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12th day:あなたはもうどこにもいない

 彼がパソコンの姿に戻ってしまってから、あっという間に五日が過ぎた。それでも、私の中の彼の存在は色褪せたりはしなかった。朝起きて真っ先にリビングに向かい、物言わぬノートパソコンに落胆する、そんな日々が続いていた。

 彼がいなくなった日、何度も何度もパソコンの電源ボタンを押してみたけれど、パソコンは結局、うんともすんとも言わなかった。


 ──本人の言っていた通り、このパソコンはもう、死んでしまっているのだろう。


 電気屋に持ち込んだところで、一年前に無かったパーツがあるはずもない。

 だけど、捨てることなんて出来るはずも無かった。

 もしかしたら、また何事も無かったかのように起動するかもしれない。

 そんな夢物語みたいな幻想を抱き、私はパソコンを置いたままにしていた。物言わぬパソコンを見る度に胸が苦しくなり、涙が溢れる。だけど、手放すことも出来ない。


 彼がいなくなってから、誰もいない家に帰ることが辛くなった。明日に回しても問題のないような仕事に手をつけて、夜の遅くまで会社に残る。残業代は出ないから会社は何も言わないけれど、同僚には働きすぎだよと心配されるようになった。だけど──誰もいない真っ暗な部屋は、私の心にずんと重く圧し掛かる。あの家は彼と過ごした一週間のことを、否が応にも思い出させる。


 やっぱり、早く引っ越そう。

 明日は、土曜日だ。不動産屋を見に行こうかな。

 そう考えて、つい一週間前にも同じことを思っていたことを思い出す。

 だけど結局あのときは、彼とパソコンを見に行くことになって、二人で出かけたんだった。

 あれが彼と一緒に出かけた、最初で最後の日だった。彼と手を繋いで歩いた、最初で最後の日だった。


 ──ほら、また。


 仕事に集中して忘れようと思っているくせに、忘れることなんて出来ない。他のことを考えていても、結局最後には彼のことを考えてしまう。

 時間が経つと悲しみは薄れるというけれど、あれは本当なのかな。日が経つごとに、彼がいなくなったことを実感して泣いている気がする。

 こんなに悲しくなるなら、いっそ、私の前に現れないで欲しかった。

 最後の最後まで、ノートパソコンのままでいて欲しかった。

 そうしたら──別れのショックはあっても、きっと失恋の痛みなんて感じなくて済んだのに。


 馬鹿みたい。

 彼は最初から、もうすぐ壊れるから、って教えてくれていたのに。

 それを分かってて好きになるなんて、馬鹿みたい。電子機器に恋するなんて、本当に、なんて……馬鹿なんだろう。


 ぽたり、と手の甲に涙が落ちた。涙がキーボードに入るとまずい、と私は慌てて涙を拭った。

 それから、はた、と気付く。

 ああそうだ、私が今必死にキーボードを叩いている目の前のこの機械も、パソコンなんだ。

 洗い物をする彼の手からスポンジを取り上げたことを思い出す。水が入ってショートしないかって心配する私に、彼は心配しすぎだよって言っていつも笑っていた。


「……っ」


 結局やっぱり、思い出すのは彼のことばかりだ。人間の姿をしていた彼と過ごしたのはたったの一週間なのに、どうしてこんなに色んな思い出があるんだろう。

 拭っても拭っても、涙が止まらない。誰もいなくなった事務所で、私は必死で涙を拭った。苦笑しながらティッシュを差し出してくれる人は、ここにはいない。

 ううん──、ここには、じゃない。

 彼はもう、どこにもいないのだ。会いたくても、会えない。一年前、お父さんが亡くなったときと同じ。あの時は、(パソコン)が傍にいてくれた。


 だけどもう、彼はいない。今度こそ私は、一人ぼっちになってしまったんだ。


「会いたい、よぉ……っ」


 小さく呟いた時、ふと、肩に手が置かれた。

 私ははっとして振り返る。

 まさか──。


 振り返った先には、高科くんが立っていた。


「……たか、しなくん」


 一瞬、期待してしまった。


 もしかしたら振り返ったら"彼"がいるんじゃないかって、そんな愚かな期待を抱いてしまった。

 そんな訳、無いのに。

 彼はもうどこにもいない、と分かっているくせに、心のどこかでまだ信じきれていない自分がいる。最初に現れた時のように唐突に、人の姿で私の目の前に現れるのではないかと思ってしまう。


 もしかしたら私の落胆が表情に出ていたのかもしれない。高科くんは困ったような表情で、ごめん、と言った。私は必死に頭を振った。


「お疲れ様。どうしたの?」

「いや。……小林さんがここのとこ、毎日残業してるみたいだから気になって」


 高科くんは心配そうな目で私を見下ろしている。違う部署の彼までそのことを知っているなんて、と私は驚いた。


「なんか、あった?」

「え?」


 頬に残った涙を手の甲で拭いながら聞き返すと、彼は苦笑を浮かべた。


「最近いつ見ても小林さん、元気がなさそうだから。どうかしたのかなって、さっきこっちの部署の子に聞いたんだ。そうしたら、最近ずっと残業してるって言うから」


 気になって会いに来ちゃった、と彼は笑った。


「もし……何かあったなら、僕でよかったら相談にのるよ?」


 私はお礼を言って、けれどその問い掛けには頭を振ることで答えた。

 パソコンが壊れただなんて言ったところで、この悲しみを理解してもらうことは出来ないだろう。十年間、ずっと一緒だったのだ。父が亡くなった時、まるで後を追いかけようとするように壊れそうになったけれど、それでも彼は持ちこたえて、この一年間、私と一緒にいてくれた。


 最後の一週間、彼は人間の姿になって、ずっと私の傍にいてくれた。──なのに、その彼はもうどこにもいない。


「大丈夫、ありがとう」

「……彼氏?」


 高科くんは、唐突にそう言った。


「え?」


 びっくりして聞き返した私に、彼は苦笑を浮かべてみせる。


「さっき会いたい、って言ってたから。彼氏かな……って。……いや、悪い。こんなの振られた人間が詮索することじゃないな」


 彼はそう言って苦笑いしたけれど、心配して言ってくれていることは分かっていたから、私は小さく頭を振った。


「ううん。……彼氏じゃ、ない」


 私が勝手に、好きだっただけだ。


「好きだったの。……だけどもう、どこにもいないの」


 この気持ちを自覚したその次の日に、彼はいなくなってしまった。

 高科くんは、きゅっと眉根を寄せた。


「……それは」

「どうして人は、誰かを好きになるんだろうね」


 私は思わず、そう呟いていた。


 ずっと、恋をしてみたいと思っていた。誰かを好きになるってどんな気持ちなのか、私はそれを知りたいと思っていた。身を焦がすような狂おしい程の恋をしてみたいと、そう思っていたのだ。


 だけど、その考えは間違いだったと思う。


 こんなの、何も楽しくなんてない。辛くて苦しくて、胸の奥が痛いだけだ。こんなに苦しい気持ちになるなら、恋なんてしたくなかった。誰かを好きになる気持ちなんて、知らないままで良かった。


「誰を好きになるかは、自分で決められたらいいのにね」


 そうしたら、私は絶対()を選んだりなんてしなかった。目の前で心配そうに私を見下ろしてくれている高科くんだったら──、私がもし高科くんを好きになっていたのなら、きっと幸せだったと思うのに。


「なんてね……」


 私のことを好きだと言ってくれた相手に対して、そんなことを言えるはずも無い。

 苦笑して隣を見上げると、高科くんは困ったような顔で私を見下ろしていた。


「……小林さんは、その人を好きになったことを後悔してる?」


 高科くんは、静かな声で言った。


「え?」

「出会わなければ良かったって思ってる?」


 私はその言葉に、すぐに返事を返せなかった。

 確かに私はついさっき、こんな風にいなくなってしまうのなら、私の前に現れないで欲しかった、と思っていた。

 だけど、本当にそうなのかな。

 私は彼に出会わなければ良かったと、本気で思っているのかな。


「俺は、そうは思わないけどな。小林さんが俺のことを好きになってくれなくても──、小林さんに会わなければ良かったとか、好きにならなければ良かったとか、そんな風には思えない」


 高科くんは小さく笑った。


「そんな風に考えるのは、勿体無いよ。たとえもう会えないのだとしても──、小林さんがその人を好きになったってことは、たとえ報われない思いだとしても……、何か大切な思い出があるってことだろ? その思い出まで否定するのは、勿体無いと思う」


 その言葉で、彼と過ごした一週間が、走馬灯のように頭を過ぎった。

 ──パソコンデスクの上で、いつも三角座りをしていた彼。おいしい晩御飯を作ってくれた。怖がりな私の髪を乾かしてくれた。虫を怖がる私のことを、守ってくれた。手を繋いで、頭を撫でて──"舞が好きだよ"って、優しい声で言ってくれた。抱き締めてくれた体温は、とても温かかった。ずっと、ずっと、私の傍にいてくれた。


「……っ」


 そうだよ。

 彼は私の心に素敵な思い出を、沢山残して行ってくれた。

 出会わなければ良かったなんて、思いたくない。彼と過ごした日々は確かに幸せだった。私の心に温かいものを沢山与えてくれたんだ。


 だけど。


 だけど、彼にはもう二度と会えないんだ──。


 ぽたぽたぽた、と零れていく涙を私は慌てて拭った。ひょい、と身を乗り出した高科くんは、マウスを握ると、私の開いていたエクセルファイルを上書き保存して、パソコンをシャットダウンした。


「ちょ、」

「今日はもう終わり。……飲んで帰ろう?」


 高科くんの瞳には有無を言わさない強さがあって、私はただ小さく頷くしかなかった。







 高科くんと近くの居酒屋でビールを浴びるほど飲んで、終電ぎりぎりの電車に乗って家に帰った。仕事を早めに切り上げたのに、結局いつもと同じような時間に帰っていることがなんだか可笑しいなと思う。


 高科くんは話し上手で、とても楽しい時間だった。高科くんは私が話したがらない話を無理に聞きだすようなことはせずに、他愛も無い楽しい話を次々と聞かせてくれた。家まで送るよと言ってくれたものの、高科くんの家は反対方向だったのでそれを断り、結局駅の改札で別れた。


 私は高科くんを振った女だというのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。

 高科くんはとても優しい。一緒にいて、楽しい。


 だけどやっぱり、その気持ちは異性への思慕ではない。


 ()と一緒にいるときのように、心臓が暴れ狂うような鼓動を感じることも、心の奥で胸を締め付けるような愛おしさを感じることも無い。

 私が好きなのはやっぱり彼のことだけなのだと、否が応にも認識させられる。


「会いたいなあ……」


 ふふ、と笑ったはずが、目からぽろり、と涙が落ちる。涙を拭おうと手を伸ばした瞬間、小石に足を引っ掛けて、上体がぐらついた。慌てて体制を戻そうとして、体が思うように動かないことに気が付く。


 ああ、お酒弱いのに飲みすぎたせいかな。

 どうしよう、こんなところで倒れたら──。


 ぽす、と何かに受け止められる衝撃を感じて、私ははっと顔を上げた。私の体を支える腕。


 やっぱり一瞬、期待した。

 馬鹿だなあ。さっきも、同じような期待をしたのに。


 ──彼はもうどこにもいないって、分かってるのに。


「大丈夫ですか」


 私の体を支えてくれた女の子が、心配そうな目で私を見ている。丸い瞳を不安げに曇らせて、私を見下ろしている。

 見ず知らずの女の子が、ぐらついた私の体を支えてくれたんだ。私より少し背が高いみたいだけれど、女の子には重いだろうな。


 私はこの二週間で、どうしてこう何度も何度も、転びそうになっているんだろう。


 一度目は、お風呂場で見た虫の姿に驚いて、お風呂場から飛び出した挙句、足拭きマットに足を取られて転びそうになった。

 あの時は、駆け寄って来た彼が私の体を受け止めてくれた。


 二度目は、彼と家の庭で花火をした時だ。あの時も、私は虫に驚いて転びかけた。彼はまだ燃えている花火を手の中に握り潰して、私の体を受け止めてくれた。


 三度目が──、今だ。


 知らない女の子に、受け止められている。

 私の体を支えるように包み込んでくれている細い腕は、か弱い女の子のもので、彼のものじゃない。

 当たり前だ。

 彼はもう、どこにもいないのだから。


 だけど、見知らぬ女の子の腕に包み込まれていることに、不思議な安堵を覚える。

 人肌が恋しいのだろうか。

 何だか胸が締め付けられるように痛くなって、私はぎゅっと目を瞑った。瞳の奥がじわじわと熱くなって、胸がどんどんと苦しくなっていく。


 苦しくて、辛い。

 恋しく思っても、彼はもう帰っては来ない。

 そんなこともう、分かりきっているはずなのに。


「あの───……、大丈夫、ですか」


 戸惑ったような声に、私ははっと我に返った。いつの間にか、目の前の彼女にしがみ付くようにして、私は声も出さずに泣いていた。


「ご、ごめんなさいっ」


 飛びのくように、彼女の腕の中から離れた。顔を上げれば、女の子は困惑した様子で私を見下ろしている。

 見ず知らずの、転びかけていた女を支えてやったら、いきなりしがみついて泣き出したのだから、戸惑って当然だろう。


 どうかしている。

 知らない人にしがみついて、泣いてしまうなんて。

 本当に、どうかしてるよ……。


「ご、ごめんなさい!」


 その瞳を見つめ返すことすら恥ずかしくて、私は慌てて頭を下げた。視界の隅で、彼女が頭を振っている様子が映った。


「いえ、あの、気にしないで。……大丈夫ですか?」

「大丈夫です。……すみません、ありがとう」


 恐る恐る顔を上げると、彼女は心配そうな表情で私を見下ろしていた。


「あの、なんだかふらふらされているし、家までお送りします」


 彼女のとんでもない申し出に、私はぶんぶんと頭を振った。


「とんでもありません。大丈夫です、ありがとうございます」


 いきなりしがみついて泣き出した知らない女のことを心配して、家まで送ろうだなんて言ってくれるなんて、なんて心の優しい人なんだろう。その優しさに、一度は落ち着いた涙腺がまた緩み出す。

 慌てて拭おうとしたけれど、遅かった。ぽたぽた、と地面に落ちた雫に気付いたようで、彼女はぎょっとしたような表情を浮かべた。


「あの、何か……」

「……ごめんなさい、なんでもないんです。最近、転んでばっかりで。それで……いつも私を支えてくれた人のことを、思い出してしまって」


 ほんの一週間前のことなのに、随分昔のことのように感じる。私は手の甲で、乱暴に頬を拭った。


「思い出さないようにしてたのに。でもやっぱりちょっとしたことで、思い出して……、会いたくなるのに、もう会えないから」


 なんでこんなことを言っているんだろう。

 目の前の女の子は、ただただ悲しげな瞳で私を見下ろしている。

 こんな話を見知らぬ人にしたって、困らせるだけだ。私は気持ちを切り替えるように両手でパン、と頬を叩いた。


「ごめんなさい。変な話をして。あの、私はもう大丈夫ですから……、あなたも、気をつけて帰って下さいね」


 小さく笑顔を浮かべて見上げた女の子は、まだ何か言いたそうにしていたけれど、私は頭を下げて、そのまま踵を返して歩き出した。

 これ以上、見知らぬ女の子にみっともない姿を見せたくなかった。


 大丈夫。時間が経てばきっと、平気になるはずだから。

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