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私の手元には、一冊の小説が持たされてある。これは水城先輩が買ってくれた小説だ。
水城先輩はデートコースとして、書店巡りを選んだ。私を喜ばせるという意味では功を成したが、如何せん、水城先輩は本を読まない類の人種。私が小説コーナーにずぶずぶと浸かっている時は、酷く退屈そうだった。それでもなんとか私の評価を上げたいのか、何か欲しい本があったら買ってあげると提案してきたのだった。小説を読んでいる時の私はスイッチが切り替わり、性格が変わるみたいなので、気が付いた時には水城先輩とレジに並んでいた。
そんなこんなで、もう十二月となった今では、小学生の門限程度の時刻でさえ日が暮れかかってしまう。ちょうどいい区切りだからと、私たちは今日はこれで終了することに決めたのであった。
冬というと雪などのイメージで暗く思われがちだが、太陽輝く季節である夏よりも、ずっと晴れの日が多い。空気も澄んでいる。太陽が鋭角に光を地球へ突き刺す。そのせいか夕焼けがやけにまぶしい。部活をしている時は部員の面倒を見たり自分が身体を動かしていたりで空を見ることなんてしない。環境問題がやれなんだと騒がれているが、この赤い熱球が輝き続ける限り、そんなものは本当に些細なことなのではないかと思ってしまう。こんな綺麗なものが存在しているこの地球上が、人間というたった一つの生物によって病んでいるとは、到底信じられるものではない。
「…………?」
私が水城先輩より二歩ほど遅れて歩いていると、水城先輩がぴたりと立ち止まった。見上げてみると、顔が横に向いていた。その視線の先を追いかけると、小さな公園に行きあたる。特別変わった公園ではない。どこの町にもある、ごく普通の公園だ。強いて言えば、遊具が少ない。子供が怪我をするとかで、近頃の公園はブランコや滑り台は、あればいい方。下手をすると、なくて当たり前になってしまった。子供の頃の私なら、逆にこの社会的状況に歓喜でもするだろうか。ドリブルできる場所が広くなった、みたいな理由で。
「悪い。ちょっと懐かしくて」
「あー、なんとなく分かります」
「何が?」
「小さい頃、この公園でサッカーの練習をしたとか、そんな感じでしょう」
「よく、分かるな」
「私もそういう頃はあったんですから。当時は純粋なサッカー少女でしたけれど」
「……あ、ボールだ」
私の話を最後まで聞かず、水城先輩は公園へ向けて突然走り出した。……ボール? 目を凝らしてよく見てみると、公園の中心にはパンダ様の球体が一人さびしく取り残されていた。
私が追いつくと、水城先輩はボールをよく観察していた。
「名前が書いてないか、見てるんだ」
私が「どうしたんですか」と聴くと、そう返事してきた。
「小学生って、ほら、持ち物に、名前書いたり、するだろ?」
そういえばそんなこともあったような気が。本当は嫌なのに、母が勝手に名前を書いちゃう、みたいな。上履きの後ろとか。
空気を入れる穴の近くに、『くらもち ゆうた』と小さく書かれていた。
「ボールを忘れるって、どんな状況なんですかねえ」
決して安い物ではないから、紛失したら大変だろうに。
「でも、使い込まれてる。それに、手入れされてる」
なにがでもなのか私には分からないが、確かにこのボールはよく手入れされている。至る所に傷はあるが、ボール自体が傷んでいるわけではない。ちゃんと雑巾でからぶきしたり、日陰で干したりしないと、ボールなんて消耗品、すぐボロボロになってしまうのに。
「ふぅん……さすがに空気は抜いていないようですけれど」
私は水城先輩からボールを取って、両手でボールを挟む。かなりの弾力。
この公園で遊んでいる最中、どんな理由があってか、これを忘れる状況が生まれてしまったというところか。
「公園で練習でもしているんでしょうかね。私はよく夜に公園でリフティングの練習をしたものでしたけれど」
「俺もそうだった」
そうだろうな、と思う。一人黙々とボールを蹴る姿が、どこかお似合いだ。
「子供の頃の水城先輩ってどれくらいリフティングできました? 私の周りでは私が一番リフティングができたもので、あまり他の男の子がどれくらいできるか知らないんですよ」
現在の水城先輩は、二百回くらいは続けることはできる。ちなみに感覚を取り戻せてきた私は、現在最高二百五十回といったところ。まだ私の方がリードしている。
「何歳ぐらいの?」
「私は十二歳までサッカーをしていたので、そのぐらいで」
「……二十回」
「それだけ?」
「恥かしながら」
「恥じることではありませんよ」
むしろ、それしかできなかったのに今ではできる辺り、しっかり練習してきたのだなと好感がもてる。
「昔、リフティングって、なんのためにするのか、分からなかった。そんなことすんなら、シュートの練習とかしてた方がいいって、思ってた」
「子供に有り勝ちですよねそれ」
芸は身を助ける……とはまた違うけれど、リフティングは芸などではなく、十分有用なテクニックだ。ようは、全身でボールを扱えることが重要なのである。頭、胸、足、踵、腿、その他全て……。高く打ちあがったボールを、脚でしか扱えない選手と、胸でちゃんと受け止められる選手がかち合ったららどうなるか。当然、胸を使える選手に分がある。相手よりも早くボールに触れることが可能となるからだ。
「川西は、リフティングが大切だって、分かってたのか?」
「昔の私の武器は、一人で陣地に切り込む突破力でしたから。小手先だけのテクニックでも、相手を翻弄できるならば、とにかくなんでも試してみました。尤も、当時は同い年の中では背が大きい方でしたから、背が低いことを武器にしてる今とは大分状況が違いますけれどね」
「……凄いな」
「むしろ私としては、リフティングなんて必要ないと思っていた子供が、どうして必要だって気づいたのか興味ありますね」
菜瀧高校サッカー部では、未だにリフティングを軽視している人だっているというのに、小学生の時点で知ったのは、かなり早いのではないだろうか。
「俺は……その、師匠に教わったから」
「師匠?」
先生とかコーチとか先輩ならまだしも、サッカーとはまるで結びつかない単語の師匠と聴いては、私は首をかしげるしかない。
「俺に、サッカーの面白さを思い出させてくれた、師匠」
「私にとっての水城先輩みたいですね」
「そう、かな?」
水城先輩は私の言葉でとても喜んでいる様子。目がきらきらとしている。
「俺、師匠みたいに、なれてるのかな」
自らの手を眺めながら、不安そうな声で言う。
「強い憧れだったんですね」
「うん。凄い人だった。教えるのとか、すごく上手かった。結局、一週間ぐらいしか会えなかったけど」
「一週間?」
「その人、死んじゃったから」
あ……。余計なことに踏み込んでしまった、と思う。
身内に亡くなった者を抱えている私は、人の死へ触れることを憶病になっている。どう反応すればよいのか分からない。自分がこうだから他人もこう、という訳にもいかない。
「気にしないで。もう、何年も前の話だから」
どうしようもないので、私はその言葉を鵜呑みにした。
「当時、俺、試合とかで全く活躍できなくて、もうサッカーをやめようかと思ってた。そんな時、師匠と会った。サッカーの技術も教わったけど、心も教わった。楽しければそれでいいとか、相手が強ければそれだけ面白いとか。それで俺、またサッカーをするようになった」
「へえ」
もし人が生き返るとするならば、その人と会ってみたいな。
――そんな方法があればどんなにいいことか。少なくとも、あの人さえ死ななければ、私がこんな性格になることはなかったのに。




