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5th day:いつか覚める夢

 彼が人間の姿になって、早くも五日目の朝を迎えた。彼は出汁巻き卵とほうれん草のおひたし、それからお豆腐とわかめのお味噌汁を作ってくれて、私はそれらを炊き立ての白ご飯と一緒に味わってから、家を出た。


 料理が上手だなんて不思議なパソコンだなあと思うけれど、とてもありがたい。このまま彼の手料理に慣れてしまったら、レトルト食品なんて食べられなくなってしまいそうな気がする。

 もうお店でも開けばいいのにって思うくらい、彼の料理は絶品だった。


 仕事を終えて、朝彼に頼まれていた食材を購入してから、家へと帰る。家路を辿る足取りはとても軽い。誰かが待っていてくれるだけで、こんなにも違うんだなあ。玄関の扉を開けて、家の中が明るいと、なんだかほっとする。


「ただいま」


 玄関からそう声を掛けると、台所の方から姿を見せた彼が柔らかく笑んだ。


「おかえり」


 まるで陽だまりみたいな温かい笑顔で出迎えられると、凄く安心する。それと同時に、胸の奥がきゅうとするような不思議な感覚を覚える。今までに感じたことのない感覚だったけれど、私はその感覚が嫌いじゃなかった。





 その夜、私は湯船につかりながら、ぼんやりと彼のことを考えていた。

 彼、というのは勿論、パソコンのことだ。彼は凄く格好良くて、少し意地悪だけど優しくて、私を甘やかしてくれる。なんだかここ数日で、自分がすっかり駄目な人間になってしまったような気がする。


 しばしば忘れがちだけど、彼はパソコンなんだよね。人間じゃなくて、電子機器。どうして彼は人の姿になったのかな。いつから人型をとれるようになったんだろう。そう思ったとき、私はふいに彼が初日に言っていた言葉を思い出した。



"俺はもうすぐ壊れるから、新しいパソコンを買った方がいい──"



 その瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てた。

 そう、だ。

 すっかり忘れてしまっていたけれど、彼は、最初にそう言っていた。


 だけど、それって、いつなんだろう?


 彼と過ごす毎日が心地良くて、勘違いしていた自分に気付く。いつの間にか、このままずっと一緒にいられたらいいのに、って思い始めていた。テレビを見ているとき、ふと隣を見れば彼がいて、一緒に笑ったり、彼の作ってくれたご飯を食べたり、二人で他愛もない話をしたり──。たった数日しか一緒に過ごしていないのに、もう彼のいる生活が当たり前のようになり始めていたことに気付く。

 だけどこの生活は、いつまでも続くものじゃない。


 夢はいつか、覚めるんだ。


 私は湯船からザバッと立ち上がった。そうだ、何を勘違いしていたんだろう……。


 頭がすうっと冷えた状態で、湯船から上がろうと足を掛けたとき、視界の隅を黒い何かが横切った。私は湯船に足を掛けたままで、恐る恐る首を右に動かした。すぐ傍の壁を、黒光りするあいつがそそくさと駆け抜けて行く。



 ──その瞬間、頭が真っ白になった。



「ぎやああああああああああああ!!」


 私はうら若き乙女のものとは思えないような奇声を発しながら、湯船を勢い良く飛び出した。そのまま乱暴に浴室の扉を開けて慌てて飛び出したところで、駆け寄って来る足音に気付く。


「どうした!?」


 リビングの方から現れた彼が、驚いたような表情で私を見ている。私は自分がびしょ濡れだということも忘れて、咄嗟に彼に駆け寄った。


「で、ででででで、でた! 出たの! あいつが出たの……! あいつが!!!」


 パニックになった私は、足拭きマットに足を取られて思いっきり体制を崩した。


「わぁっ」


 前のめりにこけそうになって、思わずぎゅっと目を瞑る。けれど、すぐに何かに受け止められた。


「だ、大丈夫……?」


 すぐ傍から聞こえた声に、私は彼が抱きとめてくれたのだということに気付く。彼は私の背中に腕を回して、しっかりと受け止めてくれたけれど、なんだかその腕がぎこちない。

 だけど私は、それどころじゃなかった。


「大丈夫じゃない! ど、どうしよう。お風呂場に、あいつが、あいつがいたの!!」


 私は縋りつくように彼を見上げた。思えば、お父さんが亡くなってから、この家で奴を見たのは初めてだ。今まで、一度も自分で退治したことが無かったことに気付く。

 退治して貰えないだろうか──そんな期待を持って見上げたのに、彼は何故だか不自然な方向に目線を逸らしていた。


「あ、あのね、あの」

「わ、分かった。大丈夫、ゴ●ブリは退治するから」


 彼は私の言葉に被せるように口早に言った。


「いやああ! その名前を出さないで!」


 私が思わず耳を塞ぐと、彼は私の背中からぱっと手を離した。相変わらず、目線はどこか明後日の方向を見つめている。


「と、とりあえず、舞は早くパジャマを着て! お願いだから!」


 その言葉に、私ははっと我に返って、自分の姿を見下ろした。そこで漸く、自分が全裸のままで彼に抱きつくような体制になっていることに気付く。


「ぎゃあああああああああ!」


 私は再び大きな声を上げると、両腕で体を覆いながら、慌てて彼の傍を離れた。脱衣所においてあったバスタオルとパジャマを引っつかみ、慌ててリビングの方へと駆け出す。し、信じられない! 信じられない! どうしよう! ぜ、全部見られた! 全部見られた……!!




 冷静になるにつれて恥ずかしさがこみ上げて、私はパジャマ姿で頭にバスタオルを被せたまま、抱えた膝に顔を押し付けて打ちひしがれていた。穴があったら入りたい。いっそ埋まってしまいたい。お風呂から素っ裸で飛び出した挙げ句、事故とはいえ、そのまま彼に抱きついてしまうなんて……!

 見られたことも恥ずかしいけれど、抱きついてしまったことも恥ずかしくてたまらない。彼は一見細身なのに、受け止めてくれた身体はびくともしなかったな、とか、変なことばかり思い出す。

 ああ、記憶を抹消したい。というか、彼の記憶を抹消して欲しい。恥ずかしすぎて、もう顔を合わせられない……!


 そんな私の葛藤をよそに、幾許も経たない内に、彼はリビングへと戻って来た。足音でそのことには気付いていたのに、私はリビングの扉が開いても、顔を上げられずにいた。


「おまたせ」


 彼が隣に座る気配がする。


「ゴ……あいつはもういないから、大丈夫だよ」


 そう言って、安心させようと笑ってくれているようだったけれど、私は恥ずかしくて彼と目を合わせられない。膝に顔を押し付けたままで、小さな声で言った。


「あ、あ、ありが、とう……」

「お風呂も流しといたけど、良かったよね?」


 ついでに風呂掃除もしといたよ、と、彼は優しい声音でそう言った。パ、パソコンに虫退治させるどころか、風呂掃除までさせてしまうなんて……。俯いたまま項垂れていた私は、そこで重大な事実に気付く。


「だ、大丈夫だった!?」


 勢い良く顔を上げると、彼は驚いたように私を見つめた。


「な、何が?」

「水が入って、ショートしたりしてない!?」


 私はその勢いのままに、彼の手を掴んで持ち上げた。見た感じは、人間の手と同じに見えるし、水が入りそうな隙間もあるようには見えない。だけど、それでも彼はパソコンという繊細な電子機器なのだ。少量でも水が入ろうものならひとたまりもないだろう。

 目を丸くして私の動向を見ていた彼は、目を細めてふっと笑った。


「大丈夫だって、何度も言ってるだろ。舞って、心配性だよね」


 彼は、私の手を優しい手つきで撫でた。びっくりしてぱっと手を引くと、彼は尚おかしそうに笑う。


「ごめんね」


 彼はそう言って、私の頭を拭き始めた。その優しい手つきにももうすっかり慣れてしまって、私はされるがままだ。


「何が?」

「……怖かったろう」


 怖かったって、虫を見て、ってこと? 彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「変なの、あなたが謝ることじゃないのに」

「……そっか、そうだよね」


 彼は曖昧に笑ってそう言った。結局その夜はまた、私は彼に髪の毛を乾かしてもらったのだった。

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