第3話 隣人の奥様は冷やし中華がお好き
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「はぁ……、今日も疲れたな」
仕事帰り、駅から自宅アパートへと向かう道中。
オレは出会ってしまった。
神を名乗る、あの人に――。
などと意味深に語るのも無駄なので、さくっと明かしてしまえば、それは同じアパートに住む隣人だった。
低橋薄微神さん。
薄くて微妙な、と少々控えめではあるものの、神とつく名前だなんて、この人の親はいったいなにを考えていたのか。
そのせいで、「俺は神だ!」などと名乗る痛い人間が創造されてしまったのだから、責任はやはり両親にあると言うべきだろう。
……いや、本人の心の問題か。
「おお、今帰りか、心の友よ!」
「ジャ○アンですか、あんたは」
その神を名乗る痛い隣人から、気軽に声をかけられた。
おそらくバイト帰りなのだろう。
低橋さんは32歳。自称ミュージシャン。生計はバイトで立てている。
なんというか、俺は神だ! という痛い発言だけでなく、根本的に色々とダメダメな人、という印象でしかない。
そんな状況にもかかわらず、既婚。
オレとぽよ美が暮らすアパートの隣の部屋で、綺麗な奥さんと一緒に生活している。
「明日は土曜だし休みだろ? どうだ泉夢、今から、くいっと一杯」
おちょこでお酒を飲む仕草で誘ってくる低橋さん。さも当然そうな顔で、こう続ける。
「お前のおごりで」
5歳年下のオレにたからないでください、とはさすがに言えない。
自業自得な気もするが、バイトで生計を立てている現状を考えれば、オレのほうがまだ金銭的に潤っているはずだ。
もちろんオレだって、全然余裕なんてないのだが。
それはともかく、おごりだろうとなんだろうと、道草を食うわけにはいかない。
家には愛するぽよ美が待っているのだから。
……というか、飲んで帰ろうものなら、溶解の刑が待っている。
「嫌ですよ。だいたい低橋さんだって、真っ直ぐ帰らないと奥さんが怖いでしょ?」
「はっはっは……そうだな……。氷漬けの刑に処される可能性大だな……」
「ま、うちも似たようなもんですけどね」
「お互い大変だな」
図らずも、ため息の音がかぶる。
オレの妻であるぽよ美はスライムだ。
そんな変わった伴侶を持つ夫など、オレ以外にそうそういないだろう。
と思っていたのだが、世の中というのは意外と自然ならざる現象で溢れ返っているものなのかもしれない。
低橋さんの奥さん――冷華さんは、実はレイスなのだ。
一般的に、あまり想像できないかもしれないので補足しておくと、レイスというのは西洋でいう幽霊の一種だ。
それにしても、幽霊と結婚なんかできるものなのだろうか。スライムと結婚しているオレが言うのもなんだが。
とにかく、オレたちふたりは当然ながら、寄り道なんてすることなく、まっすぐに家へと帰った。
無論、ぽよ美が笑顔で出迎えてくれる。
こうして愛する妻の顔を見ると、やっぱり安心するな。
低橋さんは自称ミュージシャンとはいえ、まったく芽が出る気配はない。
ときどきギターを弾きながら歌う声なんかも聞こえてくるのだが、まぁ、言っちゃ悪いが、騒音公害としか思えない。
近所迷惑だというのは、レイスである冷華さんでもわかっているのだろう、すぐに女性の怒鳴り声や様々な音(主になにか硬い物体が壁、もしくは誰かにぶつかったような打撃音)が響き、歌は止まることになるのだが。
不意に、アパートの隣の部屋から歌声が聴こえてきた。
あっ、低橋さん、今日もまた歌ってるな……。
と思った瞬間、
「何時だと思ってるのよ! 絶対零度で氷漬けにされたいの!?」
予想どおり、金切り声とともに皿の割れる音などが響き渡り、すぐに歌声は途切れた。
歌声こそ途切れたものの、冷華さんの怒鳴り声や打撃音なんかはしばらく続くことになるだろう。
「うわ……、またやってるよ。うちはあんなふうにはならず、仲よくやっていこうな、ぽよ美」
「ふふっ、でも冷華さんたちも、あれで結構仲よくやってるんだよ~?」
ぽよ美は柔らかく微笑んだ。
家の中でくつろいでいる状態だから、言うまでもなくスライム形態で、だったが。
2
翌日、休みなのでゆったりまったり過ごしていたオレの家に、冷華さんが訪問してきた。
「これ、たくさん作ったから、おすそ分け。よかったら食べてね」
ニコニコニコ。
昨晩の怒鳴り声からは想像もできない、きらびやかな笑顔をたたえている。
うん、外ヅラのよさは、相変わらず最高だ。
冷華さんは、長いストレートの髪もすごく似合っていて、見るからに美人。
かなり幼い印象を受けるぽよ美とは対照的に、大人の女性といった感じだった。
なお、低橋さんの2つ下という話だから、年齢は30歳ということになる。
そんな冷華さんがおすそ分けとして持ってきたのは、冷やし中華だった。
低橋さんから聞いた話では、1年365日、冷華さんの手料理は毎日、冷やし中華なのだそうな。
といっても、外食をすることだってあるはずだし、低橋さん自身はバイトの合間の食事で別のメニューも食べると言ってはいたが。
「わっ、美味しそう~♪」
ぽよ美は、ヨダレをだらだらと垂れ流している。
普段から粘液をべちゃべちゃまき散らすスライムだからなのか、液体が漏れ出すことに関しては激しく無頓着なようだ。
ちなみに、隣人とはいえ他人が訪ねてきている状態なので、ぽよ美は今、人間の姿に変身している。
「せっかくだから、上がっていって~!」
「それじゃあ、遠慮なく……」
おすそ分けを持ってきただけのはずなのに、うちに上がるのか……。
そんなツッコミは入れない。というか入れられない。
ぽよ美と夫婦水入らずの時間が減るのは、少々残念ではあったのだが。
「ハクは今日もバイトだから、退屈だったのよ」
そう言いながら、冷華さんはオレたちの家に上がり込む。
ハクというのは低橋さんのことだ。薄微神のハク。
オレとしては宮崎駿監督の某アニメを思い出してしまうのだが、低橋さんはあのキャラとは似ても似つかない。
ぽよ美が言うには、どうやら平日の昼間、オレがいない時間帯にも、冷華さんはよくこうして家に遊びに来ては居座っているのだとか。
なんというか、少しでも光熱費を浮かそう、という魂胆が見え見えだ。
もっとも、低橋さんのバイト代だけで生活している現状では、可能な限り節約しないとやっていけないのだろうが。
どうでもいいが、今日もバイトがあるのにお酒を飲みに行こうなんて言っていたのか、昨日の低橋さん。
考えれば考えるほど、ダメダメな人だ。
あんな感じで、将来は大丈夫なのだろうか。
「冷華さん、あんな人のどこがいいんですか?」
ぼそっと質問してしまった。その途端、
「あんな人ですって~!?」
冷華さんの顔は鬼の表情を宿す。
しまった! 冷華さんはなぜか、低橋さんにベタ惚れなんだった!
とはいえ、さすがに将来が心配すぎるし、冷華さんの勢いに気圧されながらも進言してみる。
「いや、あの、ほら、自称ミュージシャンといっても、正直ちょっと、なんというか、成功しそうもないというか……」
「いいのよ、愛してるから!」
言いきった!
清々しいくらいの即答は、夫婦として素晴らしいと賞賛してもいいほどだ。
と思ったら……。
「殺したいほど愛してるから!」
怖っ!
愛が重いというのは、こういうことを言うのだろうか。
「あ……あたしだって、ダーリンを溶かしたいほど愛してるもん!」
「対抗するな!」
というか、溶かされてたまるか! オレは生き抜いてみせる!
……なんだか話はおかしな方向へと脱線してしまったようだ。
3
冷華さんはまるで自分の家のように、オレの家に居座っていた。
なるほど、よく遊びに来ているというのは確かなのだろう。
と、そこへ、もうひとりの人物が乱入してくる。
「冷華~、今帰ったぞ~!」
「あっ、お帰りなさい、ハク♪」
バイトから帰ってきた低橋さんに、すかさず抱きつく冷華さん。
ラブラブっぷりを見せつけてくれる。
……って、ちょっと待て!
「どうして低橋さんがうちに来るんですか! その格好からすると、まだ自分の家のほうにすら帰ってないですよね!?」
「フッ……。愛する妻の居場所なんて、すぐにわかるってことさ」
「つまり冷華さん、毎日のようにうちに来てるってことですか!?」
「……てへ♪」
「てへ、じゃないです! 年齢を考えてください!」
冷華さんへのオレのツッコミも、すごく失礼な上、かなりズレていたわけだが。
そんな様子を眺めるぽよ美は、心から楽しそうに笑っていた。
ぽよ美はスライムだから、他人と顔を合わせるなんてことは基本的にできない。
自然と家の中にこもりっきりになる時間が長くなってしまう。
だからこそ、こうやって他の人も交えて笑い合える状況を、心から嬉しく思っているのだろう。
低橋夫妻は、かなりおかしな夫婦ではある。
だが、オレとぽよ美にとっては、最高の隣人と言えるのかもしれない。
「せっかくだから、今日はうちで夕飯も食べていって!」
ぽよ美の提案に、ふたつ返事で頷く低橋夫妻。
夕飯代も浮かそうという魂胆か。
ま、べつにいいのだが。誘ったのは、ぽよ美なわけだし。
それに、
「大勢のほうが楽しいですしね」
若干の諦めも含みつつ、オレは宣言する。
「俺の歌も披露できるしな!」
「それはいりません」
「いじいじいじ……。いいんだ、俺なんて……」
低橋さんは廊下にしゃがみ込んで、「の」の字を書き始めてしまった。
まったく……めんどくさい人だ。
さて、夕飯をうちで食べることになったわけだが。
冷華さんからおすそ分けとして冷やし中華をいただいて食べたとはいえ、代わりにぽよ美の手料理を出すのはちょっと避けたい。
なにせ絶対に粘液まみれになるし、ぽよ美の指(?)の一部が混入したりもするし。
というわけで、オレはピザを注文することにした。
痛い出費ではあるが、これくらいは仕方がないと思っておこう。
4
ピザの他に、買い置きしてあったビールも振る舞い、全員で飲めや歌えやの大騒ぎ。
……いや、低橋さんには歌わせなかったが。ミュージシャンを自称するだけあって、声量がすごいからだ。
ぽよ美や冷華さんの鼻歌というのも、かなり微妙な感じではあったが、まぁ、騒音公害レベルにまで達してはいないだろう。
人間形態になっているというのに、酔っ払ったからなのか、ぽよ美はべろんべろんを通り越してべちょんべちょんになっている。
半分スライムに戻りかけているような微妙な状態だ。
これ以上飲んだら、顔も体もドロリととろけていって、とってもグロテスクな光景になってしまわないとも限らない。
ちなみに、〆はラーメンだよな! という低橋さんの意見で、有無を言わさず別途ラーメンまで注文していたのだが。
酔っ払ってそれどころではないらしく、結局誰も手をつけていないという、もったいない状況となっていた。
頼んだラーメンはふたつだけだったものの、オレがひとりで食べきれる量ではない。
というよりも、すでにピザでおなかいっぱいだ。
もったいないが、状況が状況だし、諦めるしかないだろう。
と、ここまではとても楽しく過ごしていたわけだが。
事態は急変する。
低橋さんと冷華さんの夫婦喧嘩が始まってしまったのだ。
「あんた、人間としてダメダメなのよっ! もっと給料を持ってきなさい!」
…………。
酔っ払っている勢いもあったのだろうが、冷華さん、
「やっぱり不満に思っていたんですね」
「なんか言った!?」
「い、いえ……!」
思わずこぼれ落ちていたオレの言葉にも、しっかり反応してきた。
そして、さらなる攻撃が開始される。
「お前らまとめて、凍らせてやる~!」
うわっ、とばっちり! ……でもないか。
そんなことより、
「それって雪女じゃ……」
「雪女言うな~! 私はレイスよ~っ!」
再び無意識的にこぼれ落ちていた言葉にも、冷華さんは鋭く反応。
反論を返しながら、口から吹雪を吐き出す。
雪女以外のなにものでもないじゃないですか!
口が凍りついてしまい、そんなツッコミの声すら満足に出せない。
オレの横では、低橋さんも一緒に雪まみれになっていた。
このままでは死を覚悟するしかなくなってしまう。
なんとか閉ざされていた唇を開け、オレは低橋さんに対して文句の声を飛ばす。
「低橋さん、どうにかしてくださいよ……。このままじゃ、愛するぽよ美まで凍ってしまいます……」
「しかし、こうなったらもう、手がつけられんのだ」
「そんな……!」
ぽよ美が凍ってしまう以前に、オレの命のともしびも消えかかっていたわけだが。
「そうだ、低橋さん。口から吹雪を吐いてるんですから、雪女さんの……じゃなかった、冷華さんの口を塞げばいいんですよ」
「どうやって?」
「どうやってってあんた、夫婦なんだから、わかるでしょう? キスですよ、キス」
「俺、死んじまうよ。やだよ、あんな冷たい唇」
「愛する奥さんに向かって、なに言ってんですか、あんたは! っていうか、ものすごい形相で睨まれてますって!」
「つーかお前がすれば?」
「ちょ……っ!? なんてことを! 自分の妻の唇が他の男に奪われてもいいって言うんですか!?」
「したいならすればいいだろ? 許可してやる」
「許可って……あんた最低です!」
「したいの……?」
オレと低橋さんの言い争いに、突如として別の声が割り込んできた。
それはもちろん……。
「ぽよ美!? い……いや、オレはぽよ美以外とキスする気なんてないけど!」
「けど……? けど、なに? 頭の中は読めたわよ? 冷華さん、綺麗だもんね~。キスくらいなら、なんて考えてるんでしょ~? いやらしい。これだから男って生き物は……」
「いやいやいやいや! そんなこと思ってないから!」
夫婦喧嘩というものは、伝染してしまうものなのだろうか。
「あ~、もう、なんだよこの状況!」
オレは頭を抱える。
だが、
「そんなにカッカするなって。でもま、お前の熱気のおかげでほら、部屋の温度はしっかりと上がったぞ」
低橋さんが冷静な声で指摘してくる。
その言葉どおり、吹雪によって部屋の中に積もり始めていた大量の雪は、すっかり消え去っていた。
消えたというよりも、熱気で溶けてしまったのだろう。
「俺の作戦どおりだな」
にやり。
したり顔の低橋さん。
「作戦どおりだな、じゃないです! なんなんですか、これは!? そもそも、熱気で雪女の吹雪を溶かせるわけないじゃないですか!」
「雪女じゃなくてレイスだって、何度言えばわかるのよ、まったく……」
文句を吐き出す冷華さんは、もう吹雪は吐き出していない。
どうやらすでに頭も冷え、正気に戻っているようだった。
「それじゃあ、そろそろ帰るわね。ちょうど冷やし中華もできたことだし」
ふと見てみれば、誰も手をつけずに残されたままだったラーメンは、吹雪によって完全に冷たくなっていた。
それは冷やし中華じゃなくて、冷めたラーメン……でもなくて凍ったラーメンです!
ツッコミの言葉をぶつける気力は、今のオレには残されていなかった。
ふたつのラーメンドンブリを持って、我が家をあとにする低橋さんと冷華さん。
もしかして、最初からすべて作戦だったのか!?
冷華さんがあんなに怒ったのは、ラーメンを凍らせるための演技だったとか!?
さらには低橋さんがオレと口論し始めたのも、ラーメンが凍るまでの時間稼ぎだった!?
真偽のほどは定かではないが。
ともかく、うちの隣人はとっても厄介な夫婦だということを、今さらながらに思い知らされるのだった。