月下の蒼い瞳
「そういえば、あんた、何ていう名前?」
夜のカルチェ・ラタンはまだ眠らない。不良学生や彼らを狙う客引きの娼婦たちが淫猥な風景をつくっている。そんな夜の街に似つかわぬ幼い見た目の少女が、股間をおさえて前かがみに歩く学生とその従者を従えて、酔っ払いみたいな足取りで歩いていた。……おそらく、リリーの家で酒を飲んでいたのだろう。
「まずはそちらから名乗るのが礼儀だろう」
不機嫌なファンがそう言うと、少女は「へっ」と吐き捨てるように笑った。
「貴族みたいなことを言うのね。もしかして、どこかのお城の坊ちゃん?」
「俺はガスコーニュの山奥にあるビュリダン城の城主の次男だ。……坊ちゃんと言うが、田舎貴族というものはそんなに裕福なものではないぞ。父上は借金にいつも頭を悩ませている」
「でも、私やリリーみたいな捨て子に比べたら、天と地ほど恵まれているじゃない。親の金で学校に行かせてもらえるなんて、あんたは私の百倍は幸せよ」
「百倍? ……それは少し大げさだろう」
「いいえ、百倍よ。夜遊びなんてしていないで、真面目に勉強しなさい。この不良学生」
「…………」
ファンは、肩を左右にゆらゆらさせて自分の前を歩く酔っ払いの少女の後ろ姿をじっと見つめた。
外見は幼く身長も低いが、その言動は大人びていてファンを年下の若造のように扱う。……冗談ではなく、本当に十九歳なのかも知れないとファンは思った。すると、リリーと同い年ということになる。
(てっきり、十三、四歳ぐらいと思っていたのに……。見た目が幼いだけだったのか。考えてみれば、小娘が娼婦のリリーさんと知り合いなわけがないか。でも、リリーさんはどうやってカルチェ・ラタンの本屋の娘と仲良くなったのだろう)
ファンがそんなことを考えていると、少女は急にピタリと立ち止まり、怪訝そうな顔をして周囲を見回し始めた。
「どうしたんだ?」
「……煙の匂いがする。どこかで火事みたい」
「え? そんな匂いするか? ナタン、どうだ?」
「俺は分かりません」
「間違えないわ。これは何かが燃えている匂いよ」
少女があまりにも真剣な表情で言うせいで、そんなまさかとファンは一笑に付すことができなかった。
「……どこらへんから煙の匂いが漂って来るか、分かるか?」
「うん。あっちだわ」
「行ってみよう」
もしも本当ならば、火事で死傷者が出ないように救援へ向かわねば。それに、放火魔と遭遇して捕まえることができるかも知れない。ファンが少女とともに走り出そうとすると、ナタンが二人を止めた。
「ち、ちょっと待ってください。またそうやって考えなしで人助けをしようとするのですか。仮に火事が近くで起きていたとしても、行ったらいけませんよ。危ないことからファン様を守れとバジル様から俺はきつく言いつけられているのですから」
ファンの剣の師匠であるバジルは、ファンが幼少の時から彼の保護者的存在だった。だから、バジルの名前を出されると、ファンも耳が痛い。
「ナタン。お前、卑怯だぞ。この間は父上の名前を出し、今度はバジルだ。そうやってして俺を止めようとしても無駄だ。俺はもう子どもじゃない。自分の行動ぐらい、自分で決める」
「そんな台詞を言っているうちは、まだまだ子どもです。……あっ、待ってくださいって! ファン様! ファン様!」
ファンと少女はナタンを無視して走り出した。仕方がなく、ナタンも追いかける。「世話の焼ける主人だ」とぼやきつつ……。
* * *
学生の街であるカルチェ・ラタンには書店が多くある。そして、本を印刷するための印刷所もあって毎日たくさんの書物を印刷していた。火事があったのは、その印刷所の親方の家だった。
「何だ、おめえら。人んちの火事をわざわざ見物しに来たのか。残念だが、もう消火しちまったよ。見世物じゃねんだ。帰れ、帰れ」
印刷所の親方は、駆けつけたファンたちを見て、野次馬だと勘違いしてツバを飛ばして怒鳴った。
ファンが見ると、小さなボヤ騒ぎだったらしく、放火されたと思われる家の壁が黒く焦げている程度だった。
「何だ、あのオヤジ。腹が立つなぁ。ファン様、これだから人助けなんてしたっていいことないんですよ」
「大した火事じゃなくて良かったじゃないか。放火魔を見つけ出すことができなかったのは残念だが。……それにしても、あの程度の火事だったのに、離れた場所からよく分かったな。物が燃えている匂いが遠くから判別できるって、昔にそういう焦げ臭い匂いをよく嗅いでいたのか?」
火事現場から追い出され、若干肩透かしを食らったような気持ちを抱いたまま灯りの少ない小路を歩きながら、ファンは少女にそう言った。しかし、少女は考えごとをしているのか、難しい顔をして返事もしない。
「なあ、聞いているのか?」
「…………え? 何よ」
「大した火事じゃなくて良かった、ていう話だよ」
「まあ、ね。でも……」
「でも、何だ?」
「近頃起きる火事騒ぎって、いつもこんな感じなのよ。ボヤになる程度で、すぐに消されてほんの一時の騒ぎになるぐらいなの」
「大火事になるよりはいいじゃないか」
「それはいいのだけれど、放火した奴はどういうつもりなのか気にならない? 子どもの悪戯みたいに、あちこちでボヤ騒ぎを起こしてさ。第一、放火魔本人がボヤを出す程度にしようと火をつけても、うっかり大火事になることがあるはずよ。それなのに、ここ数か月に起きた火事は全て小規模だった。何か、こう……火の勢いを操れる魔法でも使っているのかしら」
「魔法…………」
火の魔法。
ファンは、幼い日に見た、家具やベッドなど部屋中のものが燃える中で狂乱して舞い踊る母の姿を思い出し、眉をしかめた。
「魔法使いの仕業だって言うのか? まさか」
ファンはそう言いながら、自分の両目を手のひらで覆った。自分の口から発せられた言葉ながら、空々しい台詞だ。
「あんたは魔女とか悪魔の存在を信じていないのね。敬虔なキリスト教徒ほど、そういうものを目の敵にして、彼らこそ悪魔じゃないかと疑いたくなるような恐ろしいやり方で、魔女の嫌疑をかけられた人間を迫害するわ」
「…………」
信じる信じないではなく、魔女と呼ばれる存在を知っている。そして、自分もまた迫害されるべき人間である。そんなことを言えるはずがなく、ファンは押し黙るのであった。
その後、少女と本屋の前で別れ、ファンとナタンは学院への帰路につこうとした。その時……。
「ファン様」
急に、ナタンが押し殺した声で囁く。いったいどうしたのだと問おうとしたとき、ファンは、誰もいないはずの路地に人の気配を感じた。
振り向くと、小さな人影。
ずいぶんと小柄でなで肩なので大人の男ではない。おそらくは女性だろう。
(何者だ……?)
月の光が差し込み、暗闇のカーテンに隠れていたその人物の顔が映し出される。黒いマントで肩から膝のあたりまですっぽりと身を覆った若い女がこちらをじっと見ていた。
月に照らし出されている彼女の美しい顔立ちに、ファンは眼を大きく開いた。リリーが家庭的な香りのする日常の象徴のような美女だとすれば、黒マントの彼女は幻想的な絵画から抜け出てきたような儚げな雰囲気を持つ美女である。
彼女は、凍える冬の夜空を連想させるような蒼い瞳でこちらを無表情で見つめていたが、
「君は……」
ファンがそう声をかけようとすると、女はマントで頭を隠すように覆い、踵を返して夜の闇へと消えて行ってしまった。ファンは、呆然とその光景を見守っていた。




