8th day:あなたの消えた日
朝、台所へ向かうと、彼はいつものように朝食を準備してくれていた。私を振り返った彼は、ふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
「おはよう、舞」
正直、少し気まずかったのだけれど、彼の態度はいつも通りだった。昨夜抱き締められたことを意識しているのは、どうやら私だけみたいだ。
馬鹿、みたい。
……そうだよ、分かってたことじゃない。
彼は人間じゃない。花火を握り潰してもやけど一つ負わない、無機質なノートパソコンなんだ。
私が抱いているのと同じような気持ちを、彼が私に抱いてくれることは絶対にありえない。
そんなこと分かっていたはずなのに、いつも通りの彼の笑顔を見て、心臓が締め付けられたように苦しくなった。
「……おは、よう」
私はいつも通り、挨拶を返した。少しぎこちないような気もしたけれど、幸い彼は気が付かなかったようで、笑顔のまま朝食の準備を進めてくれた。
どうやら、グリルで魚を焼いてくれているみたい。今日の朝御飯は和食なのかな。いんげんの和え物もあるし、朝から豪勢だ。
「パソコンなのに、私よりずっと主婦だよね」
私が適当に買って帰った食材で、いつもおいしいものを作ってくれる。料理のレパートリーも、私より多いんじゃないだろうか。思わずそう呟くと、彼はふっと目を細めた。
「舞においしいものを食べてもらいたいからね」
その言い方がなんだか母親みたいで、私は思わずくすっと笑った。
彼は人間じゃない。確かに、彼が私に気持ちを向けてくれることは無いだろう。
でも──きっと彼は、母親が娘を愛するのと同じように、私のことを大事にしてくれている。きっとそんな風には、私のことを思ってくれている。私はそのことを、喜ぶべきなんだ。
私と同じような感情を、彼に対して望んではいけない。彼は、人間ではないのだから。
痛む胸をごまかすように、母親みたいだねと口にしたら、不思議なことに彼は少しむっとしているようだった。
いつものように、見られながらの朝御飯を終えて、私はカバンを持って玄関へと向かった。彼はいつものように玄関まで付いてきて、私の見送りをしてくれた。
「今日も遅いの?」
「うん、いつもと同じくらいかな」
私の言葉に、彼はわかった、と頷いた。
「家にあるもので作れそうなもので、何か晩御飯に食べたいものある?」
いつもならなんでも食べるよと答える私だけれど、ふと、最初の夜に彼が作ってくれた、目玉焼きの載ったハンバーグを思い出した。丁度昨日、安かったから合挽きミンチを買ったのだ。
「ハンバーグがいいな。目玉焼き載ったやつ」
そう答えたら、彼は優しく目を細めて頷いてくれた。
「分かった。作っとく」
なんだか本当に母親みたいで、思わず笑みがこみ上げる。そんなことを言ったらまた機嫌を損ねるかもしれないので、私は笑うだけに留めておいた。
「楽しみにしてる。じゃあ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
彼はいつものように、柔らかい笑顔を浮かべて私に手を振っていた。
*
その日、仕事を終えて家に帰ると、家の中は真っ暗だった。まさか、また電気をつけていないのかな。私がいない時間でも、電気をつけてくれていいって言っているのに。
そもそも、彼が晩御飯を作ってくれているときは、いつも台所の電気がついている。確か今日は、ハンバーグを作ってくれると言っていたはずだ。それなのに、どうして真っ暗なのだろう。
「ただいまー」
私はそう声を掛けながら、パチン、と台所の電気をつけた。彼はいない。リビングの方にいるのかな。私はカバンをそこに置いて、リビングへと向かった。ただいま、と言いながらリビングの扉を開ける。パチン、と電気をつけたけれど、そこにも彼はいなかった。彼がいつも膝を抱えて座っていたパソコンデスクには、一週間前と何も変わらないように、私のノートパソコンが置かれている。
一週間前と変わっているのは、その横にクッションが置いてあることくらいだ。
「え……!?」
一瞬で、すうっと血の気が引くのを感じた。
驚いて、名前を呼ぼうとして。私は、──彼に名前さえ付けてあげていなかったことに気付いた。この一週間、毎日のように言葉を交わしてきたけれど、彼はいつも声の届く場所にいた。呼べばすぐに来てくれたし、ここには私と彼の二人しかいなかった。だから、名前を呼ぶことなんて無かったのだ。
だから私には、彼を呼ぶ術がない。
「ねえ、どうしちゃったの? どうして今日は、人型じゃないの?」
声を掛けるけれど、パソコンは返事をしない。嫌な予感がむくむくと膨れ上がっていく。
もう二度と、人型にはなってくれないんじゃないかって。
「ねえ、聞いてる? ねえってば……」
ノートパソコンに向かって呼びかけるけれど、返事は無い。人型でない彼が言葉を話すはずもないのに、私は必死で言葉を紡いだ。
「ねえ、ねぇってば……返事してよ……。人の姿に戻って……、返事、してよ……」
私を驚かそうとする悪戯ならいいと思った。直ぐに人の姿に戻って、びっくりした?って聞いてくれればいいと思った。
だけど、彼は無機質なパソコンの姿を形取ったまま、何も答えてはくれない。
一度電源ボタンに伸ばしかけた手を、引っ込める。躊躇いの後、もう一度、恐る恐る手を伸ばした。ポチ、と電源ボタンを押す。指先に手応えを確かに感じたのに、パソコンは何の反応も示さない。電源ランプがつくことさえも無く、パソコンは沈黙していた。
「ねぇ……答えてよ、ねぇ」
そのまま、ずるずるとそこにへたり込んだ。
「どこに、行っちゃったの……?」
彼は、ここにいるのに。私はそれを認めることが出来ない。──認めたく、ない。
「お願い、答えてよ……! 返事を、してよ……っ」
名前を呼ぶことも出来ず、ねえ、どこにいるの、と叫びながら、家中の扉を開けた。最後にもう一度戻った台所で、机の上に大きなお皿が置いてあることに気付く。お皿の上には目玉焼きの載ったハンバーグと、千切りのキャベツ、それから、ポテトサラダが載せられている。ラップには湯気と思しき水蒸気がくっついていて、ハンバーグはまだ温かそうだ。ぬくもりを確かめようと、お皿に手を添えようとしたとき、お皿の下に何か紙があることに気付いた。
どうやらお皿を重石の代わりにしているみたいだ。
何だろう、とその紙を引っ張り出すと、それは二つ折りにされた白い紙だった。そっと開いて、私は小さく息を飲んだ。
それは、手書きの手紙だった。
「舞、おかえり。俺はもう人型を保てないと思う。
俺がいなくなっても、朝御飯はちゃんと食べなきゃ駄目だよ。
電源の付かなくなった俺は、もう生きては居ないから、
捨ててくれればいい。
──今までありがとう。
舞と過ごせて、本当に楽しかった。」
膝の力がふっと抜ける。私はそのまま、台所の床にへたりこんだ。
頭が、回らない。
一体、どういうこと? これじゃあ本当に、もう二度と会えないみたいだ。
ぎゅうっと握り締めた手の平の中で、手紙がぐしゃぐしゃになる。私は手紙を持ったまま、両手で顔を覆った。鼻の奥が痛い。瞼が熱くなっていく。堪えようと思うのに、抑えられない嗚咽が喉の奥から零れ出す。
涙を堪えようとぎゅっと目を瞑るけれど、堪えることなんてできなかった。
溢れ出した涙が、手のひらをどんどんと濡らしていく。
──彼はもう、ここに……ううん。どこにも、いないのだ。
彼にはもう、二度と会えないのだ。
まだハンバーグは温かいのに、彼のぬくもりはどこにもない。
綺麗な字で書かれた手紙が、余計に私を苦しくさせる。パソコンなのに、どうして手書きの手紙なんだろう。歪み一つない綺麗な字なのに、小さい"つ"の字だけが少し斜めになっているのは、彼の癖なのだろうか。機械なのに、そういうところは妙に人間染みている。
機械なのに──彼のぬくもりや少し儚げな笑い方、いじわるな優しさも、すべてが人間みたいだった。
だけど彼は機械だから、壊れてしまったら、もう会えない。
もう二度と、会えない。
私はその晩、床にへたり込んだまま、ハンバーグが冷め切ってしまっても、ずっと泣いていた。
そうしていればそのうち、彼がまた人型を取って、「どうしたの?」って優しく声を掛けてくれるような気がした。
だけど、彼は──私のノートパソコンはもう、二度と人の姿にはならなかった。