前で言うもんじゃありません」

 「はい。それじゃそういうことだから分かったわね。厭らしいことは後でゆっくりすることにして、健全なお喋りをしながら飲むのよ」

 「へい」

 「こら、人の言い方真似するな」

 「いいわねー、はしゃいじゃって」

 「母さんだって嬉しそうな顔してんじゃない」

 「うん。何か飲むぞーて気分」

 「それじゃ飲もう」


お読みくださってありがとうございます。真面目なご意見であれば、厳しい批評でも歓迎です。何か一言コメントしてくだされば光栄です。

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