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6th day:さよならへのカウントダウン

 土曜日の朝、着替えて一階に下り、リビングへの扉を開けると、パソコンデスクの上に座っていた彼が驚いたように私を見た。


「あれ、今日、仕事?」

「うん、土曜出勤なの」


 土曜日は基本的には休みなのだけれど、忙しい時期には、時々出勤になってしまうのだ。顔を洗おうと洗面所に向かう私を、彼が慌てて追いかけてきた。


「ごめん、すぐに朝御飯作るよ」

「え、あ、そんなの、いいよ! 食パンでも焼いて食べるし」


 彼は、今日は私はお休みだと思っていたみたいだ。これまでも土曜出勤なんてなかなか無かったから、土曜日は遅くまで寝ているものだと思っていたのだろう。急かして朝御飯を作ってもらうのは何だか気が引けて、今日はいいよと言ったのだけれど、彼はすぐに作るから、と台所へ行ってしまった。

 なんだか申し訳ないなと思いながら、洗面所に向かう。顔を洗って戻ってくると、彼はフライパンで何かを焼いていた。

 近寄ってフライパンの中を覗き込むと、数日前に始めて食べたあのトーストがそこにあって、私はあっ、と声を漏らした。


「これ、この間作ってくれたやつ?」

「そう。舞が、また食べたいって言ってくれたから」


 なんだったかな。モンテクリスト・サンドイッチって言ったっけ。ハムがカリカリに焼けて、凄くおいしそう。


「ごめん、今日はこれだけだけど」

「とんでもない! 凄く嬉しい」


 お皿に移してくれている横で、私はインスタントのコーヒーを入れて、さっと席に着いた。トーストを載せたお皿を、彼が私の目の前に置いてくれる。


「わーい。ああ、いい匂い。いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 彼はそう言って、小さく笑った。


「なんか、幸せだなあ」


 ──こんな生活がずっと続けばいいのに。


 そう思った瞬間、彼が最初に言っていた、俺はもうすぐ壊れる、という言葉を思い出す。

 その瞬間胸がつかえたように苦しくなって、私は慌ててコーヒーを流し込み、その閉塞感をごまかした。

 彼が丁寧に入れてくれるコーヒーの味に慣れ始めていた舌は、私が適当に入れたコーヒーの強い苦味に不快感を示して、私は思わずぎゅっと眉根を寄せた。


「舞? どうかした?」

「ううん。私の入れたコーヒーは苦いなって思って」


 私がそう告げると、彼はただ困ったように苦笑を浮かべた。



*



 その晩、彼はご飯を食べている私を見つめながら言った。


「明日は休み?」

「うん、そうだけど」


 不動産屋さんに行こうかな、と思いながら頷くと、彼は静かな声で言った。


「じゃあ、明日にでも次のパソコンを選んで来て欲しい。俺が起動するうちに、データを移しておいた方がいい」


 私はエビフライを掴もうとしていた箸を止めて、彼を見上げた。なんだか、胸の辺りがむかむかする。嫌な、感じ。


「起動するうちに、って、まだ大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないから言ってるんだ」

「なんで分かるの」

「自分のことだからだよ」


 彼は淡々とした声で言う。


「消えて困るデータがあるなら、早く移しておいた方がいい」

「ないよ、そんなの。大体、一年前にデータ全部飛んじゃったし」


 私はエビフライを掴んで、ぱくりと齧った。衣はさくさくしていて、えびはぷりぷりで、凄くおいしい。なのに……胸の気持ち悪さが収まらない。私はえのきのお吸い物の器を手にとって、ごくごくと飲み干した。


「お吸い物の一気飲みって」


 彼がおかしそうに笑う。その柔らかい声音で、私の気持ちも少し緩んだ。


「おいしかった」

「……なら良かった」

「ありがとう。ごちそうさまでした」


 私が手を合わせると、彼はお粗末様でした、といいながら食器を下げてくれる。本当、どこで学んだんだろうな、そんな言い回し。……ネットか。


「明日には、買って来て欲しい。俺、多分もう後一週間と持たないから」


 スポンジを泡立てながら告げられた彼の言葉に、私は頭が真っ白になるのを感じた。


「そんなこと、ないよ!」


 彼の手からスポンジを抜き取って、泡だらけのスポンジでお皿をこする。彼は大丈夫だからというのだけれど、電子機器が洗い物をしている姿は見ていてとても不安になる。水が入るんじゃないか、って。


「そもそも、XPはあと一年と持たずに、サポートが終わってしまうんだ。早く新しいのに買い換えた方がいい」


 彼は泡だらけになった手をタオルで拭くと、乾燥機に掛けてあった食器を食器棚に片付け始めた。本当によく働くパソコンだ。


「だったら、OSだけ買い直すよ。エイトだっけ、新しいの。あれだけ買って来る」

「俺はもう古いんだ。この体はもう、OSをフルインストールしなおすことに耐えられないと思う。新しいパソコンを買った方がいい。今なら、十年前に俺を買った値段よりも安く、俺よりスペックの高いパソコンを買えるはずだから」


 淡々と言う彼の袖を、私は思わず掴んでいた。彼はマグカップを持ったまま、不思議そうに私を見下ろす。


「あなたはそれで、いいの……?」


 彼は私を見下ろしたままで、微笑を浮かべた。穏やかな笑みだった。


「俺はいいんだ。本来なら、一年前に壊れてたはずの機械なんだから」

「そんなことないよ! ちゃんと、持ち直してくれたじゃない」


 一年前、父が亡くなった一週間後に、パソコンは一度電源が入らなくなった。私は近所の電気屋に修理を依頼したけれど、もう生産終了している型番だからパーツが無くて、修理は出来ないと言われた。絶望したけれど、父の遺品でもあるパソコンを捨てることなんて出来なくて──、私は電源のつかなくなったパソコンを抱えて家に帰ったのだ。

 だけど、家に帰って電源を入れてみたら、普通に起動した。原因は分からないけれど、パソコンの不調は治ったのだ。データは全部飛んでしまっていてまっさらの状態だったけれど、それでも、パソコンが元気に復活してくれて私はとても嬉しかった。


 あれから一年経ったけれど、あの日以来、電源が入らないことは一度たりとも無かった。故障したことなんて忘れてしまいそうなくらい、パソコンは快適に動いていたのだ。


「私は、いやだよ。……寂しいよ」


 もう十年も一緒にいたのだ。電子機器なのだから、いつかは壊れる。そう分かってはいるけれど、その事実を認めたくは無かった。この一週間は毎日言葉を交わして、一緒にいられて、とても楽しかったのだ。


「俺は、もう十分。あなたは俺を大事にしてくれた。一緒に過ごせて、こうして言葉を交わすことが出来て、良かった」

「そんなの……」


 笑ってそんな風に言われると、なにも言えなくなる。彼は、もう止まることを覚悟してるんだ。


「明日、パソコンを買いに行くなら……おすすめのやつ、選んでくれる?」


 彼の袖を掴む指先にぎゅっと力を込める。

 一緒に来てくれる? という意味で訊いたのだ。──だけど彼は、家を出られるのだろうか?

 彼はマグカップを乾燥機に戻すと、俯く私の頭に優しく手を乗せてくれた。


「……いいよ」






 その晩、真夜中に、ふいに目が覚めた。


 カーテンの向こうを見ると、外はまだ薄暗い。どうやらまだ、夜は明けていないみたいだ。なんだか、ひどく喉が渇いた。


 普段なら、夜中にトイレに行きたくなったり、お水を飲みたくなったりしても、怖くて行くことが出来ない。大抵は二度寝して、外が明るくなるのを待っている。けれど今日は、私はベッドから起き上がって、お水を飲みに行くことにした。一人で真っ暗な階下に降りることをあまり怖いと思わなかったのは、リビングには彼がいると思ったからかもしれない。


 部屋の電気を点けてから廊下への扉を開け、それから廊下の電気もパチン、と点ける。電気を点けても何だか薄気味悪くて、私は早足に階段を下り、台所へと急いだ。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターをグラスに注ぐ。ごくごくと飲み干して、私は二階へ上がろうと歩き出す。

 だけどなんとなく、階段に向かうのをやめて、リビングの方へと足を向けた。彼がどうしているか気になったのだ。

 音を立てないようにそっとリビングへの扉を開ける。廊下の光が入り込み、暗いリビングを映し出す。彼は、眠ってはいなかった。パソコンデスクの上に膝を抱えて座ったまま、カーテンを少し開け、窓の外をぼんやりと眺めている。

 廊下から差し込む光に気付いたのか、彼はぱっと振り返った。


「……舞。どうしたの」


 彼は私の姿を認めると、驚いたように言った。


「ううん、喉が渇いたから、お水を飲みに来たの。……あの、眠らないの?」


 私がそう問い掛けると、彼はカーテンを閉めながら、苦笑いを浮かべて頷いた。


「眠れないんだ。俺、人間じゃないし」

「そうなんだ……」


 それじゃあこれまでずっと毎晩、こうやって一人で外を眺めていたのかな。


「ごめんね、てっきり眠ると思い込んで、電気とか消しちゃってたけど……、眠らないなら、電気点けておこうか? 昼間みたいに、好きなように過ごしていてよ」


 眠らないなら、真っ暗な部屋だなんて陰鬱なだけじゃないだろうか。そう思ったのに、彼は困ったように笑って頭を振った。


「いや、電気は消しておいて。俺、こういう暗い場所って、落ち着くから結構好きなんだ」


 私は電気のスイッチに伸ばしかけていた手を、慌てて引っ込めた。


「……星を、見ていたの?」


 私に気付いて、彼は慌ててカーテンを閉めたけれど、さっきまで彼は窓の外を眺めていた。もしかして、星が好きなのかな。


「うん。星を見ていると……、なんだか、落ち着くんだ」


 窓からでも星は見えるけど、周囲には家が多くて、あんまり綺麗じゃない。せめてもう少し高いところからならよく見えるけど……。


 ──あ、そうだ。ベランダからなら、ここよりはもっと綺麗に星が見えるんじゃないかな。


「ねえ、ベランダで星を見ない?」


 私の言葉に、彼は驚いたような表情を浮かべた。


「まだ一回も二階に上がったこと無かったよね? ベランダから見た方が、星が綺麗に見えると思うんだけど……どうかな?」


 彼は瞳を二、三度瞬いて、何故だか窺うように私を見ている。


「舞、眠らなくて大丈夫なの?」

「うーん……、目が冴えちゃって」


 嘘だった。多分、眠ろうと思えば、直ぐに眠れると思う。だけど……、今は、彼と星空を眺めてみたい、という気持ちの方が強かった。


「じゃあ、行ってみようかな」


 彼はふわり、と柔らかい微笑を浮かべると、パソコンデスクの上からぴょんと飛び降りた。


「うん」


 私は何だかほっとして頷いた。リビングを出て、二階に向かって歩き出した私の後ろを、彼がついてくる。何だかそれが凄く嬉しい。


「星、綺麗に見えるといいな」

「そうだね」


 振り返らなくても、その穏やかな声音から、彼が優しい笑顔を浮かべているのが分かった。


 二階に上がると、私はベランダに続く部屋に足を踏み入れた。お母さんが生前、使っていた部屋だ。ドレッサーや古いアイロン台など、お母さんが使っていた痕跡は沢山残っている。殆どがいらないものだけど、なかなか捨てることができずに、ずっと取ってあった。この部屋は、今はただの物置みたいになっている。

 ベランダに続く窓を開けて、後ろを振り返る。彼は部屋の入り口で立ち止まっていた。


「どうしたの? こっち、おいでよ」

「……うん」


 彼は一瞬困ったような笑顔を浮かべて、それからすぐに私の方へと駆け寄って来た。私はベランダに出ようとして、足元には一足のサンダルしかないことに気付く。


「あ、サンダル、一足しか無いんだった」


 しまった。これじゃあ、彼と一緒にベランダに出られない。


「玄関から靴取って来るね」


 私がそう言って振り返ると、彼は小さく頭を振った。


「いいよ、別に」


 いいよ、って、もう星は見なくても良いってことかな。折角一緒に星を見ようと思ったのに……。そう思ってがっかりしていると、ふいに体が宙に浮いた。びっくりしてはっと顔を動かすと、すぐ傍に彼の顔が有った。


「えっ!?」

「動くと落ちるよ」


 彼はなんてことないように、柔らかい笑みを向ける。


「これじゃ不安定だから、首に手を回してくれる?」


 その言葉で、私は漸く気がついた。

 ──わ、私、彼に抱き上げられているんだ! しかも、これは所謂、お姫様抱っこというやつだ。


「あ、あ、あ、あの、あの」

「舞、落ちるよ」


 その言葉に、慌てて彼の首にしがみ付く。彼はふっと笑った。


「サンダル借りるね」


 お父さんも履けるように大きめのゆったりしたサンダルを使っていたから、彼の足でも履けるとは思うけれど……、まさか、このままベランダに出るの? 戸惑う私をよそに、彼は私を抱き上げたままで、ベランダへと足を踏み出した。


 触れ合う部分が熱くなっていく。こんな風に抱き上げられたのなんて初めてで、どんどんと頬に熱が集まっていくのを感じる。何だか凄く、恥ずかしい。


「あ、あの、あの、下ろして?」

「下ろしたら足が汚れちゃうよ。──ほら、見てよ空。凄いね」


 話を逸らさないでよ、と言おうと思ったのに、つられるように空を見上げた私は一瞬我を忘れた。一階の窓とは違って、ベランダからは星がよく見える。今日は晴れていた所為もあってか、真っ暗な夜空に金色の星々が輝いているのが、とても綺麗に見えた。近所の家の屋根なんかも視界には入ってくるけれど、それでも、期待していた以上に綺麗な景色だ。


「あの星、凄く綺麗に輝いているね」


 一つ、一際大きな橙色に輝く星を見つけた。彼の首から左手だけを離して、空を指差す。彼は頷いた。


「ペテルギウスだね」


 ペテルギウス、というのが、星の名前なのかな。パソコンなのに──いや、パソコンだからかな、詳しいな。


「あの星、ペテルギウスっていうの?」


 私がそう問い掛けると、彼は驚いたように私を見下ろした。至近距離で見つめあうような形になって、それだけで一気に頬に熱が集まっていくのを感じる。そ、そういえば、私、まだ抱き上げられたまんまなんだった。呑気にも、星の綺麗さに意識を取られて、そんなこと忘れてしまっていた。私は慌てて、目線を逸らした。


「星の名前は、学校で習うんじゃないの?」


 彼は不思議そうだ。確かに、小学校だか中学校だかで、星の位置や名前について学んだような気がする。だけど、そんな昔のことなんて、もう全然覚えていない。


「習ったような気もするけど、忘れちゃった」


 ちらり、ともう一度彼に目を向けると、彼はまだ私を見下ろしていた。殊更に頬が熱くなっていくのを感じて、私は慌ててまた目線を逸らす。もう一度、星空を見上げた。

 抱き上げられているということを意識し始めると、どんどんと鼓動が早くなっていくのを感じる。恥ずかしくて何だか、そわそわしてしまう。


「ねえ、重くない?」


 私の問い掛けに、彼はううん、と否定を返す。


「全然。舞は、もう少しちゃんと食べた方がいいよ」


 明日の晩御飯は、何か体力のつくようなものにしようか。彼はそう言って、ふわりと笑う。

 なんでこんなに平然としていられるんだろう。こんな風に緊張しているのは、私だけなのかな。

 そう考えて、何だか胸が苦しくなる。


 触れ合う体が熱くて、ドキドキする。

 早く下ろして欲しい。

 なのに、下ろして欲しくない。ずっとこのままでいたい、とさえ思う。どこにも行かないで。このままずっと、私の傍にいてくれたらいいのに。

 下ろしたままになっていた左手が、気付けば彼のシャツの胸元を、ぎゅっと掴んでいた。


「──どうしたの?」


 不思議そうな目が向けられる。彼の焦げ茶色の瞳が、まるで心配するように、私の顔を覗き込んでいる。その瞳をじっと見つめていたら、どこにも行かないで、と口にしそうになって、私はすっと目を逸らした。

 そんなこと、言えない。

 言ってもどうしようもないし、彼を困らせるだけだ。


 彼から逸らすように空を見上げた視界に、きらりと光る流れ星が映る。


「あっ!」


 お願いします。彼とこの先も、ずっと一緒にいられますように……!

咄嗟にそう祈ったけれど、その頃にはもう流れ星は消えてしまっていた。彼はびくっと肩を揺らして、私の視線を辿る。私は彼を見上げて、笑った。


「流れ星、消えちゃった」


 私の願いは、届いただろうか。


「舞は、何を願ったの?」


 彼は、唇をきゅっと引き結んで、そう言った。

 あなたとずっと一緒にいられますように、ってお願いしたんだよ。心の中でだけ、そう返事する。

 口には出せない。

 彼を困らせるだけのものだと、分かりきっているからだ。


「秘密だよ。願い事は、口にすると叶わなくなっちゃうんだよ」


 私がそう言うと、彼はふっと笑った。


「なるほど。……そろそろ中に入ろうか」


 私を抱えたままで、彼が踵を返す。私は空を見上げた。当たり前だけど、もう流れ星の姿は、どこにも無かった。

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