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第46話 さよなら、ぽよ美(前編)

     1



 朝起きたら、ぽよ美がいなかった。


 そういうことも、たまにはある。

 外出する予定があるといったことは、とくに話していなかったと思うが。

 おそらく、買い物に出かけたとか、冷華さんの部屋に行って飲んでいるとか、そんな感じなのだろう。


 ちょっと前には、書き置きを残して失踪したこともあったっけな。

 あのときは、町外れの丘にある池の中を漂っているという、とんでもない状態だった。

 アパートの住人たちには随分と迷惑をかけたことになるが、思い起こせば微笑ましい出来事だったもと言える。


 ぽよ美がいると、本当に退屈しない。

 オレにとって、なくてはならない存在だ。


 だが、四六時中べったりべっちょりくっついているわけでもない。

 ぽよ美がいない部屋は、ものすごく静かだった。

 ま、こういうのんびりとした休日も、それほど悪くはないな。


 ゆっくりとソファーに腰を落ち着けて、入れ立てのコーヒーを飲む。

 単なるインスタントコーヒーだが、ぽよ美に頼むと粘液まじりで味が変わってしまう。

 ぽよ美に用意してもらって飲むことに慣れているせいか、ごくごく普通の味のコーヒーは少々物足りなくも感じられた。


 オレが座っているのは、ぽよ美がいつも寝っ転がっているソファーの端っこの狭い部分だ。

 ぽよ美はオレ用のこの部分にすら、粘液を付着させているわけだが。

 逆にオレがぽよ美の場所に座ると、凄まじい勢いで怒られるんだよな……。


 いったいどんな夫婦生活なんだか。

 改めて考え直してみると、首をかしげる部分が無数に出てきてしまうが。

 そんなところも含めて、オレは今の生活に充分以上に満足している。


 ぽよ美のいないリビング。

 オレは適当にテレビを見て、時間を費やす。


 う~む……。

 暇すぎるな。

 話し相手がいないのは、とてもつまらない。


 オレが起きてから、もう随分と経った。

 買い物だとすると、あまりにも帰りが遅すぎる。

 ということは、冷華さんと一緒に飲んでいる可能性が高い。


 仕方がない。

 冷華さんの部屋に顔を出して、オレも飲み会に混ぜてもらうとするか。


「よっこらせ」


 ゆったりまったりしすぎて重くなっていた腰をどうにか上げ、オレは隣の部屋へと向かった。



     2



 違和感は最初からあった。

 だがオレは、それをあえて無視していた。

 冷華さんの部屋で飲んでいるにしては、会話の声が聞こえてきていなかった、ということだ。


 怪訝に思いながらも隣の205号室へと赴き、チャイムを鳴らしてみた。

 反応はない。どうやら留守のようだ。


 今日は土曜日だが、低橋さんはバイトがあるのだと考えられる。

 だとしても、冷華さんまでいないのは珍しい。

 ぽよ美と一緒にどこかへ出かけた、といったところか。


 それならそれで、オレにひと声かけていくとか、書き置きを残しておくとか、してもよさそうなものだが。

 ぽよ美と冷華さんが合流すれば、「さあ飲もう! すぐ飲もう!」と言って宴会になだれ込むのが自然の流れ。

 気分を変えるために外で飲もう。そんな感じでアパートから出ていったに違いない。


「冷華さんは強引だからな。ぽよ美はぽよ美で、酒さえあればどこへでもついていくだろうし」


 苦笑がこぼれる。


 ただ……。

 なにかがおかしい。

 アパートの廊下の空気が、いつもとまったく違っているようにすら感じられた。


 オレは低橋家の隣、ヨロシクさんの部屋である204号室のチャイムを鳴らしてみた。

 何回か連続で鳴らしてみたが、返事はない。


 さらに隣、みみみちゃんの部屋の前へと移動し、チャイムを鳴らす。

 ここもまた反応がない。

 同様に、織姫さんの部屋も彦星さんの部屋も、ひっそりと静まり返っていた。


 チャイムを鳴らすだけでなく、ドアを叩いてもみたがダメ。

 ドアを勝手に開けようとまでしたが、それぞれの部屋にはしっかりとカギがかかっていた。

 この辺りの住人は基本的に引きこもりだから、在宅していてもカギがかかっているのが常なのだが。

 それにしたって、ここまで反応がないのは異常だ。


 オレは廊下を戻り、中泉夫妻の住んでいる207号室へ。

 出てきてくれ。

 祈りを込めながら、チャイムを鳴らす。


 もし中泉までいなかったら、オレだけのけ者にしてアパートのみんなでどこかに出かけている、という状況になってしまう。

 それはちょっと、寂しい。


 しかし……。

 反応はなかった。


 もしアパートのメンバー全員で飲んでいるとしたら、場所は104号室になるだろうか?

 そう考え、一階まで降りようとした、まさにそのとき。

 中泉の部屋のドアが静かに開かれた。


「佐々藤~、どうしたの~? むにゃ……」

「って、寝てたのかよ!」


 中泉はパジャマ姿だった。


「お前、そんな格好で……」

「ん~……。恥ずかしいパジャマを着てるわけでもないし、べつにいいじゃん」

「恥ずかしいパジャマって、どんなのだよ」

「え~? そりゃあ、透けてるのとか、紐みたいなのとか?」

「それはパジャマの分類からはみ出してないか?」


 知り合いの顔を見ることができて安堵したのか、他愛ない会話を繰り広げていたが。

 オレはハッと我に返る。


「と、そんなことはどうでもいい! 中泉! 水好さん、家にいるか?」

「え? ……あれ? そういえば、いなかったかな? ちょっと待ってて」


 オレに言われ、部屋の中へと確認に向かう中泉。

 中泉はすぐに戻ってきたが、答えはオレの想像していたとおりだった。


「水好、いなかったよ」


 やっぱり。


「キュウリ畑にでも行ったのかな? それとも、川に水浴びにでも行った? だけどさ、水好がどうかしたの?」


 状況がよくわかっていない中泉に、オレは事情を説明してやった。



     3



 オレが足を運んでみたのは、今のところ同じアパートの二階だけだ。

 それでも、オレと中泉以外に誰もいないというのは、かなり稀な事態だと言える。


「確かに、おかしいかも?」


 中泉も眉をひそめる。

 旦那である水好さんのケータイに電話をかけたりもしていたが、応答はなかったようだ。


 もちろんオレも、ぽよ美のケータイに電話とメールを入れてみた。

 使用している姿をあまり見たことはないが、ぽよ美も一応、ケータイを持っている。

 言うまでもなく、防水ケータイだ。

 垢澤さんとはたまに電話で話していると言っていたから、それなりに使ってはいるのだろう。


 ともかく、ぽよ美もまた、電話には出なかった。

 メールの返事もない。

 そのうち気づいたら、折り返し連絡をくれると思いたいが……。


 オレはその後、中泉とともにアパートの一階にも行ってみた。

 七福神のみなさんも、部屋にはいないみたいだった。


 現在のコーポ錠針では唯一の空き部屋となっている104号室にも、誰かがいる気配はなかった。

 閻魔様である大家さんの仕事場で、空間的に歪んでいる普通でない場所。

 中で宴会をしていた場合でも、外に声が漏れることなどないのかもしれないが。

 チャイムを何度鳴らしても反応がないのだから、きっと今は誰もいないのだろう。


 こういうとき、頼りになるのは大家さんなのだが。

 大家さんはどこに住んでいるかわからない。


「ん~。まぁ、みんなそのうち帰ってくるんじゃない?」


 中泉は楽観的だ。


「でもな……。なんだか、嫌な予感がするんだよ」


 オレは思考を巡らせ続ける。


「他に考えられることと言ったら……。そうか、メリーさんか!」


 メリーさんはこれまで、オレたちのアパートに頻繁に刺客を送り込んできていた。

 しかも先日には、次なる作戦を練る、とまで言っていた。


「メリーさんがみんなを誘拐したのか?」


 オレの推論に、中泉は苦笑を浮かべる。


「正確には、このアパートにいる、人間以外の住人、ってことになるかな? だけどさ、そんなことをして、いったいどうするの? 意味ないじゃん」

「そうかもしれないが、なにせ相手はあのメリーさんだ。オレたちの想像を超えた行動に出る可能性だってあるだろ!」

「あ~……、それは確かにあるかもね~」


 と、そのとき。

 不意にオレのケータイが鳴り出した。

 海端からの電話だった。


 電話に出る。

 慌てた様子の海端は、挨拶もなしに叫び声を響かせた。


「佐々藤! 大変なんだ! 羽似がいなくなった!」


 海端はメリーさんが大家をしている女神ハイツに、恋人の羽似さんと一緒に住んでいる。

 メリーさんが黒幕なのでは。

 電話の内容は、そんなオレの予想を完全に否定するものだった。




 海端に詳細を説明し、女神ハイツの各部屋を調べてもらった。

 結果、どこも不在。海端以外、誰もいないという。

 オレと中泉は、海端と合流することにした。


 コーポ錠針と女神ハイツに住む物の怪たちが、ひとり残らず忽然と姿を消している。

 2つのアパート以外がどうなのかは、今のところわかっていない。

 知り合いの物の怪やら妖怪やら神様やらは、ほぼ全員、どちらかのアパートの住人となっていたからだ。


 他にいるとすれば、カフェ・ブラッドのマスターくらいだろうか。

 物の怪が集うというあのカフェに行けば、他の物の怪たちの状況も確認できそうに思えたが……。


「そのカフェって、人間だけでは行けないんでしょ?」

「そうなんだよな」


 試しに駅前から路地裏を通ってカフェを目指してみたが、たどり着くことはできなかった。

 途方に暮れながら、町の中をあてもなく歩く。


「もしかして……死神のヨロシクさんが、全員を地獄へと連れていった? ヨロシクさん、そのためにこのアパートに引っ越してきたとか……」


 オレのつぶやきに答える声はない。

 中泉も海端も、それぞれ自分の考えを頭の中でまとめることに精いっぱいなのだろう。


 ヨロシクさんとは、先日の宴会の席でいろいろと話した。

 オレとしては、とても気さくないい人という印象を受けたのだが。

 あれは油断させるための演技だったのか?


 ……いや、それはないか。

 そもそも、もしそんな悪意を持っていたとしたら、大家さんが真っ先に気づいているはずだ。

 大家さんが部屋を貸したことを考えれば、ヨロシクさんが今回の件の犯人、という線は消える。


 だったら、どういうことなんだ?

 いくら頭を悩ませても、答えは導き出せそうもなかった。



     4



 日が暮れてきた。

 オレたちはそれぞれ、家まで戻ることにした。

 ぽよ美も水好さんも羽似さんも、なにくわぬ顔で帰ってきているかもしれない。


 淡い期待を抱いて帰宅したが、そんなことはなかった。

 ぽよ美だけじゃなく、水好さんも羽似さんも、冷華さんも他の住人たちも、誰もいない。


 夜遅くなって、低橋さんがバイトから帰ってきた。

 人間以外の住人だけがいなくなっている、という予想が確信に変わった瞬間だった。


 低橋さんの部屋にお邪魔して、現状を報告する。

 低橋さんは冷華さんがいないと知って、ギターをかき鳴らして悲しんでいた。


 いくら悲しくても、人間、眠気には勝てない。

 深夜遅くになってからではあったが、オレは自分の部屋へと戻った。


 この部屋にぽよ美がいない夜。

 一緒に暮らすようになって以降、初めての経験だ。

 ひとり寂しく、布団にくるまる。


 粘液まみれになっている隣の布団を見つめながら、オレはずっとぽよ美のことを考えていた。

 たった一日、ぽよ美の姿を見ていないだけ。

 たった一日、ぽよ美の声を聞いていないだけ。

 それだけなのに、こんなにも寂しい気持ちに包まれるなんて。


 ご両親に挨拶に行ったすぐあと、このアパートの部屋を見つけて同居し始めたんだっけな。

 それ以来、ずっと一緒に暮らしてきた。


 と、ここで気づく。


 そうだ、ぽよ美の両親!


 オレは布団から飛び起きた。

 そして、取るものも取りあえず部屋からも飛び出したオレは、最近ほとんど使っていなかったマイカーを走らせる。

 目指すは秩父の山奥にある、ぽよ美の実家。


 結婚前に挨拶に行ったきり顔を出していなかったため、気まずいという思いはあった。

 だが、そんなことを言ってはいられない。

 以前は電車を使い、途中からは徒歩で行ったのだが、こんな真夜中では電車など動いていない。

 車を飛ばし、オレは山道を急いだ。


 明かりもほとんどない、山の中にある単線の車道。

 かなり迷ってしまったものの、夜が明ける頃にはどうにか目的地に到着できた。


 しかし、そこはもぬけの殻だった。

 田舎だからか、カギすらかかっていない、木造の建物。

 ここがぽよ美の実家なのは間違いない。


 ただ、ドアを叩いても声をかけても反応はなく、失礼ながら勝手に上がらせてもらったが、人影などはまったく見つけられなかった。

 ……ぽよ美の両親だから、スライム影、と言うべきだろうか。


 壁や床に粘液は付着しているのに、両親の姿はない。

 近所の人に話を聞いてみても、もともとあまり交流がなかったらしく、どこに行ったかはよくわからないと言われた。


 成すすべもない。

 ここに居座っても、これ以上得られる情報はなさそうだ。

 オレは車でアパートまで帰った。


 睡眠もほとんど取らずに車を走らせ続けた。

 すごく危険な行為だったかもしれない。


 ドアのカギを開け、静まり返った我が家に足を踏み入れる。


「ただいま」


 オレの声だけが空しく響く。

 ぽよ美の姿は、やはりなかった。


 ぽよ美……。

 いったい、どこに行ってしまったんだ……?


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