乱闘騒ぎ
「くせえ」
馬に揺られてセーヌ川左岸のカルチェ・ラタン(大学区)に入ったファン・ビュリダンの第一声がそれだった。
もう一度、「くせえ」と言うと、馬の手綱を引いている従者のナタンが無言でこくりと頷いた。おしゃべりなこの男が一言も発しないのは、口を開くことがためらわれるほど、この街の汚臭がひどかったのである。
「これは、セーヌ川のせいなのか?」
ファンは、これから自分が寄宿する聖バルブ学院に入る前に旅の汚れを落とそうと、サン・ベルナール河岸の水浴場に立ち寄ったが、市民の糞尿や廃棄物、動物の死骸で汚染されたセーヌ川から漂う悪臭に閉口して水浴びを断念したのである。
故郷のビュリダン城を流れる川の清流で毎日のように水遊びをして育ったファンにしてみれば、あんなドブ川のそばで日常生活を送っているパリ市民の気持ちが想像つかなかった。
「兄ちゃん、危ないぜ!」
通りかかった建物の二階の窓から怒鳴り声がして、「え?」とファンが顔を上げると、背後でべしゃっという音がした。振り変えると、さっきまでファンがいた場所で汚物が飛び散っている。窓の男がおまるにたまった糞尿を捨てたのだ。
一般住居にトイレがほとんど無かったこの時代、市民はおまるで用を足し、いっぱいになると窓からそれを捨てた。だから、中世ヨーロッパの街はお世辞にも衛生的とは言えなかったのである。
「……こいつはセーヌ川だけの問題じゃないな。人通りが少ない夕方だからって、もう少し注意して捨てろよ。まったく……」
ファンが、自分を見下ろしながら「すまねぇな」とあまり反省していない様子で謝っている窓の男をギロリと睨んでぶつぶつと呟くと、ナタンが鼻を指でつまみながら言った。
「ファン様。道の端を歩いていたら、またやられますよ。もうちょっと真ん中を歩きましょう」
「ああ、うん。……というか、聖バルブ学院はここらへんじゃないのか?」
ファンは、陽が西に沈んで赤焼けたカルチェ・ラタンの街並みをきょろきょろと見回した。昔、聖バルブ学院の学生だった父トマ・ビュリダンの話によると、パリ大学の学生寄宿舎の一つである聖バルブ学院の南隣にはル・デ・シャン通りを挟んでモンテーギュ学院という別の寄宿舎があるという。
「たぶん、ここがル・デ・シャン通りだろう。それとも、通りすぎちまったかな?」
「あそこに学生らしき人たちがたくさんいますよ。私がたずねてきましょうか」
ナタンが二十数歩先の前方を指さした。
なるほど。黒のスータン(司祭の平服)を着た若者の集団と、フード状の頭巾がついた修道服を身にまとった若者の集団が睨みあっている。何やら口論をしているようで、両者の間ではピリピリとした険悪な空気が流れていた。「道はどこですか」とはちょっとたずねにくい。
あと、よく見ると、両者は道の中央に山をなしている汚物のかたまりを挟むようにして対峙していた。
(何だ? 喧嘩か?)
ひらりと馬から飛び降りたファンは、「あ、ちょっと、ファン様!」とナタンが止めるのを無視して、学生たちのもとへ走った。
ファンは、故郷では「仲裁屋のファン様」と言われるぐらい、父の領内で起きる若者同士の喧嘩やもめ事を仲裁してまわっていた。喧嘩だけでなく、人が困っているのを見ると、自分が損な役回りをしてでも助けようとする、少し度が過ぎるほど世話焼きな青年なのである。
「ちょっとすみません。みなさん、どうかしたんですか?」
ファンが学生たちに話しかけると、黒のスータンを着た学生の一人が「あの頭巾の野郎たちが」と、睨みあっている別の学院の学生たちを指さして口汚く罵った。
「汚物を往来の真ん中に捨てやがったんだ。ここル・デ・シャン通りは、俺たち聖バルブ学院とあいつらモンテーギュ学院の両学院の間にある道で、こんなところに糞を捨てられたら、臭くて迷惑なんだよ」
「我々が捨てたという証拠がどこにある? もしかしたら、君たちの学院の誰かが捨てたかも知れないじゃないか。そういう言いがかりは証拠を見つけてから言ってくれよ、ランベール君」
「すかした顔で偉そうなことを言っているんじゃねぇよ、嘘つきグレン! お前が聖職者志望のくせして町娘三、四人を舌先三寸でたぶらかしている女たらしということは知っているんだぜ」
「こ、こんな大勢がいる前でそんなことを……! い、いや、違う。僕は心も体も清いのだ。君こそ嘘を言うな。聖バルブ学院の落ちこぼれめ!」
「誰が落ちこぼれだ! ぶん殴るぞ!」
そう怒鳴ったランベールという学生は、その一秒後に右の頬をぶん殴られて後方へ吹っ飛んでいた。仲間が女たらしと馬鹿にされて激怒したモンテーギュ学院の学生の一人がランベールを殴ったのだ。
「俺の親友を侮辱する奴は許さん」
そのそびえ立つ巨人のごとき身長の学生は、目を回して倒れているランベールに対してさらに暴力を振るおうと、聖バルブ学院の学生たちの陣営にドスン、ドスンという重々しい足音を立てながら近づこうとした。
聖バルブ学院の仲間たちはランベールを守ろうと巨人の学生に立ちはだかったが、この凶暴な男にすっかり怯えてしまっている。
「お、おい。ドゥドゥー。やめろ。暴力沙汰はいかん。それに、お前が何発も殴ったら死んでしまう。みんなもはやしたてていないでドゥドゥーを止めるんだ」
モンテーギュ学院の穏便派の学生がそう言って事態をおさめようとしたが、頭に血がのぼった巨人ドゥドゥーは拳をボキボキと鳴らしていて聞く耳持たず、モンテーギュ学院の連中もドゥドゥーに「もっとやれ!」と声援を送る始末だった。
(やれやれ。パリに来た初日から乱闘騒ぎと遭遇するとは、俺も運が悪い。でも……)
今にも撲殺されそうな人間が目の前にいるのに見過ごすことはできない。そう思った仲裁屋のファンは、何のためらいもなく、巨人ドゥドゥーの前に立った。
「何だ、小僧。邪魔するな。部外者はすっこんでいろ」
ドゥドゥーが野太い声でそう言い、眼下のファンを見下ろして睨んだ。十七歳のファンは同世代の若者の中では背が高いほうだが、巨人ドゥドゥーの前では小さな子どものようだった。
「小僧ではない。俺の名前はファン・ビュリダン。そして、今日から聖バルブ学院の学生となる者だ。だから、部外者でもない」
ファンが巨人の威嚇に臆することなくそう言うと、ドゥドゥーはフンと鼻を鳴らして笑った。
「その訛りは、ガスコーニュの田舎者だな。パリに上京したばかりのおのぼりさんが粋がっているんじゃねえよ」
田舎者呼ばわりされてファンはさすがにムッとしたが、すぐに落ち着いた口調で言い返した。
「ピレネー山脈の近くの小城で生まれ育った俺はたしかに田舎者だが、そう言うあんたは暴力で憎い相手をねじ伏せようとする野蛮人だろう。カルチェ・ラタンの学生として恥ずかしいとは思わないのか?」
「な、何だと! てめえ!」
激怒したドゥドゥーは拳を振り上げ、ファンに殴りかかった。
(動きが遅い。こいつは怪力だけだな)
ビュリダン家の家臣の中にバジルという凄腕の剣士がいて、幼少時から彼に剣術を教わっていたファンはドゥドゥーの攻撃を素早い身のこなしで難なくかわし、その巨体の背後に回り込んだ。ドゥドゥーは「こいつめ!」と叫びながら再び襲いかかったが、ファンはこれまたあっさりとよけた。まるで、ドゥドゥーの動きを先読みして回避しているようである。
「ちょこまかとハエみたいな奴だ! これでも食らえ! この! このぉ! ……う、うおっ!?」
小回りの利かない大きな図体でファンを追いかけ回していたドゥドゥーだが、路上に散乱していた汚物に足を滑らせてしまい、遠くから嗅いでも鼻が捻じ曲がりそうな悪臭の海に頭から飛び込んでしまった。
「く、くせえ!」
気を失いかねない凶悪な臭い。ドゥドゥーはたまらず悲鳴をあげた。そんなドゥドゥーを見下ろしているファンも眉をしかめている。ドゥドゥーの巨体が倒れた時、汚物が周囲に飛び散り、ファンの服を汚したのだ。
「くせえ! くせよぉ! ぐ、グレン! 助けてくれ!」
「そ、そばに寄るなよ、ドゥドゥー! う、うわ、汚ねぇ!」
全身が人糞まみれになったドゥドゥーが仲間に助けを求めると、汚物のかたまりとなった彼に近づきたくないモンテーギュ学院の学友たちは我先に逃げ出した。ドゥドゥーも「ま、待ってくれぇ! 待ってくれよぉ!」と泣きながら友人たちを追いかけ、去って行く。
「ざまあみろ! モンテーギュの頭巾野郎どもめ!」
聖バルブ学院の学生たちは拍手喝采、突如救世主のごとく現れたファンを囲み、嵐のような歓声をあげるのであった。




