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第8話 大家さんは恐ろしい

     1



 ピンポーン。

 チャイムの音が鳴る。


「は~い」


 玄関のドアを開けてみると、そこに立っていたのは、ふくよかな感じのおばさんだった。

 このアパートの大家さんだ。


「あれ? 大家さん。どうしたんですか? 家賃はちゃんと支払ってますよね?」

「抜き打ちチェックだよ! ちょっくら上がらせてもらって、隅々まで確認させてもらうからね!」


 言うが早いか、大家さんは玄関のドアを大きく押し開け、靴を脱いで上がり込もうとしてきた。


「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってください大家さん!」


 オレは慌てて大家さんの肩を押さえ、必死に抵抗する。

 いくらなんでも、抜き打ちチェックはヤバい。そう考えたからだ。


「ダーリン、どうしたの~? あれ、大家さんだ~!」


 ぽよ美が部屋から出てくる。

 一瞬、ヤバ……とも思ったが、ぽよ美はしっかり人間の姿に変身していた。

 慌てて変身したためか、Tシャツに短パンという格好ではあったが、これならとくに問題はないだろう。

 とりあえず、最悪の状況だけは免れたと言える。


 オレが懸念しているのはもちろん、ぽよ美がスライムだとバレてしまうことだ。

 そんなことが知られたら、間違いなく追い出されてしまう。


「これから部屋を見させてもらって、あまりに汚く使っているようなら出ていってもらうからね!」


 ぽよ美が出てきたことで力が弱まってしまっていたのか、押し留めていたはずのオレの腕をすり抜け、大家さんの大柄な体は廊下にまで侵入してきていた。

 ……いや、大家さんなのだから、侵入者扱いするのは悪いかもしれないが。


「大家さん、抜き打ちチェックなんて、さすがにひどいですよ!」


 せめて事前に連絡してくれていれば、部屋中に付着しているぽよ美の粘液くらいは処理しておけたというのに。

 そんな意味合いを暗に含めて、オレは文句をぶつける。


「なにを言ってるんだい。準備する時間があったら、おかしなことに使っていないか確認できないじゃないか。これは大家としての義務なんだよ!」

「で、ですが……」


 なおも反論を返そうとするが、勢いは確実に弱まっていた。

 確かに大家さんの言っていることはわからなくもない。


 もし仮に犯罪のために部屋が使われている、ということになったら、大家さんの管理責任が問われる可能性も、充分にありえるだろう。

 とくに、オレや隣の低橋さん夫妻なんかは、少々普通とは異なった状況でもある。

 部屋を貸している大家さんとしては、非常に気になるというのも、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。


 とはいえ、これは明らかに不法侵入に当たる。

 たとえ大家という身分であっても、入居者の同意を得ることなく勝手に上がり込むのは、それこそ犯罪行為に他ならない。

 だいたい大家と借主とでは、借主の権利のほうが優先されるはずだ。


「あのっ! 使い方が汚かったら出ていけだなんて、いくらなんでも横暴ですよ! 住人のほうが権利は強いわけですし……」


 果敢にも抵抗を試みたのだが。


「なんか言ったかい!?」(ギロリ)

「い……いえ、なんでもありません!」


 思いっきり睨まれたオレは、素直にそう答えることしかできなくなっていた。



     2



 ここは適当にごまかして、早々に立ち去ってもらうしかない。

 オレはそう心に決めた。

 あとは、ぽよ美が余計なことを言わないように祈るだけだな……。


「それにしても……玄関周りからしてこの状態っていうのは、あまりにもひどくないかい?」

「う……」


 言葉もない。

 なにせ、ぽよ美のまき散らす粘液は、玄関にだって当然のように付着しているのだから。

 拭い取っている時間なんて、あるはずもなかった。

 このあと大家さんがリビングの惨状を目の当たりにしたら、下手をすれば卒倒してしまうかもしれない。


「なんなんだい、この玄関は。こんなにも濡れまくって。雨なんか降っていなかったと思うんだけどねぇ?」

「いえいえ、降ってましたよ! それはもう、強烈なにわか雨がバシャバシャと! なっ? ぽよ美!」

「そそそそ、そうですよ~! あたしが買い物から帰ってくるときに、ほんともう、ドバァーーーって感じで降ってきちゃって、すっごく困ったの~!」


 必死にごまかすオレとぽよ美。

 大家さんは冷めた目で一瞥、ふんっと軽く鼻を鳴らしたかと思うと、廊下の奥へズカズカと歩いていってしまった。

 無論、オレたちもすぐにあとを追う。


「リビングは……なんというか、これまた凄まじいねぇ~」

「う……」


 言葉もない。

 なにせ、ぽよ美のまき散らす粘液は、リビングにだって当然のように付着しているのだから。

 というか、ソファーはぽよ美が好んでスライム形態で寝っ転がるため、粘液付着率が圧倒的に高い。

 もう、べちょべちょのねちょねちょで、ぬちゃぬちゃのぐちゃぐちゃだ。


 リビングの床はフローリングになっているのだが、水分をほとんど吸収してくれないため、そこら中に粘液がべっとり残っている。

 吸収したらしたで、濃い緑色の粘液が浸透してしまうため、染み抜きするのに大変そうではあるが。

 どうせぽよ美が歩いただけで粘液だらけになるからと、ほったらかしにしてしまっていたのは完全に失敗だった。


「次はキッチンだね」


 大家さんは意外にも、最初の感想以外に文句や驚きの言葉を発することなく、次の確認場所へと向かった。

 キッチンはリビング――というかリビングダイニングとつながっている。

 とくに仕切りなどもなく、リビングから直に足を踏み入れることができる位置取りだ。


 シンク周り、食器棚などに視線を向け、冷蔵庫の中まで見られてしまったが、ここまで来たら今さらどうということはない。

 言うまでもなく、キッチン周辺にだって、ぽよ美の粘液は絶賛付着中だ。

 むしろキッチンのほうが長時間滞在していることもあり、出欠大サービスといった様相を呈しているくらい、たっぷりとねちゃねちゃべちょべちょを感じることのできる場所だとも言える。


「汚い使い方してるねぇ~。主婦としてこれじゃあダメだとか、思ったりはしないのかい?」

「えっ……? う~んと、あははは、あたしは、これが普通だと……」

「すみません、大家さん! オレが何度も注意してるんですが、なかなか直らなくて!」


 ぽよ美が余計なことを言い始めたのを感知し、オレは慌てて割り込む。

 いささか遅かった気がしなくもないが。


「ま、次だね」


 大家さんはそのままキッチンを出て、リビングの隣――すなわち寝室へのふすまに手をかけた。

 くっ、そこは一番の魔の巣窟!

 思わず身構える。


 寝室は和室となっている。

 畳はぽよ美の粘液によって緑色に変色している。

 だが、最悪な状況だけは回避できた。


 寝るときには布団を敷いているが、今は押入れの中に仕舞ってある状態だったからだ。

 ほっと胸を撫で下ろす。


 人間は寝ているあいだに大量の寝汗をかくわけだが。

 ぽよ美は寝ていなくても大量の粘液をまき散らす。

 そして寝ているあいだには、その数倍もの寝粘液を分泌するのだ。

 オレの布団はともかく、ぽよ美の布団を見られたら大変なところだった。


 ……と思ったのも束の間、大家さんは躊躇することなく、押入れを開け放ってしまった。


「あっ、あの! これは、その……!」

「布団の畳み方がなってないねぇ~。こんなんじゃ、開けた途端に落ちてきてしまうことだってあるだろうに……。よっこいせっ!」


 オレの心配をよそに、大家さんは押入れに投げ入れられた布団を押し込み始めた。

 オレの布団だけじゃない。ぽよ美の布団にも、しっかりと両手を差し込んで、バランスを整えていく。

 ぽよ美の粘液でべちゃべちゃな状態のはずだが、大家さんはその点には触れようともしない。


「本当なら、一度布団を降ろしてから畳み直すべきなんだけどね。そこまでやるのは、やめておくよ」


 押入れのふすまを閉め、寝室をあとにする大家さん。オレとぽよ美もそれに続く。

 大家さんは次にベランダを見たあと、さらには風呂場やトイレまで確認し始めた。


 そんなところまで!? と焦ったのだが。

 ここまで、いくら粘液べちょべちょでもなにも言われなかったのだから、水回りと呼ばれるそれらの場所に関して、文句の言葉が吐き出されることがあるはずもなかった。

 もっと綺麗に使ってほしいところだけどねぇ~、といった、ため息まじりのお小言は頂戴する羽目になってしまったが。



     3



 ひとしきり家の中を見回ったあと、オレたちは玄関まで戻ってきた。


「これといって、大きな損壊とかはないみたいだね。もう少し綺麗に使うように心がけてほしいけど、とくに問題はないと判断させてもらうよ」


 意外にも。

 本当に意外にも、大家さんからそんな言葉をいただくことができた。

 目を丸くしているオレに、大家さんはウィンクひとつ。


「ま、スライムがいたら、こんなもんだろうからねぇ」

「えっ……? 知ってたんですか!?」


 オレは大家さんに話したつもりはなかった。

 ぽよ美にだって、他人に話してはいけないと、口を酸っぱくして言ってある。

 黙ってスライムと住んでいるだなんて契約違反もいいところだと思うが、どうやら大家さんはそれを知った上で、問題なしと判断してくれたらしい。


「そりゃあね。隣の低橋さんのところは、奥さんがレイスだし……」

「そっちまで知ってるんですか……。でも、それなのにどうして……?」


 正直、こんなことを知られたら、追い出されて当たり前だと思っていた。

 だからオレは、疑問をぶつけてみたのだが。


「このアパートの契約に、人間以外は不可だなんて書いてないからねぇ~」


 ……そういう問題だろうか。

 スライムやレイスは不可、なんて書いてあるアパートが存在していたら、それこそおかしい気はするが。

 ともあれ、こうして知った上で認めてもらえているとわかったことで、すごく気が楽になった。


「ペットもOKでしたよね、ここ。その延長線上みたいな感じなんですか?」

「ま、そんなところかねぇ~」

「ちょっとぉ~! あたしはペットじゃない~!」


 ぽよ美が頬を膨らませていたものの、オレも大家さんも笑顔だった。

 すぐにぽよ美も笑顔を見せてくれる。当然だが、本気で怒っていたわけではなかったようだ。


「このアパートって、他にもいるんですか? その……人間じゃない住人が……」

「ふふっ、さて、どうかねぇ~?」


 続けて放ったオレの質問には、なんだか楽しそうな含み笑いだけが返された。

 これは……いるな。オレはそう直感した。


「ともかく、ぽよ美さんは可愛いから、この部屋に住んでいて問題ないよ!」

「わ~い、ありがとう! おばちゃん、大好き!」


 こうして、オレたちの入居は大家さんからも正式に認められた。

 可愛いと言われたぽよ美は、上機嫌で大家さんに抱きついている。

 大家さんはべちゃべちゃと粘液まみれになってしまった。


「おばちゃんなんて言うんじゃないよ! これでもまだ若いつもりなんだから!」


 粘液は気にしないんだ……。


「え~? でもでも~、嬉しいから抱きついちゃうの~! おばちゃん、ほんと大好き~! ふくよかで抱き心地も最高~!」

「もう、鬱陶しいねぇ! それに、おばちゃんと言うなってのに! ふくよかも余計だよ! あまりうるさいと、舌を引っこ抜くよ!?」


 突然おばちゃん……いや、大家さんが怒り出した。


「ひぃっ! いひゃいいひゃい!」


 なんというか、さっきまでと違って、鋭い眼光。

 最初にオレが感じた恐怖心は、あの睨みを受けたからこそだった、と言えるのかもしれない。

 大家さんは、本当にぽよ美の舌を引っ張っていた。


「まぁまぁ、大家さん。それくらいにしてやってください。ぽよ美に悪気はないんですから……」


 オレが仲裁に入って、ようやく大家さんは落ち着きを取り戻す。


「あ……ああ、すまないねぇ。職業柄ってやつかねぇ……」

「職業柄? あ~、まぁ、大家さんなんてやっていると、家賃滞納とかもありそうですもんね」

「いや、そうじゃないんだよ。実は大家は副業でね」

「え? そうなんですか?」


 副業だったとは。全然知らなかった。

 普段からほとんど顔を合わせないのだから、大家さんについて知っていることのほうが少ないくらいではあるのだが。


「本業は万引きGメンかなにかですか?」

「いやいや、そんなもんじゃないよ」


 オレは気になって訊いてみたが、大家さんは本業について答えてはくれなかった。

 しつこく聞き出すのも悪いだろうし、これ以上追求するのはやめておくべきか。


 ふと見てみれば、ぽよ美は自分の唇に人差し指を添え、なにやら考え込んでいる様子だった。


「ぽよ美、どうした?」

「ん~? なんでもないよ~?」


 ぽよ美は、そう答えたと思った次の瞬間、


「ダーリン、大好き~♪」


 今度はオレのほうに抱きついてきた。

 大家さんには拒まれたようなものだったから、抱きつき足りなかったのだろうか。


「まったく、ぽよ美は甘えん坊だな」

「えへへへ♪」


 大家さんが目の前にいるというのに、ついつい、いつもの癖でラブラブぶりを発揮してしまっていた。

 さぞかし冷めた視線で見られていることだろう、と思ったのだが。

 予想に反して、大家さんの視線はとても温かい感じだった。


「ふたりはほんと、仲がいいんだねぇ。……佐々藤さん、ぽよ美さんをずっと愛し続けてあげるんだよ?」


 優しげな声でこんな言葉を受けたオレは、


「はい!」


 素直に大きく返事をしていた。


「その言葉が嘘だったら、地獄行きになるからね?」

「大丈夫です!」

「いい目をしているねぇ。お前さんが死ぬまで、せいぜい大切にしてやりなよ?」

「もちろんです!」

「ふふっ、そのときを楽しみにしているよ」

「???」


 最後のセリフの意味が、オレにはいまいち理解できなかったものの、大家さんは満足顔を残し、軽やかな足取りで帰っていった。



     4



 嵐が去ったあと。

 オレとぽよ美はソファーに座り、温かいお茶を飲みながらひと息ついていた。

 なお、ぽよ美はすでに、本来のスライム形態に戻っている。


「それにしても……」


 疑問に思っていたことが、ぽろりと口から飛び出す。


「大家さんの本業って、なんなのかな……?」


 その言葉に、ぽよ美が驚きの声を上げる。


「え? ダーリン、気づかなかったの? 理解力ないなぁ♪」

「う……」


 ぽよ美にこんなことを言われてしまうとは……。


「ぽよ美は、わかったのか?」

「うん!」

「教えろ!」

「え~? そんな命令口調で言われたら、教えたくなくなっちゃう~!」

「もったいぶらずに教えろって! このっ!」

「きゃはははは、ちょっと、くすぐらないでぇ~! わかったわかった、教えるから~!」

「よし!」


 ぽよ美がくすぐり攻撃に弱いことを、オレはよく知っているのだ。

 スライム形態になっていようとも、どこが一番効果的に笑わせられるツボなのか、しっかりと把握している。


「それで? 大家さんの本業って、いったいなんだ?」

「閻魔様だよ~♪」


 一瞬、思考回路が停止した。

 だがすぐに、驚きの声がオレの口から飛び出していった。


「ええええええっ!?」


 いや、舌を引っこ抜くとか地獄行きとか、確かに言ってはいたが……。

 ぽよ美をじっと見つめる。どうやら嘘をついているような顔ではなさそうだ。


 これは……。

 汗がひと筋、頬を伝う。


 うん。

 大家さんは絶対に怒らせないようにしよう。

 それに、ぽよ美を大切にするという約束も絶対に守らないと……。

 オレは改めて、強く心に誓うのだった。


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