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カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
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母の願い

 礼拝堂で聖歌を歌うといっても、いきなり参加させられたファンは周りの学生たちの後に続いて、怪しい音程で歌うのがせいいっぱいだった。


「ファン君。ファン・ビュリダン君はどこにいるかね?」


 歌が終わり、礼拝堂を後にする学生たちの列の最後尾にいたファンを誰かが捜していた。ファンはきょろきょろと周囲を見回した。


(俺を呼んでいるのは、あの浅黒い肌の人みたいだ)


 夕方に対峙したモンテーギュ学院のドゥドゥーほどではないが、ファンよりも拳二つ分ぐらい背が高く、病気なのかと心配してしまうほど細身で、強い風が吹いたら倒れてしまいそうな枯れ木のような男が「ファン君。ファン・ビュリダン君はいるかね」と何度も大声を上げていた。


「俺がファン・ビュリダンです」


 ファンがその男に近寄ると、「ああ。いたいた」と気難しそうな顔とは裏腹にいささか軽い口調でそう言い、


「僕の名はガノレス。今日から君の指導役をすることになった助教授だ。えーと、ファン君がこれから起居する部屋に案内しよう。うちの学院では基本的に学生三人、部屋がいっぱいの時は四人が一つの部屋で共同生活をしてもらう。いいかね?」


 と、告げるのであった。


「問題ありません」


「そうか。じゃあ、こっちに来なさい。案内する」


 ファンがガノレスに従って行った先は、聖バルブ学院の建物の三階。しばらく使われていなかったのか、少しかび臭い部屋だった。かび臭いのは掃除をすればいいとして、ファンが疑問に思ったのは、


「誰もいないのですが」


 ということだった。ガノレスは他の学生と共同生活をしてもらうとさっき言っていたのに、案内された部屋は無人だったのである。


「君と同室になる予定の学生二人は、まだ当学院に来ていない。あと数日もすれば、やって来るだろうから、その時は仲良くやってくれ。まあ、つまり、その間は一人で好きに使っていいということさ。同室の人間が寝ている横では自慰も思うようにできないから、今のうちにたっぷりしておいたらどうだい?」


 ものすごく卑猥な冗談を言われたと思い、ファンは(大学の助教授がそんなことを口にしていいのか)と驚きながらガノレスを見たが、このひょろりと背が高い二十代後半ぐらいの男は聖人のごとく厳かな顔つきでファンを見つめていた。くすりと笑いもしていない。


 ……いや、よく見たら、口の端が少しだけ吊り上がっているみたいなので、本人は笑顔のつもりらしい。


(外見は賢者のようで、内面はかなりの助平と見た。何だか、変わった人を指導役に持ってしまったな)


 こんな人に勉強や大学生活の面倒を見てもらうのかと思うと、ちょっと憂鬱な気分になるファンだった。


「朝の六時にミサがあるから寝坊しないようにね。どうしても朝が苦手で起きられない時は、出席を誤魔化す方法を教えてあげるから、僕に言いなさい。では、おやすみ」


 そう言い残し、ガノレスは部屋を去って行った。


「……あの人とは、授業以外ではあまり関わりを持たないほうが、いいかも知れないな」


 ファンは一人呟き、どっと疲れが出てきた身体をベッドに倒れ込むようにして横たえさせた。ぶわっと埃が舞い、「げほ、げほ」と咳き込む。ファン一人だけの静かな部屋に咳の声が反響し、


(ああ。俺は今、一人なのだな)


 と、ぼんやりと思った。故郷を出た時は、ビュリダン城の鬱屈とした日々と父の偏愛から逃げ出せることを密かに喜んでいたファンだが、肉親のいない、かしずいてくれる家来たちのいない、赤の他人だらけの世界にいざ飛び込んでみると、情けないことに早くも心細さを感じてしまっていた。


 こんなにも寂しい思いをするのなら、別にガノレスの言うように自慰などできなくてもいいので、同室の学生がいて欲しかったとファンは思うのだった。何でもいいからお互いのことを語り合える相手がいてくれたら、望郷の念も頭の隅に追いやることができるのに。


「…………うん?」


 小さく、コツン、コツンという音。誰かが部屋のドアを密やかに叩いている。ファンは閉まっているドアをチラリと見て、


「ナタンだ」


 と呟くと、ベッドから飛び降りた。


 自分の従者のことをまた忘れていた。正確に言うと忘れていたわけではなく、グベア博士にあいさつをしたり、礼拝堂で聖歌を歌ったり、ガノレスの下品な冗談を聞いたりなど、とても忙しかったら、ナタンのことを気にしている暇がなかったのだ。


「入れ」


「入れ、じゃないですよ、ファン様」


 そう言いながら、ナタンはドアを開けて部屋に入ってきた。泣きそうな顔をしている。主人にほったらかしにされ続けて、不満が爆発する寸前といったところだった。


「すまない。忘れていたわけではない。ただ、お前のことを心配している余裕がなかったんだ」


「なおさらたちが悪いです。はるばるパリまでお供してきた従者のことを放置しないでください」


「うん。そうだな。俺にはお前がいたな。一人ではない。部屋の端っこは寒いから、もっとそばに来い」


 幼い頃からの付き合いの口生意気な従者の顔を見て、少しホッとしたファンは微笑んでそう言った。


「お前、寝る部屋はどうなっているんだ?」


「この学院には、他にも貴族の子息に従って来た従者たちがいますので、ここよりもずいぶんと窮屈な部屋に彼らと仲良く押し込められています。……そんなことよりも、ファン様」


「何だ?」


「サン・テスプリ施療院は、グレーヴ広場という場所にあるそうですよ。同室になった従者たちに聞きました」


「俺もグベア博士から聞いた。今度、そこに出かけて、あの人のことを調べてみよう」


「……今度そこに出かけようと簡単に言いますが、学生は学院の許可がなければ敷地の外には絶対に出られないそうですよ?」


「え? そうなのか? あのガノレスとかいう助教授、そんなこと教えてくれなかったぞ。それじゃあ、パリの街のどこかにいるはずのあの人を捜すことができないじゃないか」


「まあ、落ち着いてください、ファン様。ファン様はこれからの長い年月をここで暮らすのですから、いつかきっと、巡り会う時が来ますよ。お姉様と……」


「ここから一歩も出られないのにか? ……それに、巡り会ったとしても、顔も名前も分からない、俺が生まれる前に捨てられた姉なんだ。お互いに姉と弟だなんて、分かるだろうか?」


 ファンがパリに来た目的は二つあった。


 一つ目はパリ大学で学問を修めること。これはファンが幼少の頃から父のトマが決めていたことで、ファン本人の意思とは無関係だった。


 二つ目の目的は、ファンが生まれる二年前に誕生し、すぐに捨てられた姉を見つけ出すこと。これもまたファンの強い願望というわけではなく、生まれてこのかた、まともに親子の会話が成立したことがない、精神が崩壊してうわ言ばかり口にしている母親のカトリーヌが唯一言葉にして示した自身の願い――我が娘に会いたいという希望を叶えるためであった。


「あの商人の話によると、姉さんはこのパリのどこかにいるらしいが……」


 そう呟き、ファンは月光差し込む窓辺に立った。


 姉の捜索はなかなか困難を極めそうだ。そう思いながら、深いため息をつく。まさか、学院から一歩も出られないなんて……。


「…………うん? おい、ナタン。こっちに来い。あれは何だ?」


「はい? ……人、のようですね」


 窓の外を眺めていたファンは、学院の塀を越えようとしている複数の人影を発見した。目の錯覚かと思い、ナタンにも確認させたが、どうやら本当に学院の誰かが聖バルブ学院から抜け出そうとしているようだ。


「外出禁止だったんじゃ?」


「外出禁止だからこそ、夜陰に乗じてこっそり抜け出しているのでしょうね。いわゆる不良学生ですよ」


「そいつは困った学生たち……んん!?」


 ファンは窓を開けて身を乗り出し、ちょうど塀の上から外へ飛び降りようとしている人物を凝視した。


「ガノレス助教授!」


 うっかり大声をあげてしまい、その声に気づいたガノレスは(え?)と驚愕した表情で周囲を見回した。学院を抜け出そうとしているのを誰かに目撃されてしまったと狼狽しているのだろう。


「うわぁ!」


 ドスーンという音。ガノレスは、身体のバランスを崩して頭から落っこちた。


「……あの人、学生たちと一緒になってどこへ行く気だろう」


「そりゃぁ、酒場や売春宿でしょうな」


「とんだ不良先生だ」


 あきれ気味にそう言い、頭をぼりぼりとかいたファンだったが、


(ああやって学院を抜け出す方法はあるのか)


 姉を捜すため、場合によっては俺も不良学生にならないといけないかも知れないと頭の片隅で考えるのであった。




 かくして、ガスコーニュの田舎貴族の次男坊であるファン・ビュリダンは聖バルブ学院の学生となった。


 時は西暦一五二二年十月、パリはヴァロワ朝第九代・フランソワ一世の統治下にあった。


 宗教改革者となるジャン・カルヴァンがパリに留学する一年前、日本にキリスト教を伝道するフランシスコ・ザビエルがファンと同じ聖バルブ学院の学生となる三年前のことである。

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