第4話 スライムと体温
1
オレが仕事から帰り、食事も終え、ソファーに座ってゆっくりテレビを見ていると。
「ダーリン♪」
べちょっと、ぽよ美が抱きついてきた。
もちろんいつものごとく、スライム形態になっている。
今日も絶妙のねちゃねちゃさを発揮しているようだ。
ぽよ美は毎日飽きもせず、こうしてオレに抱きついてくる。
もっとも今は、オレがぽよ美の特等席であるソファーに寝転がっているから、どかそうとしているだけなのかもしれないが。
……いや、それはないか。
愛する夫であるオレと一緒に、甘く濃密な時間を過ごしたくて、くっついてきているのだろう。
「べちょべちょべちょ♪ どう? どく気になった? ここはあたしの場所だぞ♪」
……やっぱり、どかす気満々だったらしい。
そこまでこの場所がお気に入りなのか、ぽよ美。
オレは仕方なく、ソファーの中央にどっしりと構えていた状態から、一番端っこに控えめに座らせていただきます状態へと移行する。
これがこのソファーにおいて、オレに許された唯一の場所だ。
……なんだか情けない気もするが、ま、気にしないことにしよう。
オレがちょこんとソファーの端っこに座ると、ぽよ美は残りの空いているスペースに飛び込んでくる。
旦那が縮こまって座っている横で、自分は思いっきり寝っ転がる。
世の中の夫婦は、どこもみんな、こんなものなのだろうか。
オレのすぐ横に寝そべったぽよ美。スライム形態だから、寝そべるというか、とろけているというか、水浸しになっているだけというか、そんな状態ではあるのだが。
ともかく、ぽよ美はそっと腕(だと思われる体の一部分)をオレのほうへと伸ばしてくる。
さっきと同様、抱きついてきているのだろう。
一旦寝っ転がると、どこが腕でどこが足だか、よくわからなくなるのが難点だな……。
なお、一応スライム形態でも顔らしき部分はある。
その位置を基準として、ここら辺が腕、ここら辺が胴体、ここら辺が足、と漠然とイメージすることにしている。
と、そんなオレの体ににゅるにゅると絡みつき、ぽよ美の顔の部分が迫ってくる。
そしてそのまま勢いに任せ……オレの顔面、というよりも頭部全体をすっぽりと覆い尽くしてしまった。
思いっきり顔面がぽよ美の中に埋まってしまったオレは、息もできずにもだえ苦しむ。
たまらず、顔に張りついていたねばねばべちょべちょを、力任せに引き剥がす。
「痛ぁ~いっ! なにするのよ、もう~!」
「ぷはっ! こら、ぽよ美! それはこっちのセリフだ! 窒息するだろ!」
お互いに文句をぶつけ合う。
ともあれ、こういう場合、先に引き下がるのは基本的にオレのほうとなる。
なにせ相手はスライムなのだ。普通の人と同じ精神構造であるはずがない。
「悪かったな、ぽよ美。痛かったか?」
「……ううん、大丈夫だけど……」
「だが、ああやって包み込まれて息ができなくなると、人間は死んでしまう。だから、さすがにやめてほしいのだが」
「え~? キスを嫌がるなんて~。ダーリン、ひどい~」
……さっきのあれ、キスだったのか。
ならOKか……などとは、いくらなんでも思えない。オレだって窒息死はしたくないし。
「もっと、そっとお願いするよ」
「うん、わかった♪」
ぽよ美は素直な声を響かせ、再び抱きついてきたかと思うと、言われたとおり、そっとキスしてくれた。
できればスライム形態ではなく、人間の姿でお願いしたいところだが、贅沢は言えないだろう。
オレのほうからも、ぽよ美を抱きしめ返し、彼女の温もりをからだ全体で感じる。
幸せなひととき。
スライムというと、ゼリー状の体を持つことから、触れるとひんやり冷たい印象があるかもしれない。
だが実際のところ、ぽよ美の体温は人間とほとんど変わらないくらいだったりする。
こんなドロドロした形状だというのに、どういう仕組みで体温を保っているのか、オレにはよくわからないが。
ともかく、スライムとはそういうものらしい。
だからこそ、人間の姿になってくれていれば、普通の人間と見分けがつかないくらいになる。
だからこそ、2年もつき合っていたのに、結婚するまでぽよ美の正体に気づかなかった。
……後半は単純にオレが鈍すぎるから、という理由のほうが強い気もするが。
人間の姿になることができて、ほとんど見分けもつかなくなるとはいえ、体調を崩した場合に、ぽよ美を病院に連れていって診てもらうわけにはいかない。
レントゲンや血液検査なんかをされたらマズいからだ。
まぁ、どうやらぽよ美はすごく健康体のようだから、きっと大丈夫だろう。病気なんて無縁に違いない。
いつも粘液でべちゃべちゃのぐちょぐちょ。それはスライムにとって、健康な証拠だというし。
「さて、それじゃあ、そろそろ寝るか」
「うん♪」
夫婦なのだから当たり前とも言えるが、夜は布団を並べ、一緒の部屋で寝ている。
たまに甘えたぽよ美が、オレの布団に入ってくることもあるのだが。
べちゃべちゃねちゃねちゃして非常に寝づらい……とは、さすがに言えなかった。
2
翌日、会社から帰ってくると、いつものようにぽよ美が夕飯を用意してくれた。
いつものようにリビングのテーブルに運んで、いつものようにつまずいて転び、せっかくの夕飯をぶちまけてしまう。
またか!
人間の姿で運べばいいのに、どうしてこうも毎回毎回!
ああもう、学習能力ないなぁ!
そんなところも、可愛いけど!
だんだんとオレ自身もバカっぽくなってきているように思えるが……。
当然ながら、そんなことは気にしないのだ。
「まったく……運ぶのくらい任せてくれてもいいって、何度も言ってるだろ?」
やはりいつものように優しく声をかけながら、水で濡らした台拭きを持ってくるオレ。
ただ、どうもぽよ美の様子がおかしい。
「うん…………ごめん…………」
そこまで落ち込むほどの失敗ではなかった。
ぽよ美と生活している上では日常的なことなのだから、気に病む必要なんてないはずだ。
それなのに、声に勢いがない。
オレの言葉だって、全然きつくはなかったと思うのだが……。
「ぽよ美、どうかしたのか?」
心配になったオレは、ぽよ美の全身をじっと見つめてみた。
スライム形態のぽよ美は、いつもと変わらず全身を覆う粘液がドロドロべちょべちょで、お盆から落ちてぶちまけられた味噌汁以上に床を濡らしている。
ぱっと見、普段と変わっている部分は見当たらない。
しかし、どうも目が虚ろなようにも感じられる。
もともとスライム形態では、目も口も微妙にはっきりとしないし、鼻なんてあるのかないのかわからないのだが。
それでも、明らかに普通ではない。
さらには、床のフローリングを湿らせている味噌汁から立ち昇ってくる湯気とは別に、ぽよ美自身の体からも、微かに湯気らしきものが出ているのが見えるような……。
そこでオレは素早く手を伸ばし、ぽよ美の両目の上――額と思われる辺りに手のひらを押し当ててみた。
うっ、驚くほど熱い!
「お……おい、ぽよ美! すごい熱だぞ!?」
心配の声をかけると、ぽよ美はとろ~んとした目で見つめ返してきた。
「うん……風邪……ひいちゃったみたい……」
途切れ途切れに息苦しそうな声が、ぽよ美のねちょっとした口からこぼれ落ちる。
スライムでも風邪をひくのか!
だが、この熱は、かなりの高温……。
人間とは体の作りが根本的に違うだろうが、ぽよ美の苦しそうな様子を見る限り、単なる風邪だとしても安心できるはずがない。
それに、本人がそう言っているだけで、本当に風邪がどうかもわからない。
なにか悪い病気でなければいいが……。
と、そんなことを考えている場合ではなかった。
オレはぽよ美を抱きかかえ、寝室へと駆け込む。
寝室にはすでに布団が敷いてあった。
ぽよ美の布団に粘液が付着しているのも見える。
オレが帰ってくるまで、横になっていたのだろう。
こんなに熱があってつらいのなら、夕飯の準備なんていいから、ずっと寝ていればいいのに。
せめてオレがもっと早く、ぽよ美の様子に気づいていれば、ここまでひどくはなっていなかったかもしれない。
今さら言っても仕方がないが、後悔の念が襲ってくる。
ともかく、そっと布団にぽよ美を寝かせる。
ぽよ美は布団の中から、黙ったまま潤んだ瞳を向けていた。
「大丈夫だから。ちょっと待ってろ」
オレはひと言だけ残し、濡れタオルを用意するため洗面所へと向かった。
3
「ひゃっ!」
オレが濡れタオルを額の上に乗せると、ぽよ美は小さく可愛らしい悲鳴を上げた。
「悪い。ちょっと冷たすぎたか?」
「大丈夫……冷たくて、気持ちいい……」
布団に横になったからか、少しはマシになってきているのだろう、荒く吐き出されていた息も、いく分整ってきているようだった。
とはいえ、予断は許さない。
風邪は万病のもと。しっかり治してもらわないと。
家で愛する妻が苦しんでいるなんて考えたら、仕事にも身が入らなくなってしまう。
風邪薬を飲ませたほうがいいかとも思ったが、人間と同じ料理を食べるからといって、スライムに飲ませて大丈夫なものなのかわからないため、あえなく断念した。
薬を与えたことで、余計に悪化してしまったら大変だ。取り返しのつかない事態にも陥りかねない。
とりあえずはタオルで頭を冷やし、ゆっくり休ませて様子を見るしかないか。
「ごめんなさい……夕飯もダメにしちゃったし……あたしってほんと……ごほっごほっ!」
「いいから、気にせず静かに寝てろ! 夕飯は適当に食べるから。そうだ、ぽよ美も食べてないんだろ? おかゆを作ってくるよ」
「ううう……家事はあたしの仕事なのに……」
「今はゆっくり休むのがぽよ美の仕事だ」
オレは立ち上がり、再び寝室をあとにした。
おかゆを作りながら、ぽよ美が床にぶちまけてしまった夕飯の残骸の処理も素早く終える。
完成したおかゆを持って寝室に戻ると、ぽよ美は今か今かと待ち構えていた。
「おかゆができたぞ。ライオンとかじゃなくて悪いが」
動物園での一件なんかをふと思い出し、そんな冗談を投げかけてみる。
「おかゆでいいよ~。風邪のときにそんな重いもの、食べられないもん」
「元気だったら食べるのかよ」
「ふふっ、どうかな~?」
ぽよ美のほうも、冗談で返してくれた。思ったより、体調は悪くなさそうだ。
布団から上半身(と言えるのかわからないが、顔を含めた体の上部)を起こし、ぽよ美は「あーん」と口を開ける。
オレはふーふーと息をかけて冷まし、おかゆを食べさせてやった。
スタイム形態だと深い緑色がかった半透明の体をしているぽよ美。
口から入っていった食べ物も、そのまま見えたりしていて、なんだかちょっとグロいかも……。
といった感想は当然、飲み込んでおく。わざわざぽよ美を不快にさせることもあるまい。
「もぐもぐ……ダーリンも、まだご飯食べてないよね……」
「ああ、そうだな。オレはあとで適当に食うから、気にするな」
おかゆを咀嚼しながらも不安げにつぶやくぽよ美に、オレはそう答えたのだが。
「ダメ! 今食べて!」
言うが早いか、ぽよ美は顔面突撃を決行する。
……いや唇を重ね、口の中で咀嚼していたおかゆを、オレの口の中へ流し込んできたのだ。
口移しでオレにも食べさせる作戦に出たということなのだろう。
べつに嫌とは言わないが、相手がぽよ美の場合、ぐちゃぐちゃになったおかゆにまじって、緑色でゼリー状の物体なんかも入り込んでくるわけで……。
言うまでもなく、オレはそれらもすべて含めてしっかりと飲み込むのだが。
「ぽよ美……べつにいいんだが、口移しにしなくても、交互に食べればいいだろ?」
オレは率直な意見を口にする。
それを聞いたぽよ美は、一瞬目を丸くしていたけど、すぐにこんなことを言い放つ。
「だって、ほら、ダーリンに風邪をうつして、早く治したいし~」
「そんな簡単に治るか!」
「えへっ♪」
ペロっと舌を出して微笑むぽよ美。
笑顔が出るくらいだから、余分な心配はいらないと言えるだろう。
「ま、ゆっくり休んで元気になれよ」
「うん!」
オレと半分ずつという感じだったが、おかゆを食べ終えたぽよ美は、元気に返事をしてくれた。
4
その後、洗い物を済ませたオレが寝室をのぞいてみると、ぽよ美は安らかな寝息を立てていた。
この分なら、すぐによくなってくれるに違いない。
ようやく安心したオレは、ぽよ美の隣の布団に身を投げ出すと、一瞬にして眠りに就いてしまった。
翌日。
ぽよ美は完全に復活していた。
「今日のあたしは絶好調だよ~!」
そう言いながら、ポヨンポヨンと飛び跳ねている。
全身からぼたぼたと滝のように緑色の粘液が流れているのだが……。
スライムであるぽよ美にとっては、この状態が最高潮の証なのだろう。
オレの考えていることを察してくれたのか、ぽよ美本人も解説を加えてくれる。
「これこそが健康の証! 溢れ出してくる粘液が多ければ多いほど、健康なのよ~!」
ぽよ美は心底嬉しそうにはしゃぎまくっている。
確かに凄まじいくらいに元気そうではあるのだが。
部屋の中は、ものすごいことになってるな……。
いつもみたいに粘液がべちゃべちゃ付着している、というレベルを通り越して、浸水しているのかと思ってしまうくらい、床一面がびっしりと緑色に染まっていた。
……ま、今さらなにも言う気はないが……。
若干困惑気味なオレの様子に気づくことなく、ぽよ美は家中に粘液をまき散らすのだった。
そしてさらに次の日。
今度はオレが風邪をひいて寝込んでしまった。
う~む、ぽよ美との口移しが原因で、うつってしまったのだろうか……。
いや、そんなことはないとは思うが。
「今度はあたしが、ダーリンにおかゆを食べさせてあげる♪ ……もちろん、口移しで♪」
「こらこら、また風邪がぽよ美にうつるだろ!」
「ふふっ、そしたらまた、ダーリンに看病してもらえるね♪」
「そんな風邪の永久ループなんて嫌だ! げほげほっ!」
「ほら、もう、無理しないで寝てなきゃ~」
オレはぽよ美に諭され、布団に横になる。
ただ――。
「風邪で動けないダーリンに、なにをするのが一番楽しいかな~♪」
「病人で遊ぼうとするな!」
はたしてゆっくりと休むことができるのか……。
それは定かではない。