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カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
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ペストと水と毒

「俺たちの学友にこんな心強い勇士が加わるとは天の助けだ。ヘラクレスとあだ名されている、あのドゥドゥーをやっつけちまうなんて。これからはモンテーギュ学院の奴らにでかい顔はさせないぜ」


 さっきドゥドゥーに吹っ飛ばされたランベールが、こぶのできた頭をさすりながらファンをほめそやし、「これからよろしくな。俺の名はランベールっていうんだ」と自己紹介をした。


 ファンは、


(俺は喧嘩するためにパリへ来たのではないのだけれど)


 と、内心思いながらも、


「こちらこそよろしくお願いします。ファン・ビュリダンといいます」


 そう丁寧にあいさつをした。無精ひげを生やしたランベールは、見た目からして二十歳前後、ファンよりも数歳は年上に違いないと思ったからだ。


 ファンとランベールがあいさつを交わすと、ランベールと同年代と思われる青年がファンに握手を求めてきた。


「私はランベールの友人のファビオだ。よろしく。私はね、汚物をこのル・デ・シャン通りに捨てまくるモンテーギュ学院の奴らに前々から腹を立てていたんだよ。ただでさえペストが流行っているというのに、不衛生極まりない。君のおかげで今日はスカッとした」


「は、はぁ……」


 ファンはファビオと握手を交わしながら、


(パリではペストがまた流行し始めたのか。父上がこのことを知ったら、心配するだろうな)


 と、自分を溺愛する父であり、ビュリダン城の主であるトマの陰鬱な憂い顔を頭の中で思い浮かべた。


 本来ならファンは三年前にパリ大学へ留学する予定だったが、その年にペストがパリで流行っていたため、「沈静化して、しばらく経つまでは」とトマがファンのパリ行きを延期させたのだ。


 中世ヨーロッパで猛威を振るったペストは、ペスト菌にかかったネズミの血を吸ったノミを媒介として人間に伝染して大流行し、「黒死病」と呼ばれるほど人々に恐れられた病気だった。パリでも数年おき、もしくはもっと短い間隔でペストが流行して、多くの人々が死んだ。もうおさまったらしいという噂を伝え聞いて、ファンはパリにやって来たのだが、世の中そう上手くはいかないらしい。


「ところで、さっきから馬を引いた従者がこっちを遠慮がちに見ているが、彼はもしかして君の従者かい?」


「え? ああ、そうです」


 ファビオに問われて、ファンはナタンのことをすっかり忘れていたことに気がついた。ナタンのほうを見ると、ほったらかしにされていたことを根に持っているらしく、すねた顔でファンを睨んだ。ちょっと気まずいと思ったファンは目をそらし、ナタンのことをファビオたちに紹介した。


「あれはナタンといって、彼の祖父の代から我がビュリダン家に仕えている者です」


「そうかい。二人とも長旅で疲れているだろう。今日は食事を取って、ゆっくり休むがいい」


「ありがとうございます。ですが、その前にグベア博士にあいさつをしたいのですが」


「ああ、そうか。ならば、私たちが案内してあげよう」


 ファンは、ファビオとランベールに連れられて、聖バルブ学院の石造りの建物内に入った。今からファンが会うグベア博士というのは、ディエゴ・デ・グベア博士、ポルトガル出身で聖バルブ学院の運営者であり、ファンの父・トマとは旧友の間柄である人物なのだ。



            *   *   *



 グベア博士のもとへ行く前、「身体の汚れを落としたいのですが」とファンはファビオとランベールに訴えた。長旅の汚れだけでなく、ドゥドゥーのせいで服に汚物があちこちにべったりとついていて、我ながらこの臭いはひどいと思っていたのだ。これではグベア博士に対して失礼である。


「身を浄めたいのですが、井戸は……」


「え? 君、水浴びするっていうのか? 死ぬ気かい!?」


 冷静そうな好青年のファビオが、目をひんむいてわめいた。ついさっき、不衛生は良くないと言っていた彼がなぜそこまで驚くのだろう。水浴びをしたいと言っただけなのに。


「ファビオ。ファン君は田舎からやって来たんだ。都会の健康術を知らないのだろう。俺が教えてやるよ」


 ランベールがそう言い、


「いいかい、ファン君。水浴びや風呂に入ることほど不健康なことはないんだぜ」


 と、まるで覚えの悪い生徒に授業をほどこす先生のような得意げな顔で説明を始めた。


「ファン君。自分の腕をよく見てみな。俺たち人間にはたくさんの毛穴があるだろ? ここから水が流れこんで、人間の肉体を弱らせるんだ。そして、病のもととなる毒に犯されやすくなる。だから、絶対に水浴びや入浴はだめだ。生死に関わるからな」


「そ、そうなんですか……」


 ものすごい迫力でランベールに水の危険性を教えられて、ファンはちょっと恐くなった。


 そういえば、サン・ベルナール河岸の水浴場には人っ子一人いなかった。パリ市民の間では「水は危険である」というのが常識になっているのだろう。


 しかし、ファンは子どもの頃からずっと川遊びなどをしていたのだが、水のせいで病に侵されるということはなかった……と思う。自分の運が良くて、奇跡的に病に罹らなかったのだろうか。パリ大学の高度な学問を修めている学生が何の根拠もない適当な話をするはずがないし……。


 などと、ファンがあれこれと悩んでいると、


「臭いが気になるのなら、ほら、香水。俺の物を貸してやるよ」


「う、うわわ!」


 ランベールにいきなり甘ったるい香りの液体をふきかけられ、ファンは思わず悲鳴を上げていた。人糞の臭いよりはマシだが、この胸焼けしそうな甘い香りは、何だかそわそわしてしまって落ち着かない。


「これで良し。さあ、博士の部屋に行こう」


 ファンがげんなりとした顔をしていることに気づいていないのか、先輩二人は後輩の手を引き、背中を押して、グベア博士の部屋へ連れて行くのであった。

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