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第40話 垢舐めと物の怪カフェ

     1



 休日の朝。

 昼近くまで寝て、まだボーッとした頭でリビングに移動すると、ぽよ美がいた。

 それはいいのだが。


「おっ、珍しいな。ぽよ美が家の中で人間の姿になってるなんて」


 オレが声をかけると、上機嫌の答えが返ってくる。


「今日は冷華さんと飲む約束があるから! にゅふふ、楽しみ~♪」


 お前はほぼ毎日、冷華さんと飲んでるだろ、といったツッコミは控えておこう。

 朝から妻の機嫌を損ねたくもないしな。


「昼から冷華さんの部屋で飲むことになってるんだ~! ダーリンも、もちろん行くでしょ~?」

「いや、オレは遠慮しておくよ」

「ふえっ? どうして~?」


 なぜ断るのか。

 それは、今日のオレには、出かける予定があるからだ。

 休日は丸一日、家の中でダラダラするのがデフォルトとなっているここ最近のオレにしては、かなり稀なことになるわけだが。


 出かける予定があると告げると、ぽよ美は一気に不機嫌になる。


「どこに出かけるの~? はっ! まさか、不倫!? だったら、ダーリンを殺してあたしも――」

「違うから!」


 食い気味に否定。

 オレはぽよ美に説明してやった。

 同じ会社の後輩社員である垢澤さんから、仕事に関する相談に乗ってほしい、と頼まれただけだと。


「休日に、わざわざ?」

「ああ。会社だと誰かに聞かれるかもしれないしな」


 訝しげな表情を崩さないぽよ美だが、オレにやましい部分などなにもない。

 落ち着いて説得を続ける。

 ぽよ美にしたって、垢澤さんとは面識があり、電話で話したりまでしている仲なのだから、安心できる相手のはずだ。


「そっか……。うん、わかった。頑張って垢澤さんの相談に乗ってあげてね! あたしは飲むのを頑張るから!」

「そんなの頑張るんじゃない! ま、ほどほどにしておけよ?」

「はぁ~い!」


 そんな感じで、オレたちは軽く朝食を取ったあと、それぞれに準備を始める。

 ぽよ美は隣の部屋で飲むだけなのに、なにを準備することがあるのだろうか?

 と思わなくもなかったが、ま、余計な口出しはしないに限る。


「それじゃ、行ってくるよ」

「うん、行ってらっしゃい!」


 昼過ぎ、先に準備を終えたオレが部屋を出ようとすると、ぽよ美が玄関まで来て見送ってくれた。

 それだけじゃなく、


「そうだ! ダーリン、久しぶりに!」


 ぽよ美が抱きついてきて、唇を重ねてきた。激しく、濃厚に。

 べちょ。ねちょ。ぐちょ。

 口の中に、ネバネバしたゼリー状の物体が流し込まれる。


 このところご無沙汰となっていた、行ってらっしゃいのチュー。

 ほんとに久しぶりだな。新婚当初以来だろうか。

 ぽよ美は平日には毎日、出勤するオレのために愛妻弁当を作ってくれているのだが、作ったあとに寝てしまう場合も多い。

 愛する妻に見送ってもらい、行ってらっしゃいのチューまでしてもらえるのは、やっぱり嬉しいものだな。


「ぷはっ! これでOK♪ いってらっしゃい!」

「い……行っふぇひまふ……」


 まともに声を出せないほど、口の中がゼリー状の物体でいっぱいになろうとも。


「さて、どんな相談なんだかな」


 口全体に広がる青汁っぽい風味を楽しみながら、オレは垢澤さんとの待ち合わせ場所へ向かった。



     2



 待ち合わせ場所として指定されたのは、うちのアパートの最寄り駅の改札から出たすぐ先にある、大した敷地面積もない駅前広場だった。

 垢澤さんは数駅離れた場所に住んでいるはずだが、相談に乗ってもらう身という理由で、こっちまで出向いてくることにしたのだと考えられる。


 駅前広場に着くと、すでに垢澤さんの姿があった。

 垢澤さんは潔癖症で真面目な女性だ。時間に遅れるなんてことは、まずありえない。

 それでオレも少し早めに出てきたのだが、さらに早いとは。まだ指定された時間の十五分前だというのに。


「垢澤さん、こんにちは。待たせたかな?」

「あっ、こんにちは、佐々藤さん。私も今来たばかりですから、気にしないでください。というか、休日なのにわざわざすみません」


 軽く挨拶と世間話をしたあと、


「それじゃあ、行きましょうか。こっちです」


 垢澤さんはオレを先導して歩き出した。

 今日オレを呼んだ目的は、仕事に関する相談をすることにある。どこかで腰を落ち着けて話すつもりなのだろう。

 迷いもなく歩いていく垢澤さん。どこで相談するかも事前にしっかりと決めてあったに違いない。


 ただ――。


 垢澤さんは、やけに細い路地へと入っていく。

 晴れている日の真っ昼間であってもひどく薄暗い、湿った空気の漂う路地裏に……。


 ひとりきりで通るのは絶対に遠慮したい、怪しげな雰囲気の路地。

 最寄り駅からほど近い場所に、こんな路地が存在していたことにも驚きだが。

 雰囲気的にまったく似合わない寂れた路地を、垢澤さんが躊躇する様子も見せず颯爽と歩いてくことに、オレは戸惑いを隠せなかった。


「垢澤さん、本当にこっちでいいの?」

「はい。黙ってついてきてください」


 問いかけても、有無を言わせぬ勢いで言い返されるのみ。

 口を閉ざしてついていく以外の選択肢は、今のオレには用意されていなかった。


 会社の人間には聞かれたくないから、静かな場所で相談に乗ってもらう。

 そういう意図だとすれば、納得できないわけではない。

 だとしても、ここまで怪しい路地を通る必要などない気がする。


 この道は、単純に近道だから通っているだけ。

 そう考えたいところだったが、


「着きました、ここです」


 垢澤さんは寂れた路地の真っただ中にある一軒の店を指差した。

 全体的に古ぼけた印象の建物で、一見しただけでは営業中かどうかすら判断できない。

 薄汚れて読みにくいが、店名はかろうじて確認できる。


『カフェ・ブラッド』


 喫茶店のようだが、名前からしてもかなり怪しい。

 その店のドアを、垢澤さんはやはり迷いなく開けると、中に身を進めていく。


「佐々藤さん、ここですよ? どうぞ、入ってください」

「あ……ああ」


 オレは冷や汗を垂らしながらも、垢澤さんに続いて店内へと足を踏み入れた。




「いらっしゃい……」


 店の奥にいるマスターらしき男性が、ぼそぼそっと声をかけてくる。

 見る限り、他に従業員らしき人はいない。

 完全にマスターが個人でやっている喫茶店なのだろう。


 どうしてこんな寂れた路地裏に店を出したのやら、とは思うが。

 オレたち以外に客の姿もないみたいだし。

 この店、大丈夫なのか?


「奥の席、使いますね」

「はいよ……」


 垢澤さんは、常連なのだろうか、そう言って店の一番奥の席へと歩いていく。

 無論、オレもあとを追う。

 席に着くと、マスターが水の入ったコップを持ってきてくれた。


「あっ、どうも」

「メニューはそちらに……。では、ごゆっくり……」


 話しかけられるだけで、背筋に寒気が走る。

 オレの気の持ちよう、といった部分もあるのかもしれないが……。

 少なくとも、接客業に従事する身として、あんな低いテンションではダメなんじゃ……。


 と、マスターのことは、この際どうでもいいか。

 垢澤さんはテーブルを挟んで正面の席に座っている。

 今日は相談に乗るということでここまで来たのだから、垢澤さんの話をしっかり聞いてやらないと。


「それで、相談ってのは?」

「えっと、その前に飲み物でも頼みましょう。今日は私がおごりますね」


 垢澤さんはマスターを呼び、「いつもの2つ」と注文する。

 本当にこの店の常連なんだな。


 注文した飲み物が届くまで、沈黙したまま待つ。

 垢澤さんがなにも喋らないから、でもあったのだが。

 おそらく、相談の途中でマスターが来たら気まずい、と考えているのだと推測できる。


「お待たせしました……」


 コトリ、と。

 テーブルに2つのグラスが置かれる。


 気配をまったく感じさせずに近づいてくるのは、やめていただきたいものだ。

 心臓が止まりそうになる。


 それはともかく。

 マスターは2つのグラスをテーブルに置くと、すぐにカウンターのほうへ戻っていった。

 グラスには真っ赤な飲み物が入っている。


 トマトジュースとか野菜ジュースとか、そんな感じだとは思うが。

 カフェ・ブラッド、という店名が思い出される。

 よもや、本当に人間の生き血だったりして……。

 怖い想像が浮かぶ。


「これは?」

「美味しいですよ。どうぞ」


 垢澤さんに恐る恐る尋ねてみたが、答えはわからずじまい。

 とはいえ、垢澤さんも同じ真っ赤な飲み物を飲んでいるのだから、なにか変な成分が入っているということもないだろう。

 オレはストローを使ってジュースをすする。

 確かに、美味い。甘味と酸味が絶妙な、新鮮なトマトジュース、といったところか。


「まぁ、カクテルなんですけど」

「アルコール入りかよ!」


 べつに悪いとは言わないが。

 昼間から飲むことになるなんてな。

 ぽよ美には飲みすぎるなと言っておきながら。


「いいじゃないですか。美味しいでしょ?」

「まぁ……そうだな」


 店内は空調が効いていて、かなり涼しいのだが。

 ほんのりと全身が温かくなってくるのが感じられた。

 アルコールの効果が、早速出てきているようだ。


「実はこの店、物の怪とか妖怪とか、そういった存在だけしか入れないんです」

「オレ、入ってるけど!?」

「私と一緒でしたから。マスターも普通の人間じゃなくて、吸血鬼なんですよ。といっても、血を吸われたりなんてしませんから、安心してください」

「そ……そうか……」


 安心……していいのかは疑問が残る。


 それはさておき。

 ここから本題である、垢澤さんの相談に乗る、という流れになっていったのだが。


 先日ちょっと失敗してしまったんですけど、とか。

 どうしても苦手な部分があるんですが、いい対処法があれば教えてもらえませんか? とか。

 会社に提出する書類の書き方がわからなくて、とか。

 相談の内容は、こう言ってはなんだが、取るに足らないようなものばかりだった。


 いや、こうして相談してきている以上、本人は悩んでいるはずだし、オレとしても親身になって答えてはいたのだが。

 どこをどう考えても、こんな怪しげな喫茶店に足を運んでまでする相談とは思えなかった。


 垢澤さんは、なにかもっと大きな、別の相談を抱えているのでは?

 この小さな相談の数々は、その最後の相談の前のクッション的な役割でしかないのでは?

 オレはそんなふうに想像していた。


「垢澤さん……。それで、本当に相談したいことは、なんなのかな?」

「…………」


 直球の質問を繰り出してみると、垢澤さんはさっきまでとは一転して、押し黙ってしまう。

 やはり、思ったとおり、ということか。


「…………」


 垢澤さんはメガネ越しの上目遣いで、じっとオレを見つめてくる。

 こうして見ると、結構可愛らしい顔立ちではあるんだよな。


 以前にはいきなり、オレの二の腕やほっぺたを舐めてきたことまであったっけ。

 まぁ、垢舐めとしての習性ということになるが。

 ここ最近は、舐められたりしていなかった。


 べつに垢舐めの習性が薄れたわけではないだろう。

 冬場は汗をかかないから、垢がこびりついていることもなかっただけだ。


 たまには、舐めてくれてもいいのにな。

 垢澤さんに舐められるのって、なかなか気持ちよかったりするし。


 ……………………。


 んっ!?

 垢澤さんに舐めてもらいたいだなんて……オレはいったい、なにを考えてるんだ!?


 そうか、カクテルのせいか!

 甘味の強い飲みやすいカクテルだからといって、アルコール分が少ないとは限らない。

 それで酔いが回って、妙な思考が浮かんできたんだな!?


「そろそろ、効いてきたみたいですね」


 ……おや?

 垢澤さんが、おかしなことを言っている。


「上手くいきましたか……?」

「たぶん」


 マスターまで、近寄ってきている。

 な……なんだ、この状況は?

 まさか、カクテルの中に毒でも混ぜられていた……!?


 垢澤さんが席を立ち、ゆっくりとオレに近づいてくる。

 オレの頭のほうへ、そっと手を伸ばしてきたところで、


「垢澤さん、どういうことだ!?」


 力いっぱい叫んだ。

 若干ぼやけたままだった頭を、ハッキリさせようという意図もあったのだが。

 オレの様子を見て、垢澤さんとマスターは目を丸くしている。


「佐々藤さん……どうして!?」

「それはこっちのセリフだ!」


 そんな中、


「ダーリン、平気!?」


 血相を変えたぽよ美が、喫茶店の中へと飛び込んできた。



     3



 ぽよ美は今、『カフェ・ブラッド』でオレたちと同じテーブルの席に着いている。

 オレの横にぽよ美、そのさらに隣に冷華さんが陣取る形だ。

 そして、テーブルを挟んだ反対側の席には、垢澤さんとマスターが神妙な面持ちで座っている。


 ぽよ美が言うには、今日はオレをずっと尾行していたのだという。


「昨日ね、羽似ちゃんと電話でお喋りしてたのよ。そしたら、次の刺客が狙ってそう、っていう話になって……」

「刺客? いや、でも……垢澤さんは女神ハイツの住人じゃないよな?」

「いいえ、引っ越したのよ。つい最近だけど」


 垢澤さんはあっさりと認めた。

 つまり、メリーさんに指示され、刺客としてオレをここに呼び出した、ということだったのだ。


 また、マスターも垢澤さんとグルだった。

 マスターはメリーさんと旧知の仲で、ある意味手下のような感じになっていたのだとか。


「めがみんは昔から、女王様というか、ガキ大将的立ち位置にいた……。命令されたら、今でも逆らえない……」


 メリーさんを『めがみん』と呼んでいるのだから、昔からの知り合いだというのは確かなのだろう。

 それは先日、メリーさんの恩師である麻穂お婆さんが呼んでいたあだ名だ。

 とすると、マスターはスペシウム学園でメリーさんの同級生だったと考えられる。


 なお、先ほどオレに飲ませたカクテルには、毒が混入されていたわけではなかった。

 愛する人への想いを強制的に断ち切り、目の前の女性にメロメロになるパワーを注入した、マスター特製のカクテルだった。

 だからあんな、妙な思考が浮かんできたりしていたのか。


 ただ、本来ならば完全に催眠状態に入るはずなのに、オレはそうなっていなかった。

 その原因は、ぽよ美にあった。


「行ってらっしゃいのチューで、あたしの粘液とかだ液とか、たっぷり流し込んでおいたからね~。物の怪や妖怪なんかが持つ特殊な力を弾き返すような、バリアの役割もあるのよ~!」


 あのゼリー状の物体に、そんな効果があったとは。


「だが、オレは今日、仕事関連の相談に乗るために垢澤さんと会う、って言って出かけたよな? 垢澤さんが刺客だってこと、ぽよ美は気づいていたのか?」


 もしそうなら、助言くらいしてくれてもよかったと思うのだが。


「ううん、知らなかったよ~。でもね、ダーリンが出かけたあと、気になって垢澤さんのケータイに電話してみたんだけど、全然出てくれなくて。それで、なんか怪しいな~って思って、尾行することにしたの!」

「そうだったのか。それにしても、ぽよ美が尾行なんて……よく見つからずに実行できたよな」


 以前、オレが垢澤さんと浮気していると勘違いしたぽよ美が尾行したときには、明らかにバレバレだったのに。


「今日はほら、冷華さんが一緒だったから!」

「ぽよ美さんが熱くなりそうになったら、私が吹雪を吐き出して冷ましてたの」

「なるほど」

「このカフェに入ったときも、すぐに怒鳴り込もうとするのを、必死で止めたのよ。お客さんも全然いないから、店の中にも入れなくてね、外からずっと様子を見ていたの」

「でも、垢澤さんがダーリンに近寄っていって、これ以上は我慢できないって思って、飛び込んできたの!」


 ともかくこれで、それぞれの行動と意図は理解できた。

 垢澤さんはオレを騙し、おかしなカクテルを飲ませたことになるが。

 それはメリーさんの指示。悪いのは全部、メリーさんだ。


 オレは改めて、垢澤さんに声をかける。


「まったく……。いくら相手が大家さんだからって、言いなりになることなんてないのに」

「私は……その……利害の一致もあったというか……(ごにょごにょ)」

「ん?」

「い、いえっ! なんでもありません! 命令だったとはいえ、こんなことをしてすみませんでした!」


 涙を必死に堪えたウルウルした瞳を向けながら言ったのち、垢澤さんは大きく頭を下げる。

 素直に謝ってくれているのだから、今回の件は不問ということで構わないだろう。


 しかし、続いてぽよ美のほうへと向き直った垢澤さんは、なにやら憎しみのこもったような鋭い視線をぶつける。


「ぽよ美さん……私、負けませんから!」

「ふえっ? なんのこと~?」


 ぽよ美自身は、よくわかっていない様子だったが。

 かなり前、垢澤さんに関して、海端から言われたことを思い出す。


『あれは絶対、佐々藤に好意を持ってる感じだね! 不倫騒動に発展しないといいけどな!』


 そう言われたあと、オレが垢澤さんの買い物につき合って、ぽよ美がバレバレの尾行をする、というひと幕があったことになる。

 あのときはデートやら不倫やらではなかったと、ぽよ美も納得してくれた。

 だが、他に頼める人がいなかったとはいえ、垢澤さんがオレを頼ってくれたのは紛れもない事実。


 まさか、垢澤さん……。

 ぽよ美からオレを奪い取ろうとか、そんなことを考えているんじゃ……。

 恐ろしい想像が脳裏をかすめる。


 いや、そんなことはない。

 垢澤さんは、単なる会社の後輩だ。

 年上で席も隣のオレを頼ってくれたって、なにも不思議ではない。


 メリーさんが大家をしている女神ハイツの住人になったというのは、かなりの不安要素だと言えなくもないが……。

 オレはこの件について、あまり深く考えないことにした。


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