第37話 ツルの恩返し
1
とくにどこに出かけることもなく、愛する妻と飲みながらお喋りなどを楽しむ。
そんな休日を過ごした土曜日の夜。
不意に、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「ん? こんな時間に、誰だろう」
「あたし、出るよぉ~! ひっく!」
「ぽよ美、お前は出るな!」
酔っ払っているから、という理由だけではない。
ぽよ美は言うまでもなく、スライム形態でドロドロにとろけていたのだ。
こんな姿を誰かに見られたら大変なことになる。
尋ねてきたのが同じアパートの住人であれば、なんの問題もないわけだが。
「はい、どちら様ですか?」
言いながらドアを開けてみると、そこにはメガネをかけたおとなしそうな女性が立っていた。
年の頃は、二十歳前後、といったところか。
ただ、オレに面識はない。
とすると、ぽよ美の知り合いなのか?
女性はオレの姿を確認するやいなや、こんなことを言い出した。
「すみません。今晩、泊めてください!」
「ダーリン! 誰よ、この女は!? がるるるるっ!」
ぽよ美がドッカドッカと大きな足音を響かせながら、玄関にいるオレのほうへと詰め寄ってきた。
無論、人間の姿に変身している。
「オ……オレも知らないって!」
「ほんとにほんと!?」
「ほんとにほんとだ!」
この様子から察するに、開け放ったドアの向こう側にいる女性は、ぽよ美の知り合いでもないのだろう。
では、何者なのか。
そんなの、直接本人に聞けばわかる。
「えっと……どうしたんですか?」
「私、道に迷ってしまって、ほとほと困り果てていたんです。突然の大雪で動きも取れなくなってしまいましたし……」
「いやいやいや、雪はありえないでしょ!」
思わずツッコミを入れる。そもそも今日は、夜になってもまだ暑いくらいだ。
ただ、よくよく考えてみれば、それはこの界隈に限って言えばありえない話ではなかった。
冷華さんは頻繁に吹雪を吐き出しているし、雪女の雪子さんだって近所に住んでいることになる。
とはいえ。
この女性が怪しいのは疑いようもない。
なにせ、オレの部屋はアパートの二階にあるのだから。
道に迷い、気象条件的に動けない状態に陥ったとしても、助けを求めるなら一階の部屋、もしくは近所の別の家を訪ねればいい。
二階にあるオレの部屋まで来ている以上、なんらかの意図が存在するとしか考えられなかった。
「ちょっと、そこで待っていてください」
女性を玄関の中まで招き入れたところで、待機しておいてもらえるように言い残し、オレとぽよ美は一旦リビングへと引っ込む。
「あの人、絶対に怪しいよな」
「うん、怪しすぎるよね!」
「ぽよ美が怪しいって言うくらいだから、相当だよな」
「えっ? どういう意味?」
「まぁ、気にするな。ともかく、泊めてほしいと言ってはいるが、悪いが帰ってもらおう」
「うん。それがいいと思う」
小声で相談を終え、オレたちは玄関まで戻ったのだが。
カタカタカタ。
木製のでっかい物体が、そこにはあった。
「あ、遅いので勝手に始めさせてもらっちゃいました!」
女性はその物体に備え付けられた椅子に座り、せっせと手を動かしている。
どうやらそれは、はた織り機のようだ。
周囲の床には、なにやら羽根らしきもの……というよりも、完全に鳥の羽根にしか見えないものが、無数に散らばっている。
「これは、あれか! ツルの恩返しか!」
ツルを助けた記憶など、オレにはないのだが。
ぽよ美はぽよ美で、とぼけたことを口走る。
「ああ、もう! こんなに散らかして! お掃除が大変じゃないの!」
お前の粘液だらけのこの家で、今さらなにを言ってるんだか。
新婚の頃はせっせと掃除もしていたが、ここ最近はめんどくさがって、軽くコロコロする程度でしかなくなっているというのに。
しかも、粘液でベチャベチャの床だから、コロコロなど大した効果を発揮していないし。
おっと。はた織り機と散らばった羽根に驚いて、思考があらぬ方向へと逸れてしまった。
ここは心を鬼にして、女性には帰ってもらわないと。
「とにかく、そういうのは間に合ってるから! 帰ってくれ!」
「あら?」
そこでなにかに気づいた様子を見せ、女性がオレに近寄ってきた。
自分のかけているメガネに指を添え、じーっとオレの顔を見つめる。
うっ、近い。
見ず知らずの女性とはいえ、少々ドキドキしてしまうな。
「ちょっと、ダーリン!?」
「あ……いや、なんでもないぞ!?」
ぽよ美の嫉妬を多分に含んだ思念を感じ取ったオレは、慌ててごまかす。
そんなオレに対し、女性がひと言。
「あなた、誰!?」
それはこっちのセリフだ!
2
詳しく話を聞いてみたところ、この女性、オレではなく低橋さんの部屋を訪れるつもりだったのだと判明した。
女性の名前は、織部ツル子。
はた織り機の一件で想像できたとおり、正体はツルだった。正確には、ツルの物の怪、といった感じだろうか。
先日、翼を傷めて困っていたら、たまたま通りかかった低橋さんが優しく介抱してくれたらしい。
後日お礼をしたいと考え、女性は家の場所を教えてもらっていた。
コーポ錠針の205号室。
それはしっかりメモしてあったのだが。
「私、ものすごく目が悪くて。メガネは必需品なんですが、今日、うっかり壊してしまったんです。急いでメガネ屋に行って新調してきたんですが、度が合ってなくてよく見えないんですよね」
とのこと。それで間違えて、隣の206号室であるオレたちの部屋を訪ねてしまった、と。
メガネ屋のミスが原因ってことか。と思ったのだが、実際にはそうではなかった。
ツル子さんは適当に目についたメガネ手に取り、「これでいいです!」と言って代金を置いて店から飛び出した。
一刻も早くお礼に伺いたい。そのことしか頭になかったからだそうだ。
「どうしてそこまで……」
「私、恩返しが趣味なんです」
「趣味なのか……」
「私にとって、恩返しは生きがいであり、存在意義でもあるんです」
存在意義とまで言われたら、なにも反論できなくなる。
ま、なんにしても、今のオレにできることは、ただひとつだけしかない。
「低橋さんの部屋は隣だ。出てすぐ右の隣だからな? 今度は間違えるなよ?」
「ありがとうございます!」
ツル子さんは嬉々として飛び出していった。
羽根は周囲に散らばったままだが、はた織り機は残されていない。
あんなでかいもの、どこから取り出して、そしてどこに仕舞ったのか。
不可解ではあったが、物の怪やら妖怪やらの類に常識など通用しないだろう、と無理矢理自分を納得させておく。
「は~い、どなた~?」
「あの、私、大切な薄微神さんのためにこうしてやって参りました! お宅に泊めてください!」
隣の玄関先から、そんな会話が聞こえてきたのは、その直後だった。
もっと別の言い方があっただろうに。
呆れてしまうが、物の怪やら妖怪やらの類に常識など通用しないのは、先ほども考えていたとおりだ。
当たり前ではあるが。
そのあと、冷華さんのヒステリックな声が響き渡る結果となる。
まぁ、落ち着いて話せばすぐに誤解は解けるに違いない。
冷華さんの放った吹雪で凍らされた低橋さんが、夜になってもなお下がることのない今日の気温によって溶け出す頃にはきっと。
3
翌朝。
隣の低橋夫妻の部屋から、冷華さんの悲鳴のような声が聞こえてきた。
いつものことだ、とは思ったのだが。
なんとなく悪い予感がする。
オレはぽよ美を引き連れ、隣の205号室へと駆けつけた。
玄関にカギはかかっていなかった。
ドアを勝手に開け、侵入を開始する。
状況的に考えて許されるだろう。
さて、オレたちがリビングに足を踏み入れると。
そこでは低橋さんが凍っていた。
普段どおりの光景なので、それはスルー。
「冷華さん、どうしたんですか!?」
「こここここ、この女が……っ!」
冷華さんが指差す先には、ツル子さんの姿。
昨日は本当に、低橋さんの家に泊めてもらったようだ。
「ツル子さんが、なにかしたんですか?」
恩返ししたい。
そう言っていたのだから、悪い結果を及ぼすなどとは思っていなかった。
それは甘い考えだったことになる。
冷華さんに詳しい話を聞く。
昨晩、ツル子さんを家に上げ、泊めてあげたのは事実だ。
といっても、このアパートには客間として使える部屋などない。
寝室は低橋さん夫妻が使っている。
他に寝られるスペースといえば、リビングのソファーくらいしかないのが実情と言える。
「私はこのソファーでいいですよ。かけ布団だけ、貸していただけますか?」
ツル子さんは遠慮がちにお願いしてきた。
なんだ、意外といい子じゃないの。
冷華さんはかけ布団を手渡しながら、そう考えていたという。
そろそろ寝ましょうか。
低橋さんと冷華さんが寝室へと向かい、ドアを閉める際、
「おやすみなさい。ただ……朝になるまで、絶対にのぞいてはなりませんよ?」
と、リビングに残ったツル子さんが言ったのだという。
気にはなったものの、冷華さんは眠りに就いた。
レイスでもやはり寝るんだな。今さらだが。
日付けは変わって、今朝。
冷華さんが目が覚ますと、隣で眠っていたはずの低橋さんがいなかった。
先に起きることなどほとんどないのに……。
不思議に思いながらリビングに入った冷華さんは、衝撃的な光景を目にする。
ソファーに横たわり、布団をかけて眠っている人の姿があったのだ。
ツル子さんを泊めたのだから、それは当然なのだが。
当然ではない姿も、そこにはあった。
ソファーの上で横になっていたのは、ツル子さんだけではなく、低橋さんも含めたふたりだった。
まるでラブラブな恋人のように、ひとつのソファーの上でピッタリ寄り添い抱き合うように、ツル子さんと低橋さんが眠っていた。
冷華さんが悲鳴を上げたのは、それを発見した直後のことだ。
なにをやっているんだか、低橋さん。
というか、恩返しってそういうことだったのか?
ふたりとも裸ではないから、寄り添って寝ていただけ、といった感じだったとは思うが。
冷華さんは、低橋さんの首根っこをつかんで立ち上がらせ、ごちゃごちゃ言い訳してくるのも聞く耳持たず、問答無用で凍らせた。
そこへ、オレたちが駆け込んできた。
怒りを全面に押し出した冷華さんは今、次のターゲットはお前だ、とばかりにツル子さんを睨みつけている。
それなのに、ツル子さんのほうは至って落ち着いた態度を崩さない。
「私の趣味は恩を返すこと……。正確に言えば、恩をアダで返すことなんです」
ニコッと。
屈託のない笑顔をこぼしながら、ツル子さんはそんなことを言ってのけた。
4
「それでは、気が済んだので私はこれで……」
帰ろうとするツル子さんを、冷華さんが力づくで捕縛した。
冷華さんに脅され……いや、説得され、ツル子さんは真相を語ってくれた。
一緒にソファーで寝ていたのは、ツル子さんが寝室で眠っていた低橋さんを引っ張ってきたからだった。
低橋さんも冷華さんも眠りは異常なほど深いため、まったく気づかなかったらしい。
恩返しと称して既婚者に近づき、妻から旦那を寝取る。
そんなシチュエーションであれば、修羅場になるのは必至。
ツル子さんの目的は、その様子を見て楽しむことにあったのだ。
「本当は裸になっていたほうがよかったんですけど、寝ている人の服を脱がすのって難しくて。私も眠かったので、そのまま寝てしまいました」
「もしふたりとも裸になんてなっていたら、あなたは今頃この世にいないわ!」
冷華さんの怒りは一向に冷めない。
そりゃそうか。
で。
このところ立て続けだったこともあり、なんとなく予想はついていたが。
案の定、ツル子さんはメリーさんによって放たれた刺客だった。
「恩返しは私の趣味ですし、利害の一致というやつですね」
平然とのたまうツル子さん。
なお、目の前にいる敵(無論、ツル子さん)を今にも取って喰いそうな勢いの冷華さんは、ぽよ美によって「どうどう」となだめられている。
「大家さん……というか、メリーさんって呼んだほうがいいですかね? あの人には、アパートに住まわせてもらっている恩もありますから」
それで拒否はできなかった、と。
ツル子さんの趣味を考えれば、拒否できなかったというよりは、拒否しなかったというのが正しそうではあるが。
ここで、冷華さんがポツリと提案する。
「その恩もアダで返したら?」
ポン。
ツル子さんがハッとした表情で手を打つ。
「なるほど! それ、いいですね! 帰ったら試してみます!」
イタズラっぽい笑みをこぼすツル子さんを見て、冷華さんの機嫌もどうにか回復したようだ。
メリーさんは大変なことになりそうだが……。
刺客を送り込んだりしているのだから、自業自得だと思ってもらおう。
「ふぅ~、朝から疲れたな!」
「ほんとほんと。もうひと眠りしよっかな~♪」
オレたちが自分の部屋の前まで戻ると、ドアになにやら紙が貼り付けられてあった。
『隣の家を教えていただいた恩をお返しします。ツル子』
恩を返す。
ツル子さんの場合、それがどういう意味になるか。
わざわざ語るまでもない。
ドアを開けて家の中に入ると、そこは一面真っ白な世界に変貌を遂げていた。
真っ白くなっている原因。それは大量の羽根だった。
昨日は玄関の周囲だけだったが、今はトイレやら風呂場やらも含めたすべての部屋に、尋常じゃない数の羽根がうず高く積もっている。
いったい、いつの間にこんなことを。
不可解ではあったが、物の怪やら妖怪やらの類に常識など通用しないのは身に染みてわかっている。
そんなわけで。
ぽよ美がいると無駄だからという理由で我が家ではほとんどしない大掃除を、丸一日かけて大々的に敢行する羽目になるのだった。




