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二元論から生じる葛藤

作者: amu

小説家志望というわけではないですが(憧れの領域)、とりあえず小説の執筆などに関しては思い入れもありますので、自分の思いを形としたものを小説として書いてみました。

「かわいそうにねェ」


 近所の主婦たちが世間話をしているさなか、そのようなセリフを口にしていた。

 近所のおばさんたちや、学生らの立ち話なんて、ボクにとっては道端に転がる犬の糞のようなものだ。気にもしないほど他愛のない存在だが、なんとなくうっとおしいと感じるもの、という意だ。

 彼らの会話を聞いていると、人間の良い面、悪い面、の二面性が抽象的に感じられる。耳を傾けてみれば、彼らの会話が他愛のないもののようで、実は「意見や情報の交換」という、まるでインターネットのブログや掲示板のような、そんな雰囲気すら感じられる。ようは、面と向かって直接話すか、顔の見えない相手と文字だけで会話をするかの違いでしかない。

 彼らの会話を聞いていると……なんだか、心が白濁に染められるような不快感を感じたので……そのうち、軽く聞き流す程度にとどめておいた。


 白銀の粉が、雲がかかった空から振り、宙を舞っては地に落ちる。素肌を凍み付かせる凍てついたそよ風が頬をさす。太陽が雲に隠れているので、日光が塞がれ、寒さをひきたてる。コンクリートの地は雪が積もり、冬眠する虫のごとく初春まで姿を見せることはないだろう。

 鼻歌を口ずさみながら、職場へ続く歩道を歩む。

 今日もいつもと変わらない一日が始まる。仕事して、友達と仲良くしたり、ときにはケンカをしたり……そして家に帰れば、パソコンでネットサーフィンを満喫し、赤子のように寝息をたてながら翌朝まで眠る。

 そんなエンドレスな日常を苦には思わない。どこぞのドラマの登場人物のように、繰り返しの日常に苦悩したりなどしない。ボクは繰り返しの毎日の中に生きる意味を見出そうとする人間だ。それにいつかはこの繰り返しの毎日が壊れることがあるかも知れない。ボクが死んじゃったり、戦争が起きたり、とかね……クク。おっと、縁起でもないことを考えてしまったな。陰鬱な将来について考えたところで、時間という金を便所に流しているようなものだ。

 純粋無垢な幼少時代は、この世界に善悪という概念が存在するものだと信じていた。警察や弁護士は正義の味方で、殺生や万引きを行う人間は、裁かれるべき悪なんだという安易な二元論に疑問さえ持たなかった。

 ゆえに子供のころは、ヒーロー物の特撮ドラマが好きだった。強い主人公が好きなんじゃない。正義の主人公が悪の魔王を倒すという勧善懲悪なテーマが好きだった。見てると気持ちがよかった。

 でも徐々に成長していくと、勧善懲悪というものは、物事を深く考えない子供や浅はかな考え方の持ち主にしか共感を得られない非現実的な幻想であることがわかった。確かに子供向けのヒーロー番組や漫画やゲームなどに代表されるように、正義の味方が悪を挫くというのは、見ていて気持ちのよいものだ。しかし現実はそう単純には出来ていない。人間の性格や心理状態というものは、原因や過程があってこそ形成される。複雑な事情があるから人は悪の道に染まってしまうのだ。世の中には完全な善も完全な悪も存在しないのだ。

 我々人類がその典型なのだ。人間の心は善と悪、光と闇が共存する不安定な生き物だ。

 完璧な人間などこの世にいない。どんな人間にだっていいところも悪いところもある。でもボクには……そんな二元論を受け入れるほど安定した精神は持ち合わせていない。ボクには人間の醜い側面ばかりが目についてしまうのだ。

 そんな生き物の血が自分にも流れていると思うと無性にやるせなかったよ。

 こんなことを考えている自分もきっと精神がまともではないのだろう。ボクの脳内では、大勢の哲学者が結論を得ることのない議論をいつまでも続けているのだ。

 ははっ……笑っちゃうよな。もうすぐ職場につくのに、歩きながらつい失笑を浮かべる自分……。

 「こんにちは」

 受付のおねえさんが、例によってそんな挨拶をしてくれた。彼女の目元や唇は、いつもこのとき、柔らかくくずれる。容姿端麗で清楚、こんな素敵な女性が受付なら、誰もが安心して通える病院だ。

 でもひねくれ者のボクには、彼女の笑顔の裏の黒く染められた感情が不思議と寡今見えてくる。ようするに、ボクはこんな素敵な人さえ信用できないのだ。

 やはりボクは異常だ。壊れてるんだ。精神鑑定を受けるのが得策かも知れないとさえ思えてしまう。

 でも大丈夫。ボクは表面上は壊れることはない。平静を保っていられる。表面さえまともなら、家族や友人たちと気兼ねなく付き合える。

 会計を済ませると、ボクはこの病院のすぐ近所の作業所に向かった。

 ここは高砂心療内科の病院。ただの風邪などで訪れる患者も多いが、中にはボクのように、複雑な事情を抱えた人が患者として訪れることもある。

 そういう人たちは、作業所で働くことになる。作業所とは、ボクらのようにデリケートな事情を抱える人々が、社会に出て働く練習をするために働くところだ。

 「ちわ〜っす」

 ボクは誠意を込めずにそんな一声を発した。

 1階建てで、12畳ほどのフローリングの床には、テーブルが4つ、ひとつのテーブルには白いクッション座布団が4つずつ置かれていた。

 カウンターには、コーヒーメーカーやポッドなどが置かれており、隣には小型の冷蔵庫が設置されている。

 ミーティング室のドアを軽く叩き、中に入る。

 「おはよ、大河君」

 まずそう挨拶してきたのは、20代中盤の女性だった。丸い目やおさげが少々若さをひきたてている。栗色のハイネック・セーターに、タイトな桃色のスカートという服装。

 「おはよ、大河」

 次にそう挨拶したのは、20代前半の女性だった。セミロングで茶色く染められた髪、顔たちは柔らかく憎悪や敵意などといったいやらしい感情は皆無であることを表せている。黒のシャツのうえに赤いパーカーを羽織っており、長く細い脚にフィットしたジーンズを履いている。

 「おはよう」

 落ち着いた口調でそう挨拶したのは、20代前半の青年だった。身長は165、6cm程度で、顔や体躯など全体的に丸みを帯びている。

 「おはよう、リカちゃん」

 今度はボクのほうから挨拶してきた。その相手は、10代後半の少女だ。身長は155cmほどで、顔は小さく少し丸みを帯びている。瞳は黒く澄んでいるが、どこか遠くを見ているような眼差し……口元はきつく結ばれている。

 髪は腰まで伸びており、紫のセーターに、デニムのスカートという服装。

 ボクが挨拶したのに対し、彼女は無言だった。ボクは苦笑すると、ソファに座った。

 今更気にすることはない。彼女は性格が悪いわけではないし、むしろ人間不信のボクでさえ彼女のことは決して嫌いではない。

 あえて言えば、ボクはリカちゃんが好きだ。容姿端麗なだけでなく、無口で無愛想ではあるけど、理知的で聡明、そしてどこか気丈そうではあるけどどこか寂しそうな彼女に……ボクは好意を抱いていた。

 でもその気持ちは決して誰にも話すことはないだろう。想いは人に語るものでなく、胸にしまっておくものなのだから。

 「さて、今日のミーティングを始めるよ」

 そう言ったのは、おさげのみっちゃんだった。

 「今日はカレーを作ります。すでに予約が何人か入ってるんだよね」

 その何人かというのは、病院の職員たちのことだ。

 この作業所は社内食堂のようなものだった。病院の医者や看護士、他デイケアのスタッフの方々が客として訪れる。

 ボクたちにはまだ一般の客を相手にするには早いのだ。まずは病院の人たちを開いてに仕事を始めるのだ。

 一般人にはいろんな人がいる。当然、ものわかりの悪い嫌味な客も来るはずだ。

 そんな客を相手にするには、ボクらはまだ未熟すぎる。それがボクたちなのだ。

 「今日の役割分担は……あいらちゃん、リカちゃん、まっちゃんがカレー作り。大河君が清掃係。それでいいわね?」

 全員が了承すると、作業が開始された。

 カウンターを布巾で丁寧かつ力強く拭いていく。視力に自信があるボクは、埃ひとつ見逃さない。

 「今日もテキパキとがんばるねェ」

 みっちゃんがそう言ってきた。

 ボクは賞賛の言葉をかけられると、意外と喜びを感じるタイプだ。むしろ、ねぎらいの言葉をかけてもらうことにより、自分が何のために生きているのか。その存在意義を見出せるほどの喜びを感じてしまうのだ。

 ボクって人間が小さいのかな。だって、他者の評価を気にする人間なんて、ちっぽけな人間じゃないか。他者の意見など関係ない。あくまで自分は自分。それなのにボクは……。

 「ところで、大河君はこんな話、聞いた?」

 みっちゃんが少し弱い口調でそう言ってきた。

 「何がです?」

 「今朝ね……2丁目の醤油工場の前に歩道があるでしょ?あそこで……犬の死体が発見されたんだって」

 それを聞いたとき、主婦のおばさんたちの会話を思い出した「かわいそうに」と言っていたのは、その犬のことらしい。

 「そうですか……」

 ボクは溜息をついた。

 「かわいそうだよね……。いいひとに拾われず、寒くて死んじゃったんだって……」

 かわいそうに……か。果たしてその犬にそういう哀れみの感情を抱いている人間はどれだけいるだろう?

 同情してくれる人間がたくさんいたところで、犬は救われない。人間は口では優しいことを言っても、いつも人間中心にものを考えている。さんざん動物をペットとして見世物にしたり、家畜として利用している。こんな人間どもが本当に動物に対して優しさや哀れみの感情など持てるのだるか?本当に心底その犬をかわいそうだと思う人間が多いなら、今頃いいひとに拾われて、少なくとも一命はとりとめられたかもしれない。でもどうせそのあと、飼い主が見つからなければ保健所で処分されるのだ。

 すべて人間の都合だ。人間はこの世界の支配者であり、他の動物や虫や自然を自分たちのいいように利用している。そんな人間は他の生き物から見ればとんでもない悪者だろう。

 そう思うとボクだって胸は痛いが、でも人間は動物の支配、そして動物を二の次とするやりかた、考え方をやめるわけにはいかない。やめてしまえば、我々人間が滅びてしまう。でもその人間同士でさえ、醜い戦争をしたり、くだらないことで殺し合いをしたりすることもある。

 そんな人間の醜さの極みをボクは直視してしまったのだ。

 結局、人間ってなんなんだろう。ちょっと他の生物より進化しているだけなのに、他の動物や自然なんて二の次という慢心を持った不埒な生き物なのではないだろうか。

 ならばせめて人間同士では仲良くすればいいのに。それなのに、くだらない理由で殺生や暴力事件などが起きたり、醜い戦争までしてしまう始末。

 そんな生き物の血が自分にも流れていると思うと……無性に憎くなる。

 「ほら、大河君、どうしたの?」

 ボクの思考はみっちゃんの声で静止された。

 「時々、何か考え事して手が止まってるように見えるけど……何かあったの?」

 みっちゃんはボクのことを心配してくれているのだろうか?

 人に心配されるのは嬉しかった。自分の気持ちを察してくれる人間がこの世界のどこかに存在すると、救われた気分になる。

 でもボクは誰にも自分の考えや悩みを話そうとは思わない。

 どうせ誰かに話したところで、本当の意味での理解や共感は得られない。わざわざ話すまでもなく、それがわかるのだ。

 人は自問自答しなければいけない生き物だ。他者に答えを求めず、自分の答えは自分で見つけ出す。これは自分との戦いなのだ。悩みを他人に相談するということは、自分との戦いから逃げることに等しい。

 人によっては偏見に感じられるだろうが、これがボクなりの信念であり、哲学なのだ。

 掃除を終えると、キッチンを覗きに行った。まっちゃんがガスコンロの上の鍋の茶色く濃いものにおたまを入れて、おもむろにかきまぜている。

 カレー粉の鼻にまとわりつく濃厚な香り。この匂いを嗅いだだけでも、このカレーがいつ出品しても恥ずかしくない名作であることがわかる。

 元来料理に関しては素人だったボクたちも、この店で働くようになってからはずいぶんと経験を積んだのだ。

 ただし、ボクらは調理師の資格を持っているわけではない。プロのコックさんではないのだ。

 それでもここが作業所であり、ボクら職員が作業所の人間なら、調理師の資格など不要なのである。

 大切なのは、いかにここの人間を自立させて、本場の社会に輩出するか、だ。

 ボクもいつかは社会に出るつもりだ。小学生のように、「将来何になりたいの?」と聞かれても今のボクには答えようがないが……今は特にやってみたい仕事などはないのだ。ここにいる職員は大体そうだ。

 でもいずれは見つけてみせる。いずれ社会に出て、決して華々しい職や身分ではなく、ごく平凡な立場で平凡に仕事をこなし、植物のように何者にもとらわれず、頭を悩ませることもなく生きていく……他人と価値観を押し付けあったり、勝ち負けにこだわったり、夜も眠れないといった敵を作らない……それがボクの社会に対する姿勢であり、自分の信じる生き方なのだ。

 回転準備が整った。エプロンとバンダナをして、テーブルには砂糖やミルク、メニュー表などを置く。

 「今日は、あいらちゃんがホール、大河君とリカちゃんがドリンカー、まっちゃんがバック、ってとこでいいかな?」

 ボクがリカちゃんとドリンカーか……。お冷やコーヒーを入れてホールに渡すポジションだが、これをリカちゃんとやるのか……。

 「がんばろうね、リカちゃん」

 ボクはそう言ったが、リカちゃんは返事をしなかった。頷きもしなかった。

 正直、彼女の愛想のなさや、話しかけても返事してくれない対応に、少し腹が立つことがあった。必要以上に馴れ合うつもりはないが、同僚である以上は最低限仲良くしたり、虚勢でもいいから笑顔を振りまいてくれることも必要だ。

 でもリカちゃんは……容姿端麗で聡明ではあるし、そういう意味では賞賛に値する人物ではあるのだけれど……彼女は周りに壁を張っているのではないだろうか?自分の中に自分だけの世界を創り、他者を介在させない……それが彼女のスタイルなのだろう。

 でもだからこそ、ボクは彼女に好意を抱いていた。こういう飾らない人間をボクは好きなのだ。やはり人間誰でも、本当の自分を押し殺している面がある。でも彼女にはそれがない。自分というものをかなりのパーセンテージで表面化している。

 ボクはこういう人を求めていたのかも知れない……。

 「いらっしゃいませえ」

 さっそくお客様が来た。例の受付嬢の水石さんと、看護士の加藤さんだ。

 リカちゃんが冷蔵庫からお冷の入ったビンを取り出し、コップに注いでホールに渡す……柔道の達人が相手の胴着の着方を見ただけでその実力を見分けるように、ボクもリカちゃんのその仕事ぶりをほんの少し見ただけで、彼女が仕事のできる人間であることがわかった。まだここに通って数ヶ月程度なのに……。

 まっちゃんも渋い口調で客たちからオーダーをとる。

 やはりみんな、確実に進歩しているんだ。ボクは何か進歩できただろうか?能力、精神力ともに、何か成長しているのだろうか?もし今の自分が昔と比べ、大した進歩を遂げていないのなら、実に嘆かわしいことだ。先日もクラス会で会った友人に、「何も進歩してないな」と言われたときはショックだった。

 無論、本人はまさか中傷の意味で言ったわけでないことはわかっているが、ボクにとっては昔より進歩してないと言われるのは、プライドを傷つけられることに等しい。おかしなプライドかもしれないが……。

 人は衰えない。死ぬまで成長し続けるものだ。

 ボクはそんな信念を持っていた。こればかりは誰にも崩されたくない信念であり、誇りなのだ。もっとも、他者に信念を否定されたくらいで感情的になるようでは、まだまだ自分が青臭い若僧である証拠だが……。

 「大河君」

 その声でボクの思考は制止した。静かにそう呼んできたのは、リカちゃんだった。

 「オーダー表見た?コーヒーがふたつ、注文来てるよ」

 ボクは苦笑すると、慌ててコーヒーカップとソーサーを用意した。リカちゃんがボクに話しかけるなんて珍しいことだ。まああくまで仕事上の会話なのだが……普段は無口なのに仕事のときは最低限しゃべれるというのも彼女の魅力のひとつだろう。

 コーヒーをホールに配る。

 さらにそのあと、4、5人の客が来て、今日はこれで閉店となった。

 2時間程度しか営業していない。でもボクたちにはこれで充分なのだ。

 後始末を終えると、反省会をした。

 「じゃあ、反省会を始めて、今日もおしまいにしましょう」みっちゃんがしきった。

 「まずはまっちゃんから。今日のお仕事はどうだった?」

 「そうですね……カレー作りでは私が主導権を握っていたつもりだったのですが……だからこそ、お客様に満足してもらえるか正直、少し自信がありませんでした……。でも、大抵の方が、笑顔で「おいしい」と言ってくれて、よかったです」

 この若さの青年のわりには、落ち着きがあり、論理的に話す人である。

 「あいらちゃんは、どうだった?」

 「私はねえ、今日バックで、食器洗いとかやってたんだけど……今度はまたホールがいいな、と思ったかな」

 相変わらずあいらちゃんは明るくサバサバとした口調でよくしゃべる子だ。やはり年頃の女の子はそんなものなのか?

 「リカちゃんは……どうだった?」

 みっちゃんが慎重に聞くが、やはりリカちゃんは、例によって無言を守り通した。

 「大河君は?」

 「ボクは……他の人の働きぶりを見て、自分の未熟さを痛感しました。このまま、みんなに追いついていけるか少し不安ですね……」

 ボクは苦笑を浮かべながら言った。

 「他人と比べなくたっていいんだよ」

 みっちゃんが言った。

 「そうだね。ボクらはあくまでボクらのペースで、大河君はあくまで大河君のペース、だからね」

 まっちゃんがまた論理的に言う。

 「……そうだね」

 確かに彼らの言うとおりだ。他者と比べて自分を追い詰め無意味な努力をするなんて、植物のように平和な暮らしを過ごそうとするボクの信条に反する。

 一同は解散し、ボクは家に向かった。

 電車に乗り、幌向の駅に着き、家に向かって歩む……。

 幌向は田舎で建物も少なく良い施設もあまりないが、そのシンプルさや穏やかな空気を楽しむにはうってつけの町だった。

 歩いていると、ミニダックスを連れた女性がすぐ近くに通りかかってきた。

 「こんにちは」

 彼女はなぜかそう挨拶してきた。

 年齢は20代後半で、長い髪は繊細で柔らかそうで、顔は、目や口が清潔に浮かんでいる。

 純白のシャツの上に桃色のブラウスを着ており、純白のスカートを履いている。

 身長は170cmほどで、痩せて長身である。

 「こんにちは」

 ボクも思わず挨拶を返した。

 「あの……どこかでお会いしましたっけ?」

 ボクはそんな質問をした。

 「いえ、わかんないです」

 彼女はそう答えた。あたりまえだ。この人とは会った覚えがない。

 ただ、今さっき彼女はあまりにも気さくに挨拶してきたので、知り合いなのかなと思ったのだ。

 彼女が連れている犬がボクにじゃれついている。ボクは無言で犬の頭をなでてやった。

 「犬、大丈夫ですか?」

 飼い主がそう聞いてくる。

 「大丈夫ですよ。ボクも犬飼ってるんで」

 「へえ、何の犬ですか?」

 ずいぶん気さくに話しかけてくる人だ。つい今道端で会った人とここまで気軽に会話できるものなのか?

 「ゴールデンレトリバーです」

 「へえ、じゃあリオより大きいんですね」

 リオというのはこの犬の名前らしい。

 確かにうちの犬はこのリオの3倍の体躯はある。

 ボクはリオから手を放し、立ち上がった。

 いつまでも知らない人と立ち話するのはどうも苦手だった。

 「それじゃあね」

 彼女はそう言ってリオを連れて歩み去っていった。

 本当に彼女は今初めて出会った人間なのだろうか?何か不思議な縁を感じる……。


 「へえ、世の中にはそういう人もいるもんだねェ」


 母が週刊誌に目を向けながらそう言った。

 12畳ほどのクッションフロアで、ソファがひとつ、大型のテレビがひとつ。

 キッチンではテーブルがあり、ボクと母はここで食事をする。父はソファの前のテーブルで食事をするのだ。

 「よかったじゃない?そんないいひとに会えてさ。あんたみたいなひねくれ者と道端で会っただけで仲良くしてくれる女の人なんてさ。しかも、けっこう綺麗な人だったんでしょ?」

 「……どうかな。自分の良さを他人に見せることで自己満足する偽善者ってのもいるし」

 ボクのその発言を聞いた母がボクを睨んだ。

 「あんたねェ、その性格なんとかしたほうがいいよ?その人は道端で会っただけのあなたに優しくしてくれたんだよ?いいひとに決まってるじゃない」

 ボクは溜息をついた。

 いつも母には呆れさせられる。こういう物事を善悪か正しいか間違いかでしか判断できない古典的思考の持ち主が自分の親であるというだけで胸糞悪くなる。

 ボクは母の説教に応えず、2階へ上がった。

 六畳ほどの部屋がボクの部屋だ。壁側にはデスクが置かれており、上にはノートパソコンが置かれている。安物のパソコンの傍には100円ショップで購入したアナログ時計、飲みかけのコーヒーカップなどが置かれている。左端にはベッドが置かれている。その隣には本棚、ファッション誌や官能小説などが整然と並んでいる。

 ボクは溜息をつき、椅子に座ってパソコンを起動させた。

 仕事から帰ってのんびりネットサーフィンに明け暮れるのがボクの趣味であり、日課なのだ。

 「あらあら……相変わらず、この掲示板は荒れてるな。ご愁傷様」

 多くの偏見が得意げに力説されたホームページ、そしてくだらない議論や幼稚なケンカなどをする掲示板などはたくさん見てきた。

 ボクが人間を醜い生き物だと感じた理由の7割がこれだ。

 ネットの世界では、自分の顔が見られないことで、奥底に秘められたドス黒い感情がネットという二次元の世界で表面化されるのだ。人間の醜い本性はネットで強く現れる。ネットのサイト管理者や掲示板の住人なんて、そんな愚劣な人間ばかりなのだ。

 でもそんなものを見てきて、無駄になったわけではない。むしろボクにとってはずいぶんな利点となった。

 おかげで、人間というものを……人間の本性、醜さの極みを悟ることができたのだから……。

 人間は自分との戦いから逃げているような気がする。人間は人間の醜さや未解決の問題から目を背けているように見える。

 動物や自然をいいように支配する自分らに何の疑問を持たないのも、それだけ自分たちが醜い生き物であることを悟りたくないからだ。

 「自分は正常だ」と言ってる人は自分という人間を客観視できない哀れな生き物だと思う。人間なんてみんなそんなもんだ。

 「くそっ……こんなこと考えていたって、しょうがないじゃないか」

 ボクはデスクを軽く叩くと、パソコンをシャットダウンし、夕飯を食べに行った。


 日曜日の昼、ボクは札幌の町をあてもなく一人旅していた。

 中高生は友達とつるんでどこかに出かける人が多いが、自分は性に合わない、

 旅に仲間がいても、余計な重荷を抱えるだけだ。ひとりのほうがおいしく独特の空気が吸える。

 しょせん人間というのはこの世でたったひとり。家族や他人は、生きていくための糧に過ぎない。表面上仲良くしている連中を見ていると、不思議とそんな考えを持ってしまうのだ。

 親や兄弟だってしょせんは他人だ。先日、ボクがこう言うと、母は激昂に顔を赤くし、「親が他人ですって?そんなふうに言うんだったら、自立してひとりで生きてみなさいよ」とか叱責していたな。

 やはりボクの母は勘違い人間だ。考え方が古典的で底が浅い。

 結局、友達はもちろん、親や兄弟だって他人に過ぎないのだ。自分以外の人間は全て他人なのだ。

 母は「食べさせてあげている親を他人扱いするなんて何様よ」とでも言いたくならんばかりに親としての誇りを傷つけられたつもりだろうが、食べさせてくれようと、生きるための協力をいかにしてくれようと、結局他人は他人なのだ。

 そういう母は、確かにボクを活かしてくれているが、ボクと心を共有できるほどの人間だとは思わない。ボクにとってあの母親は本当の意味での親ではないのだ。くどいようだが、ボクにとって、自分以外の人間はすべて他人だ。

 こんなことを母に直接訴えても、母も決して妥協しないだろう。あの母は、物事を正しいか間違いかという安易な二元論で解決しようとし、自分とは違う意見を持つ人間には容赦しないのだ。

 考え方なんて十人十色なのに、ボクより30年以上も生きているくせにそれがわからないなんて情けない親だ。

 しかもアイツは、友人や上司には逆らえないくせに、息子であるボクにはいいように自身の価値観を押し付けるのだ。

 「ボクを息子だと思って見くびっているな、だからそんな言い方ができるんだろ」

 ボクも大人気なく感情的にそう反論したことがある。するとアイツはなんて言ったと思う。

 幼稚に眉を怒りで尖らせ、「見くびっているとか、そんな問題じゃない」などとほざきだしたのだ。

 そんな母といつまでも議論したところで結論に達し妥協できるわけがない。少なくとも、相手は自分とは違う価値観を受け入れられず、息子であるボクにはいいように自身の主観と偏見を押し付けるのだから。

 「ちくしょう」

 ボクは思わず、街中でそんな大声を出してしまった。町全体を揺るがす、というほどではないにせよ、そこらの人には聞かれてしまったはずだ。

 「ちくしょう」

 オウム返しに、それも混乱した九官鳥が発するようないやらしい声が聞こえた。

 声のほうを見ると、2人組の10代後半の少年がこちらを下卑た声で笑いながら見ていた。

 ひとりはスキンヘッドで、引き締まった筋肉を強調した黒のタンクトップを着た少年。

 もうひとりは、逆立った金髪、ブルーのシャツの上に水色のジージャンを着た少年。

 ふたりとも、口元は笑いで歪んでいるが、目は凄むようにこちらを見ている。

 「ヘイユー」

 金髪が気安く話しかけてきた。

 「こんな街中で大声出して、迷惑なんじゃねーの?そのへん、わかってんの?おい?」

 ボクは無言で立ち去ろうとしたが、ふたりが詰め寄ってきた。

 「おいおい、シカトしようってのか?ナメてんのかよ、ああん?」

 やれやれ。力でものを言わせる典型的な不良タイプか。

 こんな便所に沸いたダニ虫以下の餓鬼どもを見てると、殴る気すら失せる。

 とはいえ……殴りでもしなければ、こちらが殴られるだろう。

 「ぶぐふっ」

 ボクは軽くドアをノックするような原理による裏拳で、スキンヘッド野郎の顔面を殴る。

 「このタゴ作がァ」

 金髪が意味不明な掛け声とともに殴りかかってくるが、ボクはそれを左手で受け止め、右のひじ打ちを彼の腹部に当てた。

 ボクはさらに彼の胸倉を掴み殴ろうとするが、静止の声で押さえられた。

 「わあ、待ってくれ!わかったよ、オレらが悪かった!許してくれよ、ねっねっ」

 ボクは溜息をつき、彼の胸倉から手を放した。確かにこれ以上暴力を振るえば、こちらの全面的な責任と見なされる。

 世間の警察や先公どもは、物事を善悪でしか判断できない偏った思考の持ち主で溢れているから、事情もろくに調べず、「いいものはいい、悪いものは悪い」「お前が暴力を振るっていたから、お前が悪い」などのような安易な偏見を言ってくるのだろう。警察や先生がそんなのだから、ボクはこの腐った世の中を憎んでしまうのだ。


 それにしても、高校の部活で習っていた空手が、まさかこんなところで役に立つとは……。

 世の中、理不尽な暴力を働く愚者が多いから、そんな彼らから己を守り、心身を鍛えるために習っていた空手……。

 空手で学んだのは空手だけではない。礼儀や様々な教訓も学んだ。ボクが律儀な性格になったのも、空手に通ってからだったろうか……。


 やはりダメだな。

 ボクは同じ人間でありながら、同種を好きになることはできない。

 こんな暗い気持ちのまま、生涯を終えるんだろうか……。


 そんなことを考えているときだった。

 突如頭に強い衝撃が走ったと思い、振り返ると、サッカーボールが転がっていた。幼い男の子が駆け寄ってきた。


 「コラ、ダメじゃないか、こんな車がたくさん通ってるところでサッカーしちゃうなんて」

このとき、ボクは少年を偉そうに説教している自分を疑問に思った。他人の子に説教するのはボクの役目じゃない。子供にもしものことがあろうとボクには関係がないはずだ。なのにどうして、ボクはこうして説教してしまっているんだろう?

「うん、わかった……。ごめんね、お兄ちゃん……」

 素直に謝る子供を見て、少し心にうずくものを感じてしまった。まさかボクが子供好きだということなのか?そんなはずはない、ボクは女だろうと子供だろうと人間はみんな嫌いなはずだ。同種では仲良くするくせに、他の生態系を狂わせる愚かな人間なんて……。それなのに、なんだ?この子供に対するこの感情は……?素直に謝ってもらえたというだけで、なんだか妙にボクのほうまで優しい気持ちに……いや、何を言ってるんだボクは?

 「どうしたの、おにいちゃん……?元気なさそうだね……まだ怒ってるの?」

 やめろよ……。そんなに優しくするな……。やめてくれ……優しくされるのは辛いんだ……苦しいんだよ……。

 「じゃあ、ボクもうそろそろ行くね。バイバイ、おにいちゃん」

 そう言って、少年はボールを持ったまま去って行った……。

 あの子供と会ってからというもの……何か暖かいものを得てしまったような気がする……それも悪くない気分だ……。ダメだよ、それじゃあ……。ボクは人間は嫌いなんだ。うん、そうなんだよ、きっと……。

 

ふと、車道のほうを見た。


 さっきの少年がボールを取りに行こうと、車の通りが多い道路に出てしまっている。

 だからなに?助けたり、注意の声をかける義務も義理もない。

 子供が悪いんじゃないか。道路に出てしまう子供のほうが。さっきあれだけ教えてあげたのに……。ひかれても自業自得だ。

ボクには……


 関係……ないじゃん……





 「う……ん……」


 気がつくと、そこは病院のベッドだった。

 周りの人……みっちゃんやまっちゃん、あいらさんやリカちゃんなどがこちらを見て、喜びの声や安堵の声をもらしている。

 「気がついた?よかったねえ、大河君」

 みっちゃんが言った。

 「道路に出ている子供をかばって、車にはねられちゃったんだよ。聞いたときは頭の中、真っ白だったよ」

 まっちゃんが言った。

 「そうそう。リカちゃんなんか、もうずっと泣いてたんだよ」

 あいらさんが言った。


 子供をかばった?ボクが?

 そうか……確かにあのとき……ボクは道路に出ている子供を、車から守った。

 

 なんであんなことをしてしまったんだろう。あれは道路に飛び出した子供が悪いんじゃないか。なんでそんな子供をかばってこんな病院にまで運ばれるほどの重傷を負わなければいけないんだ。

 人助けなんてボクの性に合わないのに……。他人はみんな憎い存在であるはずなのに……どうして……。


 「ほんとによかった……みんな、心配してたんだよ……みんな、泣いてたんだよ……」

 

 みっちゃんが涙ながらにそう言った。


 刹那


 ボクの心臓が激しく波を打った。


 温かい……。


 これが人間というものなのか……。


 人間が醜い生き物であるという考えは今もこれからも変わらないけど……。


 でも……人間の良い面も悪い面も含めて、そんな人間を受け入れなければいけない。人間の中に自己中心的で醜悪な部分にばかり注目していても……どうしようもないよな……。

 ボクはもうひとりで悩む必要はないんだ。この人たちがいる。仲間がいるんだ。

 自分のために泣いてくれる仲間が……。


 「人間というのも……まだまだ捨てたもんじゃないな……」


 ボクがふと放ったその一言に、みんなはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに笑った。


 完


 


人間は醜い生き物?それとも……決して二元論的には割り切れないけれども、そんな自身の考えを主人公に代弁してもらいました。主人公はその答えに、最終的には少し近づきましたが、作者は一生を費やしてもこの問題と戦っていくつもりです。最後まで読んで下さった読者様に厚き御礼申し上げます。

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