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その放課後、私はグラウンドにいた。
授業が終わったら即ここへ来た。サッカー部の練習が始まる前に一勝負をするためだ。野次馬は少ない方がよろしい。他の部活も練習を開始するまでだ。
ブレザーは脱いで、スカートの下には体育の授業で使うハーフパンツを履き、足にはスニーカー。運動しやすい恰好である。対する水城先輩も、ブレザーを脱いだだけの恰好。
「……別に構いはしませんけれど。私は体育着とかに着替えるのが面倒臭かっただけで、なにも私に合わせなくてもいいんですよ」
「男が有利になるわけにはいかない」
有利も不利もなにも。これから弱みに付け込んで勝ちにいくつもりなのだから、そのぐらいのハンデはあっても問題ない。
ゴール前には、ディフェンダーである水城先輩が一人のみ。
「ルールは、ゴールに入れたら私の勝ちで、ボールを奪われたらその時点で水城先輩の勝ちでいいですね」
一応取り決めておいたが、改めて確認しておく。こちらが勝つには、とにかく水城先輩を抜く必要がある。サッカーを現役でやっていた私は、そこまでシュート力のある選手ではなかった。相手の陣地まで一人で深くまで切り込むことこそを得意としていた。
「うん」
「では、キックオフ」
センターサークルから、試合は開始した。
――ああは言ったはいえ、ふむ。
ボールに触るのは、実に久しぶりだった。
中学校に上がる前まではやっていたから、約四年ぶり。ブランクはある。純粋な身体能力は上がっただろうけれど、技術は大分錆びついているだろう。どこまで身体が覚えているか。正直、私は勝つことを前提にここまで話を進めてきたが、せめて必要最低限の技術を発揮できないと、勝てる気がしない。
試しにボールにスピンをかけ、上に蹴りあげる。ぽんぽんと、足だけでリフティング。最初は五回で落としたが、次には十回を超えた。よし、感覚を掴んだ。
私がリフティングをして昔の感覚を取り戻している間、水城先輩は律義なことに、開始の位置から移動しない。カウンターを警戒しているのか。私を強襲すれば、簡単に奪えるというのに。罠を仕掛けているつもりなんてない。本当に、今なら勝つチャンス。……見蕩れてる、なんてことはないだろうな。
多少の猶予を与えられているので、脚は動かしたまま、細かい作戦を頭の中で練る。はたして、この作戦でいけるのだろうか。所詮は一度きりの奇襲。失敗したら後はない。付け込むとしたら、対戦相手である私が、経験者とはいえ女だという油断。
そう都合よく、引っかかってくれるだろうか。
大体、何年もサッカーを遠ざかっていた私だ。この年頃の男が、どれほど女と身体能力に差があるのかなんて知らない。せいぜい百メートル走の記録を見て、随分差が付けられているな、ぐらいな感想しかない。ましてや、中学生以上の男と本気のサッカーで戦ったことなんてない。一体、ピッチに立てばどれほど機敏な動きを見せるのか。私には未知数。
もしも力任せにタックルをしてきたら。水城先輩は百九十センチ台。男でも大きい。逆に私は、今年でなんとか百四十センチ台とはおさらばした、といった程度の伸び具合。平均を大きすぎるほど下回っている。風に流される紙のように吹き飛ぶだろう。じりじりとしたプレッシャーを与え続けられない分、猪突猛進に突っ込んできてもらった方が逆に気が楽なぐらいだ。
……しかし、いつだってイレギュラーは発生するもの。なるようになれ、か。
リフティングが二百十回を超えたところで、私はボールを取りこぼした。てんてんと転がる前に、足の裏でしっかりと止める。こんなことでボールを奪われたら笑い話にもならない。自己ベストが千四百五十三回だったから、完璧とは言い難いが、これだけできれば十分。やってみれば、案外いけるもの。
これなら、いける。
私はドリブルを開始した。
水城先輩は正面から接近。こうして直接向かってこられると、まるで壁が迫ってきているようだ。どこへ抜ければいい。一瞬迷う。しかし私は基本を忘れているわけではない。すぐに頭を切り替える。
水城先輩との距離が縮まった。私の向かって右側にいる。確認してから右足をボール上に上げる。右の足裏でボールの上部に触れる。ボールを軸として、ボールを隠すようにして身体の向きを変える。水城先輩も牽制してくるが、この距離ならその長い脚だって届かない。水城先輩に対して横向きになるまで回転をし、足を切り替えて左足でボールにタッチする。そのままキープ。後方から回り込んでくる水城先輩。しかし私も背中をカーテンとし、なんとしてもボールを守る。
よし、これで水城先輩をいなした。
あとは全力で走る。
わずかな間で抜かれたことに水城先輩は驚きの顔をするがもう遅い。素の速さで勝てるはずもないが、その一瞬は命取り。すでに私はゴール前。キーパーはいない。はずす要素はない。シュート。ゴールネットを揺らす、白と黒の、思っている以上に弱々しい弾丸。
いけた。まだいけた。
「言ったでしょう? 一度でいいなら勝てますよって」
「――――」
棒立ち。いや、水城先輩の高い身長からすれば、木立ちとでも言った方が、呆然と突っ立っているだけの様子が伝わるだろうか。
「この調子なら、一度だけじゃなくても勝てそうですけれど」
少なくとも、弱点に知覚しないうちは私には勝てない。私にとって水城先輩は相性が良すぎる相手だ。
「……もう一回。もう一回、やってくれ」
「次からは、私が勝つたびにジュース一本を掛けにしますよ。もちろん、私が負けても、何も無しで。そうしないと、公平じゃありませんから」
この時の私は、頭に血が上っていることに気が付いていなかったのだ。
勝ったのだから、すぐに荷物を纏めて帰ってしまえばよかった。あれだけ嫌いだ嫌いだと公言していたのだから、誰も文句は言わない。
そのはずなのに、ごく自然に、私は次の一戦の準備をし始めた。
それは、私の奥深くに眠っている、まだサッカーに残っていた愛情が起こしたことだったのだろうか。