4th day:偽物の感情
翌朝、目が覚めた後、私は着替えて、髪型を整えてから台所へ向かった。彼は今朝も台所に立っていた。
「ああ、舞。おはよう」
私の姿を認めた彼は、ふわり、といつものように柔らかい笑みを浮かべた。
「おはよう。いい匂いだね」
私は彼の隣に立って、フライパンの中を覗き込む。甘くて良い匂いに混ざって、ハムのおいしそうな匂いが漂ってくる。フレンチトーストかと思ったけれど、ハムが挟んであるってことは、違うのかな。
「これ、何?」
「それは出来てからのお楽しみかな。顔を洗っておいで」
「はーい」
私は素直に返事をして、洗面所へ向かった。朝から早起きして、ご飯を作っていてくれる彼。なんだか親子みたいだなあ、と少し笑えた。だけど、とても幸せな朝だと思う。
顔を洗って台所へ戻ると、トーストはお皿の上に準備されていた。隣には、クルトンの載ったサラダが置いてある。
「このトースト、おいしそう」
焼けたハムとチーズの匂いが食欲をそそる。私はいただきます、と手を合わせた。彼は私の目の前にコーヒーを置くと、向かいの席に着いた。
私はトーストをナイフで切り、フォークで口に運ぶ。
「どう?」
「おいしい~~~~!」
卵と牛乳に浸したような感じもあって、フレンチトーストっぽさもあるのだけれど、ハムとチーズが挟んであるから、フレンチトーストとは全く違った味わいだ。これはこれで、凄くおいしい。というか、初めて食べたけれど、私はフレンチトーストよりこっちの方が好きかもしれない。
「良かった」
目の前でふわりと柔らかく笑う彼に、私は満面の笑みを返した。
「もうすっごくおいしいよ。ふわふわだしカリカリだしとろとろ!」
自分でも意味の分からない感想だったけれど、彼はにこにこしながら聞いてくれている。
「でもこれ、いったい何? 初めて食べた」
「モンテクリスト・サンドイッチって言うんだって。レシピを見かけて、作ってみたいなって思って」
彼は笑顔を浮かべたまま、頬杖をついて私を見る。
「私、これ凄く好き」
少しずつじっくりと味わっていると、彼は小さく笑った。
「じゃあ、後で作り方教えてあげるね」
「え?」
あ、そうか。確かにレシピは聞いておきたい。だけど、何故だか彼の言葉に距離感を感じた。
妙な反抗心のようなものが持ち上がってきて、私は首を左右に振った。
「ううん、レシピはいらない。また作ってよ」
彼は一瞬ふいをつかれたように目を丸くしていたけれど、ややして、困ったような表情で笑った。
「……わかった。また、作るよ」
どうしてかは分からないけれど、私はその言葉にひどく安堵したのだった。
*
その日、お風呂から上がると、彼は今日も私の髪の毛を乾かしたいと言い出した。だけど、毎日髪を乾かしてもらうことが習慣化するのがなんとなく恥ずかしくて、私は自分で乾かしたい、と言った。
「どうしても駄目?」
彼が捨てられた子犬のような目で私を見てくるので、若干のいたたまれなさを覚えながらも、私はしっかりと首を縦に振った。
「ごめんね、自分で乾かしたい」
「……分かった」
気落ちした様子で頷く彼に、何だか申し訳ない気持ちになりながら、私は洗面所へ髪を乾かしに行った。
ドライヤーのスイッチを入れて、温風を髪に当てながら、小さくため息を吐く。
本当のことを言えば、彼に髪の毛を乾かしてもらうのは、嫌いじゃない。優しい手つきで髪を撫でられるのは、とても心地良い。だけど、ひどくドキドキする。
そんなのが毎晩続いたら、心臓が持たないと思った。
髪を乾かしてから戻ると、彼は一人でテレビを見ていた。DVDの入っている棚にもたれるようにして、片脚を伸ばして、もう片方の膝を立てて座っている。テレビ画面には、今をときめく人気女優の姿が映っている。
「ああ! しまったー! ドラマ、始まっちゃってる!」
はっと時計を見ると、十時を五分まわっていた。毎週楽しみに見ているドラマの時間だということをすっかり忘れていた。
「一応録画しといたよ。頭から再生する?」
彼はリモコンを片手に、私を見上げて小首を傾げた。まだ五分しか経っていないけれど、折角録画してくれたのならやっぱり最初から見たい。
「あ、う、うん。いいかな?」
「ん、いいよ」
彼はそう言って、リモコンを操作し始める。私は彼の隣に腰を下ろした。二人で並んで、ドラマを鑑賞する。
「このドラマ今日で九話目だけど、ストーリー分かる?」
彼の横顔を見上げて問い掛けると、彼は小さく頷いた。
「毎週舞が見てたの知ってるから、大丈夫」
ああ、そっか。……そういえば、私が見ていたテレビ番組は全部一緒に見ていたって、言っていたっけ。
「もっと早く、人の姿になってくれたら良かったのに」
私の言葉に、彼は弾かれたように私を見下ろした。
「え?」
その焦げ茶色の瞳は、どうしてだか戸惑うように揺れている。
「そうしたら、色んなことを一緒に出来たのに」
こんな風に一緒にドラマを見たり、楽しく話をすることが出来たはずだ。そんな私の言葉に、彼は困ったように笑った。
「ずっと人型でいられる訳じゃないんだ。俺は……」
彼は言いかけた言葉をそこで切ると、はっとしたような表情を浮かべた後、目を瞑って緩々と頭を振った。
「俺は、何?」
「……いや、なんでもないんだ。気にしないで」
彼はそれきり、目線をテレビに向けたまま黙り込んだ。
何を言いかけたのか凄く気になったけれど、彼の横顔がそれ以上追及することを拒否していたので、私は仕方なく、黙ってテレビの方へと向き直ったのだった。
私と彼は、暫く黙ってドラマを見ていた。そのドラマは、現実主義者でどこか冷めたところのある男性主人公が、アンドロイドの女性と恋に落ちるという物語だ。主人公は、彼女がアンドロイドであると知りながらも、その優しさに惹かれていく。けれど、自分の感情を認めたくないと思っていた。彼女のその優しさはインプットされたもので、彼女はただの機械だ──そう思い込もうとしていたのだ。
それなのにある晩、彼女が夜道で暴漢に襲われそうになっているところを見かけた主人公は、咄嗟に彼女を助けに入る。
『私は、機械ですよ。助けなくて良かったのに』
傷だらけの姿で、彼女は困ったように笑う。主人公は、彼女をきつく抱き締めた。
『馬鹿なことを言うな……! お前には、ちゃんと心がある。お前は、機械なんかじゃない。──怖かっただろう。ごめんな、遅くなって、ごめん……っ』
主人公の、掠れた優しい声に、彼女ははらはらと涙を零す。感情なんてインプットされていなかったはずの彼女が、流すはずの無い涙をぽろぽろと零している。
「う、っ……うぅ……」
あれだけかたくなに、アンドロイドだ、お前は機械だと言っていた主人公が今、初めて彼女を抱き締めている。私は溢れてくる涙を乱暴に手の甲で拭い、手を伸ばしてティッシュを探した。目はテレビに釘付けのまま、手だけを動かしてティッシュの箱を探す。
「はい」
苦笑しているような声と共に、手にティッシュペーパーが握らされた。私ははっと現実に立ち返り、隣を見上げた。彼は苦笑いを浮かべて私を見下ろしていた。
「すっごい顔」
「だ、だって……」
私は握らされたティッシュで鼻をかみ、それをゴミ箱に投げ入れると、またテレビに目線を戻した。だけど、あれだけドラマに集中していた気持ちがすっかり飛んでしまって、上の空になっていることに気付く。
『俺……お前が、好きだよ』
テレビの中では、主人公が、抱き締めたままの女性に向かってそう囁く。女性は、大きな瞳を目いっぱいに見開いた。
『わ、たし、人間じゃない』
『知ってるよ、んなこと。……で、お前は?』
主人公は、身体を離すと、彼女の顔をぐっと覗き込む。
『お前も俺のこと好きだろ?』
女性は顔を真っ赤にしながら、小さく、こくん、と頷いた。その様子を見て頬を緩めた主人公は、そっと顔を彼女に近づけていく──。
二人の影が重なり合い、私は思わず、ごくりとつばを飲んだ。
何だか急に、居た堪れなくなる。
彼と二人きりでこんな恋愛ドラマを見ていることが、急に恥ずかしくてたまらなくなった。だけど、いきなり立ち上がるのも不自然だ。再生を止めるのも、一緒に見ている彼に悪い。彼は、どんな気持ちでこんなシーンを見ているんだろう……。さりげなく目線を動かしてそっと彼を見上げると、彼はテレビではなく私を見下ろしていた。それも、微かに笑みを浮かべて、じっと私を見つめていたのだ。
私はびっくりして、慌てて目線を逸らした。
「て、テレビ、見てる?」
ごまかすようにそう口にして、テレビに目線を戻す。テレビ画面の中では、二人が熱いキスを交わしていた。
な、なんてタイミングで問い掛けるんだ、私……。
「……うん。見てるよ。凄いね」
彼のその声には何の感情も見られない。
そりゃあ、そうか。彼は電子機器なんだし、何も気まずい気持ちになったりなんてするはずが無い。そうは思ったけれど、私は何故だかさらに居た堪れない気持ちになったのだった。
なんとか気まずいドラマタイムを終えて、テレビ画面をバラエティ番組に変える。彼は感情の読めない表情で、ぼんやりとテレビを見つめていた。
「す、凄く、良かったね、良かった。このまま、ハッピーエンドになりそうだね」
私は鼻をかみながらそう言った。正直、主人公がアンドロイドへの恋心を認めないまま、バッドエンドになるのではないかと不安だったのだ。
「……ねえ、舞は、どこを見て泣いてたの?」
彼は、ぼんやりとした目でテレビを見ながら言った。
「え?」
どこを見て泣いてたの、って、どういう意味だろう。
「現実主義者だった男が機械への愛を認めたところ? それとも、感情なんてあるはずもない機械が涙を流したところ? それとも、機械と人間が両思いになった場面?」
彼は口早にそう言った。そんな風に捲くし立てるような響きで問われたのは初めてで、私は戸惑いながらも口を開いた。
「ぜ……、全部だよ。二人の間には沢山の障害が有ったのに、それを全部乗り越えて二人が結ばれるってことは、まるで奇跡みたいだと思わない?」
思い出したらまた涙が滲んできて、ティッシュで目元を拭う私を、彼は不思議そうな表情で見つめていた。
「舞は、人間がアンドロイドを好きになることってあると思う?」
「え?」
人間が、アンドロイドを好きになる?
「今、現実にはそこまで精巧なアンドロイドは存在していないけど……もし、人と寸分たがわぬ見た目で、自我を持ち、感情を持つアンドロイドが存在したとして、舞はそれを好きになれると思う?」
なんでそんなことを聞くんだろう……。人間そっくりのアンドロイドなんて実際にはいないのだし、私はそもそも人を好きになったこと自体が無いから、よく分からない。
だけど、彼の真剣な目を見つめ返していると、わからない、といういい加減な答えではいけないような気がした。
「その相手によるんじゃないかな……。アンドロイドとか、人間とかじゃなくて、性格とか、波長みたいなものが合ったら好きになれるんじゃないかな?」
私の答えに、彼は驚いたように目を見開いた。
「相手による……?」
「うん。だって、人間は沢山いるけど、その中の誰と恋に落ちるかどうかはわかんないよね? もし世の中に、人間そっくりなアンドロイドがいたとしたら……好きになった相手がアンドロイドだった、ていうことも、ありえるかもしれないよ?」
実際にはそんなに精巧なアンドロイドは存在していない訳で、存在しない相手を好きになれるか、だなんて机上の空論でしかないけれど、私は、好きになることは無い、とは言い切れない気がした。
あのドラマのように、人の心を持ったアンドロイドであれば、あるいは好きになることもあるかもしれない。
「あなたは?」
そんなことを訊くということは、何か思うところがあったということだろうか。彼は、人間がアンドロイドを好きになることは、ありえると思っているのかな。なんとなく問い返して彼を見上げると、彼はぽかん、としたように私を見下ろしていた。
「俺がどう思うかってこと?」
唖然としたようなその表情を見てやっと、彼自身が人ではないということを思い出す。
「ご、ごめん。変なこと聞いたね」
彼は微苦笑を浮かべた。
「そうだね。俺自身、人間じゃないし……。そもそも誰かを好きになるということ自体がないから、何とも言えないな」
彼は他愛も無い話のように、こともなげに言った。
──そっか。彼は人間じゃないから、人を好きになるということが無いんだ。
考えたら、当たり前だ。彼は、電子機器なのだから。そんなこと、驚くことじゃないはずなのに、何故だか胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
「でも、あなたには感情がある……よね」
私がクッションをあげた時、嬉しそうに笑ってくれた。私がご飯を食べている姿を見るのが好きだと、そう言ってくれた。怖がりな私を洗面所に誘導して、優しい手つきで髪を乾かしてくれた。
「そんなの、ある振りをしているだけだよ」
彼はふっと笑った。
「本当は……今も、よく分からないんだ。人間のことなんて」
彼は、テレビの音にかき消されるそうなほど小さな声で、ぽつりと言った。
私は彼と別れて、自分の部屋のベッドに入った後も、ずっと彼の言った言葉の意味を考えていた。
彼は、どうして人間がアンドロイドを好きになることがありうるか、だなんて訊いたんだろう。
彼は、感情がある振りをしているだけだと言った。だけど、私はそうは思わない。彼の優しさや、時折見せる寂しそうな表情は、作り物とは思えない。
「誰かを好きになるということ自体が無い、か……」
彼の言葉を思い出し、ちくりと痛んだ胸に手を当てる。
どうして。どうして、胸が痛くなるんだろう。彼が人を好きになろうがなるまいが、私には関係ないはずなのに……。
それなのに。
私は、彼に人を好きになることがあると言ってもらいたかったの? もし、彼が人間の女の子を好きになれる、と言ったら、私はそれで満足したんだろうか。
……ううん。きっと、その方がショックだったと思う。彼に、好きな女の子がいるだなんて聞かされたら、とても悲しかったと思う。
どうしてだろう。
彼が誰かを好きになったとしても、私には関係ないのに……。
もしかしたら、結ばれることがないからかな。そう考えて、私は寝返りを打った。
もしも彼に好きな女の子がいたとしても、彼は電子機器で、パソコンで──。その恋が報われることなんてない。
だからかな。
きっとそうだ。彼が報われることの無い恋をするなんて悲しいことだから、だからショックだったんだ。
きっとそうだ……。
私は自分にそう言い聞かせるように、ぎゅっと目を瞑った。