第47話 さよなら、ぽよ美(中編)
1
ぽよ美がいなくなってから、すでに数日経っている。
週が明ければ、仕事も始まる。
オレは誰に見送られることもなく、会社へと向かい、仕事をこなしていた。
ぽよ美を含めたかなりの人数にのぼる、集団失踪事件。
だからといって、警察に捜索願いは頼めない。
なにせいなくなったのは、スライムやらレイスやらカッパやら泥田坊やらなのだから。
オレは車でぽよ美の実家まで行ってみたわけだが、両親は不在だった。
海端の話では、羽似さんの両親やお兄さんもいないらしい。
また、中泉の夫――水好さんの両親とも連絡が取れない状態だという。
ぽよ美のことが頭から離れず、仕事にも身が入らなかったが、どうにかこうにか終わらせ、夜にはアパートに戻る。
出迎えてくれる妻はいない。
寂しすぎる……。
夕飯は、帰りにコンビニで買ってきた弁当だ。
自炊できないわけでもないが、そんな気力があるはずもない。
コンビニ弁当の味付けは悪くなく、普段どおりの気分だったら美味しくいただけたのだろうが。
今のオレにとっては、なんとも味気ない物体としか思えなかった。
ぽよ美の手料理が食べたい。
買ってきた惣菜類がメインで、生野菜のサラダがついている程度の、手料理と呼んでいいかどうか怪しいものではあるが。
粘液が付着したあの料理が懐かしい。
「ごちそうさま」
小さく声が響く。
ひとりきりの部屋とは、こんなにも静かなものだっただろうか。
ぽよ美がいない。
その状況が、だんだんと普通になりつつある。
それが嫌で嫌でたまらない。
部屋の中には、ぽよ美が住んでいた痕跡が確実に残っている。
壁にも床にも、そこかしこに粘液がこびりついている。
ソファーにだって、粘液がべっとりだ。
なんとなく、空気自体が湿っているようにも感じられる。
ただ……。
それらも徐々に薄れてきている。
粘液なんて主に水分。粘性があるとはいえ、時間が経てば蒸発してしまうだろう。
蒸発したとしても、緑色の汚れくらいは残るかもしれない。
それでも、ぽよ美の生きていた証のほとんどが消えてなくなるなんて悲しすぎる。
ここはオレだけの部屋じゃない。
ぽよ美とオレ、ふたりのささやかな城なのに。
「戻ってこいよ、ぽよ美……。お前がいないと、ビールも全然減らないし……」
いつもの癖で、大量に購入してきたビール。
ひとりきりでも、飲んではいる。
飲まなきゃ、やっていられない。
だが、ビールの減りは著しく遅かった。
「ぽよ美……」
いつもぽよ美が寝転んでいたソファーにダイブする。
粘液の独特なニオイが鼻腔をくすぐる。
いい匂い、というわけではないが、1年以上嗅ぎ続けた妻の匂い。
心安らぐ匂い……。
まだ微妙に残っている粘液を指ですくってみたり。
その匂いを嗅いでみたり。
軽く、ペロッと舐めてみたり。
ひとりきりだからなのか、単に酔いが回っているからなのか、少々変態チックな行為にまで及ぶ。
「ぽよ美……。絶対に離れないって、言ってたくせに……」
まぶたが重くなってくる。
さほど飲んだわけでもないのだが、睡眠不足の影響もあるのか、酔いの回るスピードが異様に速い。
オレはソファーにうつ伏せの状態で、ぽよ美の粘液のニオイに包まれながら、いつの間にか眠っていた。
2
ぽよ美のいない生活は続く。
事あるごとに、考え込む日々。
いや、考え込むというよりは、ぽよ美との思い出が次々と浮かんでくる、といった感じだろうか。
騒がしいながらも、楽しい日々だった。
結婚する前には、何度もデートした。
あまり遅くならないうちに帰るぽよ美を、身持ちの堅い女性だと思っていたんだったな。
暑さが苦手でかなりの汗っかき。実際には粘液だったわけだが、当時はスライムだと知らなかった。
秩父に住むぽよ美のご両親に挨拶に行ったときも、まだオレは、ぽよ美がスライムだと気づいていなかった。
今考えれば、どれだけ鈍感だったんだ、と呆れてしまうが。
婚約指輪を渡してプロポーズしたときも、大混乱だったな。
ぽよ美のやつ、指輪型のキャンディーだと思い込んで、ペロペロと舐め始めやがって。
それだけならまだしも、間違って飲み込んでしまうなんて、普通はありえないだろ。
ぽよ美と結婚して、今住んでいるこのアパートに引っ越してきてからも、様々なことがあった。
隣の部屋だということもあり、低橋さんと冷華さんには、随分とお世話になった。
冷華さんがいるせいで、宴会になだれ込むのが日常になった、とも言えるのだが。
動物園に遊びに行けば、どんな動物を見ても「美味しそう~♪」と叫ぶぽよ美。
その笑顔はとても可愛らしかったが、周囲で会話を聞いている人がいたら、確実に引かれていただろうな。
大家さんが抜き打ちで部屋のチェックに来たときは、正直に言って相当焦った。
なにせこの部屋は、いつでももれなく粘液まみれなのだから。
実際には、大家さんはぽよ美がスライムだと知っていて、なにも問題にはならなかったが。
垢澤さんに頼まれて、買い物につき合ったときは、デートしていると勘違いしたぽよ美が尾行してきたんだっけな。
尾行とは名ばかりで、完全にバレバレ状態ではあったが。
ぽよ美らしい微笑ましいエピソードと言えるだろう。
逆に、オレのほうが浮気を疑って、ぽよ美を尾行したこともあった。
相手はぽよ美のいとこのぽよ太郎で、恋人へのプレゼントについて相談に乗っていただけだった。
ま、ぽよ美が浮気なんて、あるはずもなかったのだ。もちろん、オレだってな。
みみみちゃんや織姫さんや彦星さんと顔見知りになってからは、アパートの住人が集まっての宴会騒ぎも増えていった。
引きこもりだった3人も、飲み会であれば部屋から出てくるんだよな。
ま、冷華さんとぽよ美が無理矢理引っ張ってきていた、というのが真相だったりするわけだが。
それから、中学時代の同級生、中泉が隣の207号室に引っ越してきた。
初恋の相手に再会できたのは、オレとしては素直に嬉しかった。話してみたら、当時となにも変わっていない雰囲気だったしな。
ただ、中泉は婚約していて、しかも旦那はカッパだった。
普通なら、「なんだよ、それは!」と目を丸くするところだが、オレ自身がスライムと結婚しているのだから、どっちもどっちだろう。
書き置きを残して、ぽよ美が家出したこともあった。
アパートのメンバー総出で探し、町外れの丘にある池の中で発見した。
スライムだから、水の中に落ちても死ぬわけではないとはいえ、みんなに多大な迷惑をかけたのは事実だ。
ぽよ美本人に悪気はなかったようだが、さすがにオレもこのときには激しく怒ったっけ。
その後、一階に七福神のみなさんが住んでいるとわかり、オレたちの住むアパート、コーポ錠針が普通じゃないというのが明白になってきた。
大家さんの宿命のライバル、メリーさんまで登場して、そこから怒涛の刺客攻勢が開始される。
座敷童子やらツルやら乙姫やら魔法少女のお婆さんやらキョンシーやら……物の怪妖怪あやかしなど、異形な存在が目白押しだった。
メリーさんが大家を務めるアパート、女神ハイツには、もともと雪子さんが住んでいて、ぽよ太郎と結婚したあとも夫婦で住んでいたが。
海端と羽似さんも女神ハイツに住むようになり、垢澤さんも同じアパートに引っ越し、物の怪の住人がさらに増えていくことになった。
メリーさんは、うちのアパートの大家さんを敵対視していて、自分のアパートが負けるわけにはいかない、と躍起になっているようだった。
といっても、かなり間が抜けている人みたいで、刺客を送られたところで、これといって被害が出たりはしなかったが。
大家さんとメリーさんは、スペシウム学園とかいう学校の同期で、ライバルとして常に争っていた間柄なのだとか。
こうやって思い返してみると。
なんとまぁ、非日常的な生活をしてきたのだろうか、オレは。
それでも。
ぽよ美がいて。
他の人や、人ならざるモノたちがいて。
オレは騒々しくも楽しい毎日を送ることができていた。
そんな数々な光景が、まるで走馬灯のように脳裏を流れていく。
べつに、オレが死ぬわけでもないというのに。
……いや、なにもする気力がなく、ただぼーっと生活しているだけの現状では、死んでいるも同然かもしれないが。
「佐々藤さん? どうしたんですか?」
「え……?」
不意に女子社員から声をかけられた。
おっと、いけないいけない。
仕事中だというのに、完全に思考がどこか遠くへ飛んでしまっていた。
「ああ、なんでもない。ちょっと疲れてるのかな」
「そうですか。あっ、これ、次の会議で使う書類です」
「うん、ありがとう」
書類を手渡し、女子社員は去っていった。
ふと、隣の席に目線を送る。
そこは、垢澤さんの席がある。
だが、きっちりと整理整頓されたその席に、垢澤さんの姿はない。
休暇を取っているらしい、という話になってはいるが。
誰も詳細を知らない。
にもかかわらず、まったく話題にも上らない。
このまま記憶されも薄れ、ぽよ美も冷華さんも垢澤さんも羽似さんも、みんないなかったことになってしまうのだろうか?
そんなの嫌だ。耐えられない。
だったら、どうすればいいのか。
……なにも、できやしない。
会議でも心ここにあらず。
上司に注意され、苦言をぶつけられたりもしつつ。
そのうちに、帰宅時間となる。
家にたどり着いても、やはり出迎えてくれる妻はいない。
酔っ払ってソファーに転がっているだけであってもいいから、ぽよ美の顔を見たいのに。
あの笑顔にはもう、オレの手は届かない。
ぽよ美がいない生活なんて考えられない。
つい先日、ぽよ美との会話でそんなことを話していた。
しかし今、オレはぽよ美のいない生活を送っている。
このままずっと、オレは寂しく生き、そして寂しく死んでいくのだろうか?
生きる気力もない。
抜け殻になったオレ。
まさか自分がこんな状態になってしまうなんて。
それだけ、ぽよ美の存在がオレにとって大切だったということだ。
「お願いだ、戻ってきてくれ、ぽよ美……」
どんなに願っても、神様は願いを叶えてくれそうになかった。
それも当然だ。
うちのアパートに住んでいた神様も、女神ハイツに住んでいた女神様も、今はいなくなってしまっているのだから。
3
夜。
部屋でひとりきりで塞ぎ込んでいると、背後に人の気配を感じた。
「佐々藤……」
静かにたたずむ女性。
それは、中泉だった。
帰宅した際、カギをかけるのを忘れていたようだ。
「お前、いくらカギが開いていたからって、勝手に……」
「ちょっと……寂しくて……。佐々藤も、そうでしょ……? ぽよ美さんがいなくなって、ずっと元気ないよね……?」
そんな中泉の声も、元気があるとは絶対に言えない、かすれた様子だった。
「ん。そうだな」
「少しだけでもさ、話そうよ。ひとりきりでいると、押し潰されちゃうよ」
「……ああ、わかった。そこに座布団があるから、使っていいぞ」
「ありがと」
言われたとおり、中泉は座布団を持ってきてテーブルの前に座る。
オレは冷蔵庫からビールを取り出し、中泉に差し出した。
「飲み物、これしかないから。ま、飲もう」
「うん」
オレはビールの缶を開ける中泉に視線を送りながら、ソファーの端っこに腰を下ろした。
このソファーはぽよ美のものと言っても過言ではない。ほぼ全体に粘液が付着しているし。
だから、中泉を座らせる気にはなれなかった。
言葉もなく、ビールを飲む。
なにも話しかける気力がない。
オレが沈黙していると、中泉が遠慮がちに喋り始めた。
「ねぇ、佐々藤……。元気、出してよ。あっし、そんな沈んだ佐々藤なんて、見ていたくないんだ」
「…………」
ぽよ美がいないのに、元気になれるはずがない。
中泉のほうだって、夫の水好さんがいなくなったという、オレと同じ境遇なのに……。
こういうとき、男性よりも女性のほうが強いものなのかもしれないな。
中泉が心配して言ってくれているのは、オレにだってわかっていた。
だが、続けられたこの言葉には、我慢がならなかった。
「もしも……ぽよ美さんも水好も、このまま戻ってこなかったらさ……。あっしと結婚して一緒に……」
「ふざけるな!」
オレは中泉の声を遮るように怒鳴りつけていた。
「なに言ってんだよ!? オレにとって、妻はぽよ美だけだ! お前だって、水好さんを愛してるんじゃなかったのか!?」
あまりの剣幕に、中泉が体を強張らせる。
その視線は、完全に怯えきっていた。
「そ……そうだよね、ごめん……」
すぐに視線を逸らし、うつむき、今にも泣き出しそうな表情。
いや、実際に中泉の瞳からは、いく粒もの雫がこぼれ落ちていた。
そうだ。
中泉だって、オレと同じなんだ。
水好さんがいなくなって、混乱と寂しさでいっぱいなんだ。
どうしたらいいかわからない状態なんだ。
だからこそ、ひとりきりではいられず、オレを頼って来てくれた。
それなのにオレは……。
「こっちこそ、ごめん。言い過ぎた……」
「ううん、大丈夫。あっしが無神経すぎただけだから……」
改めて、ビールに口をつける。
当然のことながら、会話が弾んだりはしない。
お互い、静かに飲み進める。
中泉とふたりきりで飲むのは、ぽよ美に浮気だと誤解されたあのとき以来だ。
お隣さんで中学時代の同級生で初恋相手だった女性。
そんな相手と飲んでいても、まったく楽しい気分になんてなれなかった。
ごく当たり前の結果だ。
ぽよ美がいない不安に押し潰されながら飲んだって、はしゃげるはずがない。
同じように、水好さんがいない寂しさに包まれた中泉もまた、ビールをチビチビと口に含みながらも、涙は止められないようだった。
その後、ある程度の時間になると、中泉は自分の部屋へと帰っていった。
ひとりきりが寂しくても、オレの部屋に泊まらせるわけにはいかない。
そんなことをしたら、「ダーリンが浮気した~!」とか言って、ぽよ美が大激怒するだろうからな。
オレは戻ってくるかどうかもわからない妻を、深夜遅くまでただひたすら待ち続け、アルコールの力に任せて眠りに就いた。




