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カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
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グベア博士

「グベア博士。ファン・ビュリダンという新入生が博士にあいさつがしたいとのことです」


 ファビオがドアをノックしてそう言うと、室内から「そうか。入りたまえ」という低いしゃがれた声が聞こえてきた。


「じゃあ、私たちはこれで」


「ありがとうございます」


 ファンは、ファビオとランベールに礼を言うと、グベア博士の部屋に「失礼します」と一声かけながら入った。


「おお。君がトマの息子か。そのくせっ毛の多い黒髪、濃い眉、大きな青い瞳。どれも父親そっくりだな。さあ、遠慮せずにここへ座りなさい」


 グベア博士はさっきまで目を通していたらしい書物を机の上に置くと、人の良さそうな笑みをファンに向け、手招きをした。


「はい」


 ファンは頷くと、部屋の主であるグベア博士を圧死させかねないほどあちこちに山積みにされた本の塔を蹴って倒壊させてしまわないように気をつけながら、グベア博士の横の椅子に腰かけた。


(ずっと埃がかぶった部屋にいるせいか声は老人のようだが、見た目は父上よりもずっと若いんだな)


 日々学問を追及して、若い学生たちに囲まれた生活をしているからだろう。すっかり老け込んだ父のトマと同世代とは思えないほど、グベア博士は若々しい外見をしていた。


 さっき、グベア博士はファンの「くせっ毛の多い黒髪」がトマと似ていると言ったが、ファンは黒髪の父を知らない。物心がついた時には、トマはすでに白髪で、実際の年齢よりも二十歳は老化していたのである。「城主様もあんな出来事があったのだから老け込んでも仕方ないだろう」と人々は噂しあったものだが……。


「ビュリダン家の次男、ファン・ビュリダンです。どうかご指導のほど、よろしくお願いいたします」


 少し緊張しながらファンはそうあいさつをして、グベア博士に父の手紙を渡した。神経質で心配性なトマが書いた手紙は、「息子のことをくれぐれも頼む」という内容がくどくどと記されているであろうことはだいたい察しがつくが、グベア博士が思わず苦笑してしまうほど異常に長ったらしいものだった。


「これを読むには時間がかかりそうだから、後で読んでおくよ。ただ、君のお父さんは自分の若い頃の夢をファン君に叶えてほしいと強く切望しているようだね。君が入学する前にトマと何度か手紙のやり取りをしたが、若かりし頃に戻ってやり直したいと書いてあったよ」


「父の夢、ですか」


「うん。君のお父さんは、そもそも、ビュリダン家の七人兄弟の末っ子だった。ビュリダン城を継ぐなどとは十代の頃には夢にも思っておらず、学問を志してパリ大学に入学し、ここ聖バルブ学院の学生となり、同室で起居した私と将来について語り合ったものだ。彼は立派な哲学者になりたいと目を輝かせて言っていた。……だが、兄弟が病死したり、軍人となって戦死したり……色々な不幸が重なって城の後継者がトマ一人になったため、あいつは泣く泣く故郷に戻り、城主となったのだ。……まあ、こんなことは君もトマから直接聞いているとは思うが」


(初耳だ)


 いや、噂などで間接的には耳にしていて、父の過去を何となく知ってはいたが、寡黙なトマはファンに学者を目指していた青年時代の話などしなかった。ここまで詳しく父の過去を伝え聞くのは初めてだ。まず、目を輝かせて雄弁に夢を語る父の姿など、まったく想像できない。この世の悲しみの全てを背負い込んだような、人生のあらゆる理不尽に打ちのめされたような、疲れ切った父の背中を見てファンは育ってきたのである。


「パリ大学では、二年ほど人文学と雄弁術を修めた後、次の三年半は哲学を学び、それから各専門分野の神学、法学、医学、哲学に進む。ファン君はどの専門分野を選ぶ気だい? やはり、トマと同じ哲学か?」


「そ、それは……。まだ……」


 決めていません、とファンは顔を赤らめながら、蚊の鳴くような声で言った。何の将来の展望もなく大学にやって来た愚か者だと思われるのが恥ずかしかったのである。だが、まだ決めかねているのだから、嘘はつけない。愚直と言っていいほど真面目なファンにとって、嘘を言うという行為ほど難しいものはなかった。何かを隠したり、誤魔化そうとしたりしたら、しどろもどろになってしまって相手にすぐばれるのだ。


 軽蔑されるかと心配したが、グベア博士は「まだ焦ることはないよ」と穏やかに笑い、こう言った。


「君が今日さえ良ければいいと考える自堕落な若者ではないことぐらい、まっすぐ私の目を見て話す君の態度を観察していたら分かる。おのれの将来について、何か悩んだり、葛藤したりすることがあるのだろ? 若い時分はぞんぶんに悩めばいいさ。専門に進む準備期間の間にじっくり考えなさい。相談にならいつでも乗るよ」


「あ、ありがとうございます」


 カチコチと緊張していたファンだが、グベア博士の優しい言葉でだいぶ気持ちがほぐれてきた。そして、「相談」という単語で、自分がとても大切なことを聞き忘れていることに気がついた。


「博士。あの……一つおうかがいしてもよろしいですか?」


「何だね」


「サン・テスプリ施療院というのは、どこにありますか?」


「む? グレーヴ広場にあるが……」


 パリに来たばかりの青年がなぜ施療院の場所などを知りたがるのだろうと不審に思ったグベア博士は、怪訝そうにファンを見つめた。あそこはたしか、たくさんの孤児たちの面倒を見ていることで有名だったはずだが……。


「なぜそんなことを聞くんだい?」


 グベア博士がそう言おうと口を半分ぐらい開いた時、コンコンというドアを叩く音がした。


「博士。そろそろ礼拝堂に集まる時間です」


 ファビオの声だ。聖バルブ学院では、八時に学院のみんなが集合して聖歌を歌う日課があった。旧友の息子であるファンとの会話に夢中になっていたグベア博士は、「ああ。いけない」と少し慌てた声を上げた。


「ファン君。ファビオ君と一緒に礼拝堂へ先に行っていてくれ。やりかけの仕事を片づけたら、私もすぐに行く」


「分かりました。失礼いたします」


 ファンは丁寧にあいさつをすると、部屋を出て行った。


 グベア博士は明日の講義で使用する書物を手早く選別し、ベッドの横に置くと、「さて、行くか」と礼拝堂に向かおうとした。


 しかし、机に置きっぱなしにしていたトマ・ビュリダンの書状がふと視界に入り、何とはなしにその長文の手紙を流し読みしてみた。それは何気ない行為だったのだが、手紙にはグベア博士を困惑させる一文が書かれていて、「何だ、これは?」と眉をしかめた。


 ――息子はパリで魔女を捜そうとしている。ファンが魔女と関わりを持たないように君が監視してくれ。


 魔女だと? あいつはいったい何を言っているんだ?


 グベア博士は首をしきりに傾げ、我が親友は二十数年会わない内におかしくなったのだろうかと不安に思うのであった。

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