悲劇の序曲
モンテーギュ学院の学生たちによる台所荒らしにより、聖バルブ学院は大騒動になり、翌日の講義はすべて休講となった。
ダミアンは、昨日の乱闘ではファンの影に隠れてばかりいたが、大人しい彼にはあんな荒事は刺激が強すぎたらしく、頭が痛いと言ってベッドに横になっている。
エドモンはというと、台所のかまどを破壊されて食料を台なしにされた怒りのあまり朝のうちはずっと興奮していた。しかし、今は、体調が悪いダミアンの世話をしてやっている。エドモンは食欲の塊のような男だが、基本的には友人思いないい奴なのである。
ファンは、グベア博士の許可を得て、ソフィーのいるサン・ジェルマン・デ・プレ教会に向かっていた。放火騒ぎをこれ以上起こさないように説得するためである。従者のナタンはというと、行方が分からないバジルの捜索をしている。彼はおそらくパリ内のどこかの宿屋にいるはずだから、一軒、一軒くまなく調べるように言いつけていた。
* * *
昼間の人混みの中、ファンは歩いては立ち止まり、周囲を見回し、また歩き出すということをしていた。
左目の透視魔法を使い、自分を尾行している人間がいないか、建物や木に潜む人影に警戒しているのである。
バジルの尾行を恐れているのだ。ファンがソフィーと会っている時に物陰から飛び出てバッサリ……となっては大変だ。だから、決して油断はできない。そう思っていたら、
(やはり、尾行されていた。しかし……)
ファンの後をつけていたのは、バジルではなく、グレンとドゥドゥーだった。
ファンとつかず離れず、激しい憎悪のこもった目でファンを睨んでいる。昨日の復讐をしようという腹づもりなのだろう。聖バルブ学院にとって大きな戦力であるファンに大怪我を負わせれば、次に乱闘が起きたときはモンテーギュ学院が有利になるはずだ。
「懲りない奴らだな……。ソフィーのところまであいつらを連れて行くわけにもいかないし……」
聖書は隣人を愛せよというが、あんなはた迷惑な隣人など愛せるはずがないと心中ぼやきながら、ファンは何とかしてまこうと考えた。
ドゥドゥーには歴然たる実力の差を見せてやったというのに、三度目の喧嘩をしかけようとしているのだから、よほどの馬鹿なのだろう。馬鹿に付ける薬はなく、これ以上関わり合いたくない。
フーッと息を吐くと、ファンは全速力で走り出した。後方で「あ!」という慌てた声が聞こえる。ちらりと振り向くと、頭巾野郎の二人組は必死になってファンを追いかけて来ていた。
ファンは、小さな路地に逃げこんだが、透視の魔法で民家を挟んだ別の小路を見ると、ファンがいま走っている路地につながる通路をグレンとドゥドゥーが走っているのを視認した。このまま行くと、あの馬鹿二人と鉢合わせしてしまう。
(そうだった。あいつらのほうがカルチェ・ラタンにいる年数は長いのだ。どこの道がどこにつながっているか、夜遊びをしているグレンならば俺などよりも熟知しているだろう。これは簡単にまくことはできなさそうだな。面倒くさいことになってきたぞ)
チッと舌打ちをしながら、ファンは元来た道を戻り、大きな通りに出た。そして、ジャネットの本屋へと向かう。あの店にいったん逃げ込んでかくまってもらおうと考えたのである。
(モンテーギュ学院の馬鹿二人組のせいで、余計な道草を食わされる。こうしている間にも、ソフィーがまたどこかで火事騒ぎを起こしているかも知れないのに)
ファンはそう苛立った。しかし、こういう機会でもないと、姉のジャネットのもとに気恥ずかしくて俺はなかなか行けないだろうから、ちょうどいい理由ができたのかも知れないとも少し思うのであった。
* * *
「ジャネット。ちょっとかくまってくれ」
ファンは、本屋にたどり着くなり、店番をしていたジャネットにそう言った。走りづめだったため、息が乱れている。
「あんた、いま講義の時間じゃないの?」
今日は珍しく酔っぱらっていないジャネットが、ファンの突然の来訪に驚き、そうたずねたが、
「事情は後でちゃんと話すから、とにかく、姉さんの部屋に入れてくれ」
ファンは切羽詰った声で言った。
「ね、姉さんって、あんた……」
「ソフィーとリリーさんは俺の姉じゃなかった。ジャネットが、俺の姉さんなんだ」
「そ、そう……」
ジャネットは頷き、ファンを二階の部屋へと案内した。酔っていないはずなのに、少し顔が赤くなっている。いきなり姉と呼ばれ、面食らったのだろう。
「……で、いったい何があったのよ」
窓から外の様子をうかがっているファンに、ジャネットが腕組みしながら問うた。
「昨日、隣のモンテーギュ学院とうちの学院の学生たちが大乱闘をしてしまって、しつこい奴らに恨みを買われてしまったんだ。それで、いま追われている」
「……あんた、うちに来る時、毎回、ろくでもない問題を持ち込んで来るわね」
ジャネットがあきれたようにため息をついた。
ファンは「そんなことはないだろ」と反論しかけたが、思い返してみると、ジャネットの言う通りだということに気がつき、「悪い」と気まずそうに言った。
「別にいいけれど……。ファンを追いかけている奴らって、あいつら? あの目つきの悪いのと、筋肉に全部の栄養がいっていて脳みそが空っぽそうなでっかいのがうちの店の前でうろうろしているわ」
「そうだ。あいつらだ。ああ、もう。早く諦めて帰ってくれよ」
「そんなにも邪魔くさいのなら、痛い目あわせてやればいいのに」
考えることが男らしすぎるジャネットがさらりとそう言うと、ファンは「女がそんなことを言うなよ」と前置きしながら、
「何度もやり合って、俺には勝てないことを分からせてやったつもりだったんだけれど……俺が想像していた以上に馬鹿だったらしい」
「それは大変ね。……あら? お客さんかしら、店に誰かが入って来る……」
ジャネットはそこまで言って、「あっ!」と驚きの声を上げた。
「姉さん、大きな声を上げないでくれ。グレンとドゥドゥーに気づかれる」
ファンは、窓から首を引っ込めながら、ジャネットに抗議した。しかし、怒られて謝るような性格ではないジャネットは弟の文句など無視して、
「あれ、ソフィーだわ」
と、驚くべきことを言った。ファンは「え? 嘘!?」と思わず大声を上げてしまい、慌てて口を塞ぐ。
「ちょっと下に降りて来るね」
施療院時代の旧友の突然の来訪にジャネットは喜んでいるらしく、そそくさと一階の店へと走って行った。
(ソフィーのもとへ行こうとしていたのに、彼女のほうからやって来るとは)
ソフィーはここにファンがいることなど知るはずがないのだから偶然なのだろうが、それにしても強い因縁を感じる。やはり、魔法使い同士は互いに引かれ合う運命を持っているのだろうか。
やがて、修道女の姿をしたソフィーがジャネットに連れられて二階に上がって来た。ソフィーのほうもファンがまさかここにいるとは知らなかったため、ファンと同じように驚きの表情を見せる。
「ファンさん……」
「ソフィーはもうファンとは知り合いなんでしょ? でも、いちおう紹介しておくね。こいつ、私の弟らしいの。捨てられた私を捜してパリまでやって来たというわけ」
ファンとソフィーは、ジャネットがいる手前、放火事件やソフィーの持つ火の魔法についてお互いに切り出したりできず、気まずそうに黙った。
「二人とも、どうしたの? あっ、お酒飲む?」
「姉さんじゃあるまいし、昼間から飲まないよ」
ソフィーも当然同じことを言うだろうと思いながらファンがそう断ると、
「私はいただこうかしら」
ソフィーが平然と言ったので、(この修道女は……)とファンはあきれるというよりも驚いた。
「あら、冗談のつもりで言ったのに。真面目なソフィーにしては珍しいわね」
ソフィーの本性を知らず、気弱な性格の幼なじみだと思っているジャネットが、そう笑いながらベッドの下から葡萄酒の瓶を取り出す。すると、ソフィーは小さなため息をついた。
「……私、いまとても腹が立っているの。だから、気持ちを鎮めたくて……」
「何かあったの?」
ジャネットはソフィーに渡した盃に酒を注ぎながらたずねた。
「リリーが貸家から追い出されてしまって、いま行方が分からないの」
「えっ」
ジャネットは、なみなみと注がれた盃にさらに酒を溢れ返してしまい、驚愕の表情のまま固まってしまった。ファンも驚き、
「な、なんでだよ。貸家の持ち主である『薔薇の家』の主人のエリザさんはとてもいい人だったぞ。病弱なリリーを家から追い出すなんてこと、するわけがない」
動揺をおさえられず、声を震わせて言った。
「人間というものは、不都合なことがあると、簡単に態度を変えるものなんです」
「ど、どういうことだ」
「リリーは……医者にペストだと診断されました」
「ぺ、ペストだって!?」
「はい。リリーの具合がずいぶんと悪いという噂を聞いて、私、午前中にリリーの家にお見舞いに行ったんです。ですが、留守だったので『薔薇の家』に行き、カーラという娼婦からリリーのことを聞きました。彼女の話によると、リリーは昨晩医者にペストだと診断されたそうで……」
リリーがペストに罹ったと知ったエリザは、自分や他の娼婦たちへの感染を恐れ、
「い、いますぐここから出て行っておくれ! あ、あと、私が貸してやっている家にも帰ったらだめだ! ペストの菌が残っている貸家なんて、あんたが死んだ後に誰も欲しいと言わなくなるからね!」
そう言って、高熱のあまり意識が混濁しているリリーを冬の寒空に放り出してしまったのだという。
「ひ、ひどい! そんなの、あんまりだ!」
激昂したジャネットがそう叫ぶと、ソフィーは「話にはまだ続きがあるの」と言った。
「リリーを診断したという医者……以前、うちの教会の信者から噂を聞いたことがあるのだけれど、どうやら藪医者らしいの。患者を診断してはペストだと嘘を言って、感染したら死の恐れがある病気を診てやったのだから通常の診断料よりも多く金をよこせと要求するたちの悪い人間らしい。だから、リリーは……」
「本当はペストじゃないのに、追い出されたっていうのか!?」
ファンは、頭に血がのぼり、危うく自分を見失いそうになった。あんなにも我が娘のように可愛がっていたリリーをエリザは簡単に見捨てた。しかも、愚かな藪医者の金もうけのために、そんな哀れな運命に陥ったのだ……。
「それで、私、リリーが行っていそうな場所をあちこち捜し回っていたのだけれど……。どこにもいなくて……。もしかしたら、ジャネットの家に来ているのではと思ったけれど、あの子がここに来るはずがないわよね。自分がペストだと思い込んでいるのだから、ジャネットに迷惑をかけるようなことはしないはずだもの」
「わ、私も捜すのを手伝うわ!」
ジャネットがそう言うと、ファンも「俺も行く」と言った。
「ファン。あんた、外に出ても大丈夫なの? あいつら、まだうちの店の前をうろうろしているわよ」
「チッ、さっさと帰ればいいのに……」
ファンが、憎々しげに店の前でファンを捜しているグレンとドゥドゥーを見下ろすと、ソフィーが「どうかしたのですか?」と聞いた。
「いや……。ソフィーもここに入って来る時に見かけたと思うけれど、モンテーギュ学院の奴らに因縁をつけられていてな」
「ああ、あの二人ですか。私が何とかしましょうか?」
「何とかするって……」
嫌な予感がしたファンが、ジャネットに聞こえないように、ソフィーの耳に口を寄せて、
「二人を焼き殺すつもりじゃないだろうな。それはさすがに……」
そう言うと、ソフィーは「まさか」と笑った。
「前にも言ったではないですか。私が人殺しをする時は、私を害しようとする者が現れたときだと。……少しだけからかってあげるだけですよ」
「…………」
ソフィーの言うことをどこまで信じていいのか分からず、ファンは悩んだが、リリーが心配で早く捜しに行きたい心に負けて、
「絶対に殺すなよ」
と、言ってしまうのであった。




