モンテーギュ学院の陰謀
「夜更けにモンテーギュ学院で火事があったらしいぜ」
「モンテーギュ学院の荒くれたちが、必死になって消火したからすぐに消えたという話だ」
「俺たちの学院に飛び火しなくてよかったな。もともと大した燃え方ではなかったそうだが」
午前の講義が終わった後の食堂ではモンテーギュ学院の火事騒ぎで話が持ちきりだった。ファンはダミアン、エドモンと食事をとりながら、学生たちの噂話に聞き耳を立てていた。
「僕とエドモンさんが学院に戻ったときには、完全に鎮火していたようです」
「そうか……。そういえば、二人はなぜあんなにも帰って来るのが遅かったんだ? 陽が昇るぎりぎりだったじゃないか」
「僕たちは一緒に『薔薇の家』を出たんです。でも、エドモンさんが……」
と、ダミアンは、羊のあばら肉を貪り食っているエドモンをチラリと見た。それで、ファンはだいたいの事情を察した。
「なるほど。腹を空かせたエドモンが『もう一歩も動けねぇ』とか言って駄々をこねて座り込んでしまったんだな。当たっているだろ」
「はい。その通りです……」
はぁ、とダミアンがため息をつくと、エドモンは指についた油をべろべろと舐めながら、ワハハと豪快に笑った。
「女を抱くっていうのは、あまりよろしくない行為だな。思ったよりも運動になるから、腹が減っちまう」
「色気よりも食い気か。君らしい」
そう言いながら、ファンはくすっと笑った。
結局、昨晩に大人の男になったのは、三人の中ではエドモンだけだった。ファンは売春宿に入って早々に逃げ出したし、ダミアンは緊張のあまり泣き出してしまったらしい。ダミアンの相手をしたカーラという娼婦は情けない彼を怒ったりはせず、
「また来てくださいな。心の準備ができるまで待っていますね」
と言ってくれたそうだ。
リリーもそのようなことを自分に言っていたなとファンは思い出し、客にも淫乱な奴から初心な童貞まで色んな男がいるので、彼女たち娼婦も客によって様々な対応を取らなければいけないから大変だろうなと何となく考えるのであった。
「ファン君。ちょっといいですか」
突然、グベア博士がファンたちに話しかけてきて、驚いたファンはパンを喉につまらせ、げほ、げほ、と咳き込んだ。さっきまでの猥談を聞かれたかも知れないと焦ったのである。
「おやおや、大丈夫ですか。そんなに慌てて食べてはいけませんよ」
「は、はい。大丈夫です。げほっ、げほっ」
グベア博士の様子からして、どうやら何も聞かれていなかったらしい。そう安堵したファンだったが、
「食事後、私の部屋に来てくれませんか? 昨夜のことで話があるのです」
と、グベア博士が言うと、また咳き込んでしまった。ファンだけではなく、ダミアンも手のパンをぽろりと落とし、エドモンにいたっては危うく羊の骨を飲みこむところだった。
(昨晩、学院を抜け出したことがばれたのか?)
三人ともそう考え、鞭打ちの体罰を受けるのかと顔を青くしたが、グベア博士は別に怒っている様子もなく、いつもの優しそうな先生のままで微笑みまでたたえている。……こういう場合、この笑顔は逆に恐い。
「は……はい。分かりました」
何用ですかとは聞けず、ファンは恐るおそるそう答えた。こうなったら、腹をくくるしかない。まさか逃げ出すわけにもいかないのだから。
「お、おい、大丈夫か。ファン。俺たちも一緒に行こうか?」
グベア博士が去った後、エドモンが羊の骨をごりごりとしゃぶりながら言った。ダミアンも心配そうにしている。
「呼ばれているのは俺一人だけなのだから、君たちが来る必要はないさ。そんなに不安がるなって」
「ふ、不安がってはいないけれどさぁ。もしも昨晩のことで怒られるのなら、君一人の責任ではないのだから俺たちも行かないと……」
食い物のことしか頭にないと思ったら、仲間思いなところもあるのだなとファンはエドモンのことを密かに感心した。
「とりあえず、俺一人で行くよ。昨夜のことがばれたとはまだ決まっていないのだから」
ファンはそう言い、
(俺だけが夜間外出したのだと博士が思っているのならば、それでいい。罰は一人で受けよう)
と、心の中で決意していた。
エドモンは「友とは喜びと苦しみを分かち合うべきものだ」と考えているようだが、ファンは「友に全ての喜びをあたえ、おのれ一人が苦しみを背負えばいい」という思考を持っている男だった。従者のナタンが主人のことを心配して滅多に離れようとしないのは、ファンのそんな偏った正義感が危険だと感じていたからである。
* * *
「グベア博士。ファンです」
ファンが緊張しながらグベア博士の部屋のドアをノックすると、「どうぞ」という声が室内からした。はぁ、ふぅ、と大きく深呼吸をしてファンは入室する。
「何かご用でしょうか」
「そんな部屋のはしっこに立っていないで。ほら、ここに」
グベア博士は、最初会ったときのように、ファンに椅子をすすめてくれた。説教をするつもりならば、学生に腰かけなさいとは言わないだろう。そう考えて、ファンは内心安堵した。
「ファン君は、昨晩……といっても、夜明け近くだが、隣のモンテーギュ学院でボヤ騒ぎがあったのは知っているかね」
「あ、はい。食堂でもみんなが噂していましたから」
やはり、夜遊びの件ではなかった。しかし、なぜモンテーギュ学院の火事騒動をファンに話すのだろうか。わざわざ呼び出してまで。
「その噂で困っているんだ。モンテーギュ学院は、うちの学院の学生に放火の犯人がいると考えているのだよ」
「えっ」
ガノレス助教授の言った通りになったとファンは驚いた。
聖バルブ学院とモンテーギュ学院は、路上に捨てられた汚物をめぐって大喧嘩を長い間続けており、モンテーギュ学院が放火されたら真っ先に疑われるのは聖バルブ学院だろうとガノレスは予言していたのだ。
もっとも、これはガノレスが優れた予言者というわけではなく、ずっと学院にいる人間ならばすぐに予想がつくことなのだが。
「しかも、聖バルブ学院がやったと騒いでいる学生たちの言葉を真に受けて、モンテーギュ学院は当学院を訴えることを検討しているらしい」
「昨晩の火事で、もうそこまで事態が発展しているんですか」
「君、ここに来た初日にドゥドゥーという巨漢の学生とやりあっただろう? ドゥドゥーとその友人のグレンは聖バルブ学院を目の敵にしている。今回の火事騒ぎを利用して当学院を陥れようとやっきになっているのだよ」
「困った奴らですね。……でも、俺になぜそんな話を?」
学院に入りたての一学生に過ぎないファンにそのような話をしても、何の力にもなれない。グベア博士はただ愚痴を聞かせるためにファンを呼んだのだろうか?
「放火の犯人は、おそらく、近頃カルチェ・ラタンの界隈を騒がしている放火魔だ。うちの学院が訴えられる前に、ファン君にその犯人に関する手がかりを調べて欲しいのだ」
「えっ、俺が?」
突然のことにファンは驚いた。そういう犯罪の調査は夜警隊などに任せたほうがいいのではと思い、そう進言すると、グベア博士は頭を振った。
「カルチェ・ラタンを警備している夜警隊はいまそれどころではないのだよ。隊内でペストが流行り、つい数日前には隊長まで死んでしまった。ボヤ騒ぎ程度で出動できる余裕がないほど人手が足りていないそうなんだ」
「ペスト……」
やはり本格的に流行っているのだと改めてペストの恐ろしさを聞き、ファンはごくりとツバを飲みこんだ。
「しかし、俺たち学生は基本的に学院から外出禁止というのが規則だったのではありませんか? 学院の外から一歩も出ずに放火犯の調査なんてできませんよ」
「外出の許可ならば私が出す。それに、これは君にとっても都合のいい話のはずだが」
「どういうことです?」
「君は、このパリの街のどこかにいるはずの生き別れのお姉さんを捜しているのだろう?」
ファンは「え……」と呟いた。グベア博士がなぜそれを知っているのだろうと驚いたのである。
「トマ……君の父からの手紙にこう書いてあってね。『息子はパリで魔女を捜そうとしている。ファンが魔女と関わりを持たないように君が監視してくれ』と。これはいったいどう意味なのかと、頭をずっと抱えていたのだよ。それで、今日、君の従者をたまたま見かけて、彼が『ファン様のお姉様はパリのどこにいるのやら……』などとぶつぶつと独り言を言っていたので、気になって、それはどういう意味なのかと問いただしたら、従者が教えてくれたのだ。君が十九年前に捨てられた姉を捜しているとね」
(あのおしゃべりめ)
口の軽いナタンに対してファンは心中で舌打ちした。
ナタンは口が達者なわりには気が弱い。グベア博士のような風格ある学者に「少し聞きたいことがあるのだが」と質問されてビビってしまい、「へへえ」とこうべを垂れて正直に白状してしまったのだろう。
「……はい。その通りです。俺は、父親の違う姉を捜しています」
本来ならばビュリダン家の恥ずべき秘密だが、中途半端に知られてしまったからには、最初から最後まで事情をきちんと説明したほうがいいと考えたファンは、自分が生まれる以前に始まったビュリダン家の悲劇をグベア博士に語った。




