表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

8th day:あなたの消えた日

 朝、台所へ向かうと、彼はいつものように朝食を準備してくれていた。私を振り返った彼は、ふわりと柔らかい笑みを浮かべる。


「おはよう、舞」


 正直、少し気まずかったのだけれど、彼の態度はいつも通りだった。昨夜抱き締められたことを意識しているのは、どうやら私だけみたいだ。


 馬鹿、みたい。


 ……そうだよ、分かってたことじゃない。 

 彼は人間じゃない。花火を握り潰してもやけど一つ負わない、無機質なノートパソコンなんだ。

 私が抱いているのと同じような気持ちを、彼が私に抱いてくれることは絶対にありえない。

 そんなこと分かっていたはずなのに、いつも通りの彼の笑顔を見て、心臓が締め付けられたように苦しくなった。


「……おは、よう」


 私はいつも通り、挨拶を返した。少しぎこちないような気もしたけれど、幸い彼は気が付かなかったようで、笑顔のまま朝食の準備を進めてくれた。


 どうやら、グリルで魚を焼いてくれているみたい。今日の朝御飯は和食なのかな。いんげんの和え物もあるし、朝から豪勢だ。


「パソコンなのに、私よりずっと主婦だよね」 


 私が適当に買って帰った食材で、いつもおいしいものを作ってくれる。料理のレパートリーも、私より多いんじゃないだろうか。思わずそう呟くと、彼はふっと目を細めた。


「舞においしいものを食べてもらいたいからね」


 その言い方がなんだか母親みたいで、私は思わずくすっと笑った。

 彼は人間じゃない。確かに、彼が私に気持ちを向けてくれることは無いだろう。

 でも──きっと彼は、母親が娘を愛するのと同じように、私のことを大事にしてくれている。きっとそんな風には、私のことを思ってくれている。私はそのことを、喜ぶべきなんだ。

 私と同じような感情を、彼に対して望んではいけない。彼は、人間ではないのだから。

 痛む胸をごまかすように、母親みたいだねと口にしたら、不思議なことに彼は少しむっとしているようだった。


 

 いつものように、見られながらの朝御飯を終えて、私はカバンを持って玄関へと向かった。彼はいつものように玄関まで付いてきて、私の見送りをしてくれた。


「今日も遅いの?」

「うん、いつもと同じくらいかな」


 私の言葉に、彼はわかった、と頷いた。


「家にあるもので作れそうなもので、何か晩御飯に食べたいものある?」


 いつもならなんでも食べるよと答える私だけれど、ふと、最初の夜に彼が作ってくれた、目玉焼きの載ったハンバーグを思い出した。丁度昨日、安かったから合挽きミンチを買ったのだ。


「ハンバーグがいいな。目玉焼き載ったやつ」


 そう答えたら、彼は優しく目を細めて頷いてくれた。


「分かった。作っとく」


 なんだか本当に母親みたいで、思わず笑みがこみ上げる。そんなことを言ったらまた機嫌を損ねるかもしれないので、私は笑うだけに留めておいた。


「楽しみにしてる。じゃあ、いってきます」

「うん、いってらっしゃい」


 彼はいつものように、柔らかい笑顔を浮かべて私に手を振っていた。







 その日、仕事を終えて家に帰ると、家の中は真っ暗だった。まさか、また電気をつけていないのかな。私がいない時間でも、電気をつけてくれていいって言っているのに。

 そもそも、彼が晩御飯を作ってくれているときは、いつも台所の電気がついている。確か今日は、ハンバーグを作ってくれると言っていたはずだ。それなのに、どうして真っ暗なのだろう。


「ただいまー」


 私はそう声を掛けながら、パチン、と台所の電気をつけた。彼はいない。リビングの方にいるのかな。私はカバンをそこに置いて、リビングへと向かった。ただいま、と言いながらリビングの扉を開ける。パチン、と電気をつけたけれど、そこにも彼はいなかった。彼がいつも膝を抱えて座っていたパソコンデスクには、一週間前と何も変わらないように、私のノートパソコンが置かれている。

 一週間前と変わっているのは、その横にクッションが置いてあることくらいだ。


「え……!?」


 一瞬で、すうっと血の気が引くのを感じた。

 驚いて、名前を呼ぼうとして。私は、──彼に名前さえ付けてあげていなかったことに気付いた。この一週間、毎日のように言葉を交わしてきたけれど、彼はいつも声の届く場所にいた。呼べばすぐに来てくれたし、ここには私と彼の二人しかいなかった。だから、名前を呼ぶことなんて無かったのだ。


 だから私には、彼を呼ぶ術がない。


「ねえ、どうしちゃったの? どうして今日は、人型じゃないの?」


 声を掛けるけれど、パソコンは返事をしない。嫌な予感がむくむくと膨れ上がっていく。

 もう二度と、人型にはなってくれないんじゃないかって。


「ねえ、聞いてる? ねえってば……」


 ノートパソコンに向かって呼びかけるけれど、返事は無い。人型でない彼が言葉を話すはずもないのに、私は必死で言葉を紡いだ。


「ねえ、ねぇってば……返事してよ……。人の姿に戻って……、返事、してよ……」


 私を驚かそうとする悪戯ならいいと思った。直ぐに人の姿に戻って、びっくりした?って聞いてくれればいいと思った。

 だけど、彼は無機質なパソコンの姿を形取ったまま、何も答えてはくれない。


 一度電源ボタンに伸ばしかけた手を、引っ込める。躊躇いの後、もう一度、恐る恐る手を伸ばした。ポチ、と電源ボタンを押す。指先に手応えを確かに感じたのに、パソコンは何の反応も示さない。電源ランプがつくことさえも無く、パソコンは沈黙していた。


「ねぇ……答えてよ、ねぇ」


 そのまま、ずるずるとそこにへたり込んだ。


「どこに、行っちゃったの……?」


 彼は、ここにいるのに。私はそれを認めることが出来ない。──認めたく、ない。


「お願い、答えてよ……! 返事を、してよ……っ」


 名前を呼ぶことも出来ず、ねえ、どこにいるの、と叫びながら、家中の扉を開けた。最後にもう一度戻った台所で、机の上に大きなお皿が置いてあることに気付く。お皿の上には目玉焼きの載ったハンバーグと、千切りのキャベツ、それから、ポテトサラダが載せられている。ラップには湯気と思しき水蒸気がくっついていて、ハンバーグはまだ温かそうだ。ぬくもりを確かめようと、お皿に手を添えようとしたとき、お皿の下に何か紙があることに気付いた。

 どうやらお皿を重石の代わりにしているみたいだ。


 何だろう、とその紙を引っ張り出すと、それは二つ折りにされた白い紙だった。そっと開いて、私は小さく息を飲んだ。


 それは、手書きの手紙だった。


「舞、おかえり。俺はもう人型を保てないと思う。

 俺がいなくなっても、朝御飯はちゃんと食べなきゃ駄目だよ。


 電源の付かなくなった俺は、もう生きては居ないから、

 捨ててくれればいい。


 ──今までありがとう。


 舞と過ごせて、本当に楽しかった。」



 膝の力がふっと抜ける。私はそのまま、台所の床にへたりこんだ。

 頭が、回らない。

 一体、どういうこと? これじゃあ本当に、もう二度と会えないみたいだ。 


 ぎゅうっと握り締めた手の平の中で、手紙がぐしゃぐしゃになる。私は手紙を持ったまま、両手で顔を覆った。鼻の奥が痛い。瞼が熱くなっていく。堪えようと思うのに、抑えられない嗚咽が喉の奥から零れ出す。

 涙を堪えようとぎゅっと目を瞑るけれど、堪えることなんてできなかった。

 溢れ出した涙が、手のひらをどんどんと濡らしていく。


 ──彼はもう、ここに……ううん。どこにも、いないのだ。

 彼にはもう、二度と会えないのだ。

 まだハンバーグは温かいのに、彼のぬくもりはどこにもない。


 綺麗な字で書かれた手紙が、余計に私を苦しくさせる。パソコンなのに、どうして手書きの手紙なんだろう。歪み一つない綺麗な字なのに、小さい"つ"の字だけが少し斜めになっているのは、彼の癖なのだろうか。機械なのに、そういうところは妙に人間染みている。

 機械なのに──彼のぬくもりや少し儚げな笑い方、いじわるな優しさも、すべてが人間みたいだった。

 だけど彼は機械だから、壊れてしまったら、もう会えない。


 もう二度と、会えない。


 私はその晩、床にへたり込んだまま、ハンバーグが冷め切ってしまっても、ずっと泣いていた。

 そうしていればそのうち、彼がまた人型を取って、「どうしたの?」って優しく声を掛けてくれるような気がした。


 だけど、彼は──私のノートパソコンはもう、二度と人の姿にはならなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ