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NEST OF WEST  作者: 佐倉蒼葉
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第2章

 だんだんはっきりと見えてきたフローリングの床の焦茶色で、落ちずに済んだのかと思った───いや、私の部屋の床より色が濃い。目だけを動かすと、誰かの足が視界に入った。素足、ジーンズの細長い脚、オレンジ色のTシャツと左手の電話、右手は壁に突いている。顔。黒縁眼鏡。驚いた子犬のような目で私を見下ろす諒介の顔だ。

 私は目を疑って瞬きした。

 それを見た諒介は突然壁に右肩を付けた。ずっ、と壁を肩で擦って座り込み、はーっと深く息を吐き出すと、そのままごろりと床に転がった。

 私達はそれぞれ背中を丸めて寝転がった格好で向き合った。

 これは夢かもしれない。私が諒介の夢にお邪魔しているんだ。

「…あ。眠くなった」

 緊張感のない声で諒介は言った。

「えっ」

「いや、…その、上手くいくか判らなかったから…」

「夢なのに眠くなるの?」

「え?」と彼は閉じかけた目をぱちっと開けた。「…いや、その説明はあとで…。ここしばらく、あまり寝てない…だ。一時間で起こして。その間に…落ちそ…になったら蹴っ飛ばして起こして」

 言い終えると、彼はもうスーと寝息を立て始めた。素晴らしい寝付きの良さ。私は音を立てずに拍手をした。

 また眼鏡をかけたまま眠っている。寝付き方も子供というより赤ん坊だ。私はむくっと起き上がった。ずいぶんリアルな感触の夢だが、ここはどこだろう。諒介が電話を持っているから、多分彼の部屋だ。

 あ、と気付いて彼の左手の受話器を取り上げた。耳に当てると、どこかに繋がっているようだ。話し中で眠ってしまうなんて、と考えて、私と話していたからいいのか、と思い至った。

「もしもし?」

 返事はなかった。やはり私の部屋なのだろう。電話を切って「あれっ?」と声に出した。電話をかけたのは夢だったのだろうか。

 夢と現実の区別がつかない。

 ぐるりと部屋を見回した。ワンルームだ。物が少ないからか広々している。隅にパソコンデスク、そこからベランダの窓を挟んでベッド。その足元の方に箪笥。箪笥の上にはごちゃごちゃと細かい物が積み上げられていた。『こち亀』の単行本と、プラモデルの箱。箪笥から少し離れて、小さい丸テーブルと椅子が一脚。その側に縦長で背の低いチェストがあり、その上に電話があって、その前に諒介が転がっている。箪笥の向かいの壁際にテレビ、ステレオ、そしてパソコンデスクに戻る。

 ぺたぺたと歩いてあちこちを覗いた。壁と同じ色の扉は何だ、と開けると小さな物置だった。掃除機と、なぜかギターが一緒に入っている諒介の謎の感覚。

 玄関へ伸びる廊下の方に、全く使っていないと一目で判るキッチンと、お風呂、トイレ。玄関にはコンバースとお便所サンダルが並んでいた。

「…しかも健康サンダルだったとは」

 子供だか親父だか判らない。私は三和土の前で脱力した。

 ぺたぺたと部屋に戻った。

 先刻、どうしたのだっけ、と考える。確か私が落ちそうになって、諒介が「来い」と……

 私は諒介を蹴飛ばした。彼はがばっと起き上がると私を見て「…ああ、」と言った。

「蹴飛ばすのは非常事態の時だけ。起こし方くらい考えなさい」

 叱られてしまった。諒介がまた寝ようとするので、私もまた蹴った。今度は爪先で軽く。

「非常事態だよ、何が何だか判らないんだもの」

「そうか」

 彼は素直に起き上がり、眼鏡を外して目をこすった。

「…何から言えばいいのか…」

「考える時間あげるよ」

「うん」と言って眼鏡をかけ、諒介はチェストの横の壁に寄り掛かって脚を投げ出した。私は彼の斜め前に膝を抱えて座った。彼は眠そうな顔でしばらく考え込んでいたが、「まず」と人差し指を立てて『その1』である事を示した。

「これは夢ではありません」

「え?」

「由加が落ちたその先に、僕の部屋があったという事だ」

 私は床を見た。濃い色が暗がりのようで怖い。私はのそのそと這って、諒介の隣に移動した。壁に寄り掛かって何となく彼の袖をつかむと、彼は向こうを向いてぷっと笑った。

「…由加が落ちそうになる所を見たのは一度だけだったし、あの時は落ちないようにするので必死だったから考えられなかったんだけれども、こっちに戻ってから、『もしも落ちたら由加はどうなるのだろう』と考えたんだ。でもまさか試す訳にもいかないしね」

「当たり前でしょう」

「当たり前だな。で、」と彼は指を二本立てて『その2』を私に見せ、「そんなある日に面白い出来事があった。僕は仕事を終えて帰宅してコンビニで漫画を立ち読みして、」

「そんな事してたの」

「してたんです。弁当その他を買ってここに戻る途中だった。桜の花びら舞う気持ちのいい夜で、散歩がてらに少し遠回りして歩いたんだ。あんまり気分がいいんで鼻歌も歌ってしまった」

「……」

 私が見た夢と同じだ。

 私は諒介のTシャツの袖口を掴む手にきゅっと力を込めた。

「そうしたら、後ろから『諒介』と呼び止められて、振り返ったらチビの女性が」

「誰がチビよ」

「そう、まさしく由加がそこに立っていて、にっこり笑っていた。驚いて、由加、と言ったら由加はすーっと消えてしまったんだ」

 夢───

「これは由加の身に何か起きたと確信して慌てて帰って、電話をかけた。すると由加はあろうことかピンピンしていて…イテ、ぶつなよ…うたた寝の夢に僕が出て来た、と言うんだな。僕が鼻歌混じりに歩いていた、しかも『上を向いて歩こう』までその時の僕と同じで、もしやと思っていろいろ訊いてみた。由加はその時の僕の服装を全て言い当て、カレーパンの事まで言われた時には天井からタライが落ちてきたかのような衝撃」

「…どういう衝撃よ…」

「ガーン、って…そんな肩震わせて笑わないでよ。こっちは本当に驚いたんだ」

 よっ、と言って立ち上がる諒介の袖に引っ張られて私も立ち上がった。彼はテーブルの上の煙草を手にして「まあ、座りなさい」と私に椅子を勧めた。私はようやく彼の袖から手を離して椅子に腰掛けた。彼はパソコンデスクの椅子を引いて私の正面に座った。

「…とにかく、由加は夢と信じ込んでいるようだったので、これはまた特異体質が新たな症状を見せているという事しか判らなかった。僕一人の幻覚ではない事は由加の夢が証明していたし、かと言って、それだけでは何が起こったのか判らない」

 そこで言葉を切って煙草に火を点け、目を閉じてまた少し考え込んでいた。やがてゆっくりと目を開けた諒介は、「そこで、これまでに起こった事をもう一度考えてみた」と真顔で言った。私は思わず姿勢を正した。

「正月に由加が澤田の部屋で髪を切った時の事を、僕は『由加が居なくなった』と言ったよね。…その前の突風の時に澤田が『冷酷というのは感情を無視する事』と言ったのを、僕が『自分が居なくなる事』と言い換えたのを覚えている?そう、おそらく由加は自分が居なくなる事で感情を無視しようとしたんだね」

 首を傾けて、斜めに私を見る。諒介は「うーんと」とまた考えながら頬杖を突き、

「これまでの例から言って、君が理由さえ納得すれば特異体質の症状は治まる。うん。…そこで僕が『自分を切り離さないで』と言った通り、由加は無視したい感情を切り離す事はなくなった。…さて、ここからは我ながら実に大胆な仮説ですが…」

「…そこまででも充分大胆だと思う…」

「そうかな」と言って彼はフッと笑った。

「正月に『居なくなった』由加と、その後に会社の給湯室から『居なくなった』由加、この二つはまったく違うように見えて、実は同じだったら、と考えてみた。だって『居なくなった』という事だけははっきりと同じだからね。…自分の感情を無視できなくなった由加が、どうしてもそれから逃れたい場合、本当に姿を消して逃げ出してしまうのではないか、と」

「……」

「実際、由加が言っていた『自分の周りが柔らかく溶けるような感じになる』のを目撃して、その場に居られなくなる───由加の言う『落ちる』、そういう状況になる事は既に判っていた。そして給湯室でも同じ事は起こっていた。…由加は『落ちた』、そして、えーとどこだっけ」

 諒介は椅子に座ったまま腕を伸ばして傍らのチェストの抽斗を開けた。取り出したそれを、地図?と覗き込む。中央区の地図、こんなもの、いつ買ったんだろう。テーブルの上に広げて、会社周辺の道を指でなぞった。

「澤田が言っていたのは聖路加から隅田川沿いに勝鬨橋方面…」

「公園…そう、ここ。あかつき公園」

「ここで気が付いたの?…会社から十分も歩かないな…。由加が給湯室へ行ってから澤田の由加発見まで二時間弱かかっているけど」

「…気が付いて…勝鬨橋に向かって歩いてたら澤田さんが来て…。割とすぐだったと思うんだけど…」

「うーん。謎だ」

「普通こんなの、謎だよ」と自分で言って傷ついてしまった。何となく俯く。

「いや、時間のことはとりあえずおいといて…、ここに出たのはなぜだろう。例えばさっきは僕が『ここ』に呼んだ。だけど給湯室からあかつき公園に出たのは由加の意志だ。落ちる時に何か考えた?」

「……」

 顔が上げられない。あの時、私は諒介を呼んだのだ。

「公園から勝鬨橋…」と彼は地図に目を落としてしばらく考え込んでいたが、「あ、」と言ったので私は顔を上げた。今度は諒介が俯いてしまった。クククと笑っている。

「すまないねえ」

 私は目の前のつむじに左ストレートを喰らわせた。彼は頭のてっぺんを手で押さえて顔を上げた。

「イテェ。何で殴るんだ。そもそも由加の特異体質を知っているのは僕だけなんだから当たり前だ。…最初だったからかな、大阪まで落ちなかったのは…それはもう想像でしかないけど」

「…全部想像じゃないの」

「うるさい。今、由加がここに居るのは事実だ」

 事実。

 体が震えだした。瞬きをしたら涙がぽろっと落ちた。

 諒介はそれを見て困り果てた顔になり、首を傾げてじっと私を見た。

「───そんな事を考えていたものの、給湯室から『居なくなった』のと、カレーパンの夜との大きな違いもあって、確信するには至らなかった。それは、落ちた事は覚えていないのは同じだけど───落ちた、と仮定してだよ───、僕を呼び止めた由加には落ちる時の恐怖のようなものは見られなかったからだ。夢だと思い込んでいるし…。そして二度目の澤田の電話があった」

 二度目と言いながら、諒介は二本目の煙草を箱から抜いた。私は澤田さんの電話と聞いてどきっとした。

「その時は僕は会社に居て、由加がまた居なくなった、と聞いてすぐに仕事を抜けた。もしも落ちたなら、僕の所に現れる可能性もあった…いきなりみんなの目の前に現れたら大変だからね。会社の近くの公園に避難した訳だ」

と言って彼は苦笑した。間違いない、ポラロイド写真の公園の事だ。

「後はもう由加が覚えている通り、僕は夢を装って由加の様子を見た。夢だと言われて素直に信じているし、落ちそうになっていないかと訊ねたら『うん』と答えた。そこで───また君を試してしまって本当に申し訳なかったんだけど、『澤田の所』と、戻る先を指定してみた。さっきも由加の意思であかつき公園に出たと言ったでしょう。落ちた後の出現場所には落ちる時の由加の意識が関係しているだろう、と思っていたから」

 そうだ、気が付いたら勝鬨橋の上に澤田さんが居たのだった。

「当たってて良かった、ちゃんとここに来れたね」

と言って諒介は目を細めた。

「…どうして言ってくれなかったの…?」

「もう少し時間をかけて…、僕の立てた仮説が当たっているのか確証が欲しかったし、どう言えば君が事実を受け入れられるか考えてた。…予想外の急展開になってしまった」

 彼の顔は傾いたままだが、視線だけは真っ直ぐだ。頼りない笑みで、唇をぎゅっと結んで私を見ていた。

「時間をくれってこの事だったの?」

「いや、その、…夢という事にしていたのは…その事とは別で」と軽く何度も頷く。「時間の事はその前から言っているから…。うん。時間の宿題はたまる一方だ…」

 そう言うとフッと笑って視線を外した。

 どうして諒介はそんなに時間にこだわるのだろう。

 訳の判らない不安を片づけるように、私は地図を畳んだ。彼は「最大の問題は」と言いながら、眠いのか指先で両目の目頭をきゅっと押さえた。

「今回はどうやって戻ればいいのか判らない事だ」

「…えっ?」

「前回は由加が夢だと思い込んでいたから、目を覚まそう、と言って帰した。しかし今回はばっちり目覚めている。どうしたらいいんだ」

「…えっ?私、帰れないの?」

「嘘。新幹線で帰ればいい。ハハハ、すぐひっかかる」

 畳んだ地図で諒介の脳天を叩いた。

「うーん。まいったな」

「何が」

「いや。…その、…ああ、うん」

 得意の自己完結。じっと睨むと彼は「ごめん、電池切れます」と言ってぱたりとテーブルに突っ伏した。

 何でそんなに眠いのだろう。そういえばここしばらく、あまり寝ていないと言っていたが、何かあるのだろうか。

 私は両手で頬杖を突いて、諒介の癖のない細い髪の頭と、傍らに置かれた黒縁眼鏡をぼんやりと眺めた。窓の外を車が一台走っていった。その音で、そういえばこの部屋は一階だったっけ、と諒介の住所を思い出した。この辺りはずいぶん静かなんだな…と思っていると、突然、電話のベルが静寂を破り、諒介が頭を上げたので驚いた。彼は「やっと安心して寝られると思ったのに…」と言いながら眼鏡をかけて、電話に手を伸ばした。


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