好きでいること。
バス停の時刻表を背伸びして再三見るのが、もう何度目か分からない。その度に少しだけずれる眼鏡のフレームを正しく直して、わたしは帽子をまた深く被った。あと三分。そう思うたびに、頬がかあっと熱を帯びるのがわかり、足の裏に落ち着きが無くなる。浮き足立つ、ってこういうことを言うんだななんて馬鹿なことを考えていると、ガードレールのずっと後ろから、速度を落としたバスが鼻息のような音を立てて停車した。
よろよろと下車する腰の曲がったおばあちゃんを尻目に、精算機から出て来た乗車券を取ると、蒸気機関車が発車するときみたいな音を立ててバスが再び走り出す。すこしよろめきそうになったところで、右中央の窓のちょうど横の席に腰を下ろして、わたしは息をついた。女性の声で次の停車駅がアナウンスされた後に、雑多とした車内広告を見渡し、そのあとにもう一息。たった5つバス停を挟むだけなのに、妙にわたしの肩や足元は落ち着きを失っていて、運賃を握った手がほかほかしてくる。
窓越しに、電線がだらんと垂れた電柱の数や、郵便局から出てくる赤バイを運転するおじさんの表情や、追い越していく自転車の影を数えても、時間は過ぎようとしない。首元に巻いたマフラーを鼻に当てて、少しだけ息を深く吸った。彼の匂いがするはずもないのに、何故かそんな気がする。変な声が漏れそうになったところで、マフラーを口元に押し当てた。唇に当たる毛糸が少しだけちくちくしたけれど、不快感はない。白と黒の縞模様をそのまま眺めるように見ていると、停車アナウンスが終わり降りることに気付き、小銭を精算機に滑り込ませて、わたしは慌ただしく下車した。
すごく口数が少ない子だな、と今でも思う。
奏太はそういう男の子で、純朴という言葉が一番似合うかもしれない。わたしの頭を一個半くらいわたしに乗せたくらいの背丈があって、裏表のない笑顔と、時折向けてくれる優しさとその言葉や行動にただ惹かれて、いつしかわたしはその想いを告げていた。
「奏太くんが好きです」
多分あの日、わたしは水色一色のマフラーを首に巻いて、放課後の中庭で彼に半ば叫ぶように言っていた。理由なんて深くわかんない。気づいたら奏太くんがわたしの頭の中にいた。奏太くんの優しさを独り占めしたい。それしか理由なんて無いけど。
「付き合ってくれませんか?」
今にも沈みそうな冬空の夕焼けが、そのときのわたしたちだけを照らしていたような気がする。あまりにも無謀で大胆で、突然すぎる告白だった。今思い返しても、後先考えずに言ったなと思う。夕陽に照りつけられたわたしの頬はより赤く染まっていて、奏太くんの少しだけ驚いたような表情をただ見つめていた。
肩の力が抜けない。足元が震える。奏太くんの口元や、瞳の先から目を逸らしたくなる。ほとんど真っ白な頭ではほとんど理解出来ていなかったけれど、あの時のわたしはただそうしたまま半ば硬直していた。
「……びっくりした」
奏太くんの声が、ふたりの間に響く。
「喜久田のそんな顔、初めて見たね」
そして奏太くんは優しく手のひらを髪に当ててくれて、ほろっと笑みを零す。
「嬉しいよ、ありがとう」
僕で良ければ。
それ以外の言葉はあまり覚えていない。現実味がないってこういう事なんだなって、十七歳の冬にそれを初めて実感した。細っこいけど、しっかりした骨格のある指先と、以外と肉質のある腕にその後に身体を引かれて、数秒に間だけ抱きしめられた事だけは覚えている。以外と大胆だね、と胸元に囁くように言うと、何か言葉を続けて苦笑されて、陽の沈んだ後の寒さを和らげてくれたことも。
バス停を右に行って、コンビニをすぐ右手に。二つ交差点を跨いだあとの、公園の横のアパートの二階の一番奥。
歌詞を読み上げるように口にしながら、錆び付いた薄い鉄板の階段をカンカンと音を立てて登り、コートがずれていないのかだけ見直す。扉には彼の名字の札だけあって、少しだけ重い指先を、インターフォンに押し当てる。
ベルがなった後に、聞き慣れた低音と、サンダルに履き替える音の後に、不思議といつもより薄く感じる鉄扉が開いて、見開いた瞳がわたしの目に飛び込んでくる。
「どうしたのいきなり」
ラフなTシャツと少しだけ寝癖ついた髪に少し苦笑しながら、わたしは首に巻いたマフラーを解いて彼の胸元に押し当てた。
「忘れもの、届けにきたの」
ああ、と口にした彼が、マフラーを手に取ると、わたしはそのまま身体をを彼の胸元に預けて、スピードを上げた心音を押し殺すように深く、言葉を繋げる。
「……ほんとは、ちょっと会いたくなったから」
口元を緩ませた彼が、あの時と変わらない指を、頭の後ろに回してくる。甘えん坊になったなあと苦笑されると、マフラーを巻いていた首元を最初に体全体が、あの日と同じように熱を帯びるのがわかって、わたしも思わず笑みを返した。
僕も、ちょこっと会いたかった。
なんで?
理由なんていらないでしょ?
好きになる時も、なったあとも。多分、この先も、好きでいることの理由はなんて、考えることはないと思う。