第15話 スライムは見た!
1
「ふぅ~。休日出勤は、やっぱり嫌だな」
ぼやきながら帰り道を行く。
クライアントの都合により、こうやって休日に出勤しなければならなくなる場合も少なくない。
その分、休日出勤手当てが出るとはいえ、できれば休日はゆっくりと休みたいものだ。
ともあれ、今日の仕事は緊急会議のみ。プロジェクトに関わっている一部のメンバーだけの出勤だった。
会議が延びることもなく、無事に終わったおかげで、オレはこうしてまだ夕方のこの時間に帰宅している。
明るいうちに会社から帰ってくるというのも、なんだか違和感があるな。
「ただいま~」
アパートまでたどり着き、玄関のドアを開けて部屋へと入る。
今日はぽよ美と一緒に出かけるつもりだったから、さぞやヘソを曲げていることだろう。
しまった、途中で手土産でも買ってくるべきだったか、と今さらながらに後悔しつつリビングへと足を踏み入れたのだが。
「ん……? どうした?」
どんな文句の言葉がぶつけられることか、と身構えていたオレの目に飛び込んできたのは、顔を真っ青にして、全身をぷるぷると震わせているぽよ美の姿だった。
緑色のスライム形態であるぽよ美。そんなぽよ美の顔色がしっかりとわかるようになっている自分に驚かなくもない。
いや、それよりも今は、ぽよ美が心配だ。
顔は完璧に青ざめ、体も小刻みに震えている。
ということは、前にもあったように風邪でもひいたか?
しかし、どうやらそういうわけではなかったらしい。
「ダーリン、あたし……見ちゃった!」
つまり、ぽよ美はなにかを見てしまって、それで怖くなって震えていた、ということだったのだ。
さて、真っ青になるくらいの恐怖、とすると……。
「冷華さんが低橋さんを本気で怒る場面を見たとか?」
「そうそう、雪女みたいにゴオオオオオオって吹雪を吐き出して、低橋さんは一瞬にして冷凍保存……って、そうじゃなくって!」
ノリツッコミが返ってくるとは思わなかった。
心底怖がっているみたいだったが、意外にも余裕はあったようだ。
頼りになる旦那のオレが帰ってきたことで安心してくれた、とでも思っておこうか。
「いや、ダーリンなんかじゃ全然頼りになんてならないし、安心できないけど~」
「心の中を読むなよ」
まったく、人間離れした奴だ。実際、人間じゃないが。
と、それはともかく。
「だったら、なにを見たっていうんだ?」
オレの問いかけで恐ろしい体験を思い出したのか、ぽよ美は再び体を震わせ始める。
「お……お化けだよぉ~! はう~、怖い~~~~!」
……スライムでも、お化けは怖いものなのか。
しかも、隣の部屋には西洋の幽霊である冷華さんまで住んでいる、こんな状況だというのに……。
そういえば、冷華さんは西洋の幽霊のはずだが、日本人みたいな名前なのは謎だな。
見るからに日本人とは思えない雰囲気の美人だし、実際には母国語でレイカという名前で、適当に漢字をあてているだけといった感じだろうか?
ま、そんなことはどうでもいい。
オレはぽよ美の様子を観察する。
「あたし、怖くてずっと震えてたよ~」
と言って頭を抱えているぽよ美だが、その傍らにはたくさんのビールの空き缶が転がっている状態だった。
怖くて震えていても、ビールは飲むんだな。それも大量に。
オレがそう指摘すると、
「てへっ♪」
ぽよ美は舌をぺろっと出し、可愛らしくおどけてみせた。
2
ぽよ美から詳しく話を聞いてみたところ。
今日、オレが出かけたあとすぐ、ぽよ美はゴミ捨てに行ったらしいのだが。
その帰りに、204号室に入っていく真っ黒い影のようなものを見たらしい。
オレたちの住んでいるアパートは2階建てで、1つの階に7部屋ずつある。
部屋の間取りも広くはないが狭いわけでもないし、アパートとしては若干大きめの規模と言えるのかもしれない。
ただ、すべての部屋が埋まっているということはなく、204号室は空き部屋となっている。
なお、4のつく部屋番号は使わないことも多いが、このアパートには普通に存在している。
空き部屋にお化けが入っていったと考えたぽよ美は、急いで家に戻り、それからずっとリビングで震えていたのだという。
……正確に言えば、ビールを飲みまくっていたはずなのだが、そのあたりについて言及するのはやめておこう。
オレとぽよ美が住んでいる部屋は206号室。問題の空き部屋は2つほど隣ということになる。
そのあいだに存在する205号室に低橋さん夫妻が暮らしている、という位置関係だ。
ちなみに反対側の隣になる207号室も空き部屋となっている。
他にも、104号室なんかは空き部屋だった気がするが、オレはよく把握していない。
とりあえず、現場を確認してみよう。
そう考えたオレとぽよ美は、204号室の前へと向かった。
一応、ぽよ美には人間の姿になってもらっている。アパートの廊下部分は、外から見られる可能性のある場所だからだ。
空き部屋だから当たり前だが、表札は出ていない。
ドアにはカギがかかっていて、チャイムを押してもドアを叩いても反応はなかった。
さらには階段を下り、外から204号室のベランダも確認してみたが、雨戸が閉めきられていて中の様子をうかがい知ることはできなかった。
「ぽよ美、ほんとに見たのか?」
「ダーリン、あたしを疑ってるの!?」
ぽそっとつぶやいてみたら、えらい剣幕で反論が返ってきた。
ぽよ美のことだから、酔っ払っていて幻覚を見た、という可能性もありえそうだが……。
その場合、ゴミ捨てに行く前から飲んでいたことになるが、ぽよ美はオレが出かけてすぐと言っていた気がする。
「う~ん。冷華さんにでも話を聞いてみるか」
「あっ、そうだね~。冷華さんち、205号室だし、なにか物音とかを聞いてるかも~」
というわけで、205号室を訪ねるオレたち。
なんというか、刑事にでもなった気分で、ちょっと楽しく思える。
「あら、いらっしゃい。(ずるずる) 今ちょうど、冷やし中華を食べていたところだったのよ。(ずるずる)」
1年365日、毎日冷やし中華を食べているという冷華さん。
1日3食、だけでなく、おやつと夜食も冷やし中華なんだとか……。
と、冷華さんの偏食については、この際置いておくとしよう。
「旦那さんとふたりで食べてたの~?」
「ハクは今日はバイトよ」
「そうなんだ~。頑張ってるんだね~!」
「ま、頑張ってもらわなきゃ、家計が苦しいし……」
ぽよ美がなにを思ったか、いきなり世間話を始めてしまった。
普段からよく一緒に酒盛りをしている、仲のよいふたり。顔を合わせれば、自然と会話が弾むのだろう。
とはいえ、そのまま女同士の長話に発展しても困るので、オレはすかさず言葉を挟む。
「冷華さん、今日、隣の部屋でなにか怪しい物音を聞いたりとかしませんでしたか?」
「ん~?(ずるずる) どうかしらね~?(ずるずる) 私は音なんて全然気にしないから~。(ずるずる)」
冷華さんに尋ねてみるも、まったくの無駄だったようだ。
どうでもいいが、人と話している最中でも冷やし中華は手放さないんだな。
立ち話しながら麺をすするなんて、ラーメン大好き小○さんですか、あなたは。
……といったツッコミは自重しておく。
「そうですか、わかりました。もし今後、なにか気になる音が聞こえたら、オレたちに教えてください」
オレは伝言を残して帰ろうとしたのだが。
そのとき、隣の部屋のほうから、バタン、とドアの閉まる音が聞こえてきた。
3
205号室の玄関で立ち話をしていたオレは、すぐに外に出て確認してみた。
隣の204号室のドアは閉まっている。廊下には誰も人の姿は見当たらない。
さっきまで204号室の中に人の気配はなかったし、人が出ていった様子もない。
とすると、ドアを開けて誰かが中に入っていったということに……。
「ダーリン……」
青い顔をしたぽよ美が、オレの腕に絡みつきながら震える声をかけてくる。
意を決し、オレは204号室のドアの前へと歩み出た。
「どうかしたの?(ずるずる)」
冷華さんの冷やし中華をすする音が、緊張感を削ぐ感じではあったが。
ともかく、ここは確認しなくては。
オレはゆっくりと腕を伸ばし、204号室のドアノブに手をかける。
「…………」
ドアは開かなかった。少し前に試したときと同様、カギがかかっているようだ。
しかし……。
「さっき絶対、ドアの閉まる音がしたよな……?」
オレの問いかけに、ぽよ美は黙ったまま、こくんと小さく頷く。
よくわかっていなさそうな冷華さんはともかく、ぽよ美の怯えきった表情を見るに、単なる空耳だった、ということはないだろう。
「どうにかして、突入してみるか……」
だが、カギのかかったドアを破るなんて、アクション系の刑事ドラマじゃあるまいし、実際にできるはずもない。
「そうだ! 冷華さん、あなたならレイスだから、ドアや壁をすり抜けて、中に入れるんじゃないですか!?」
「あら、それは無理よ。(ずるずる)」
「どうしてですか?」
「壁に結界が張られているみたいなのよ。(ずるずる) だから、壁抜けなんてできないの。(ずるずる) ふ~、ごちそうさま♪」
ようやく冷やし中華を食べ終えた冷華さんの言葉で、微かな望みは絶たれてしまった。
「結界で守られているなんて……この部屋、怪しいってことですね」
オレはそう考えたのだが、それは間違いだった。
「なに言ってるの? このアパートの壁全部に、結界が張られているのよ? そうでなければ、あなたたちの部屋にも私は侵入し放題ってことになるし」
「……なるほど……」
どちらにしても、レイスである冷華さんの能力では中に入れないことに変わりはない。
少々気になるのは、だったらこのアパートの部屋でなければ、冷華さんは侵入し放題なのか、ということだが。
今はそれを気にしている場合でもないだろう。
そこで、ぽよ美がこう言い放った。
「ダーリン、あたしに任せて!」
ぽよ美がどうするつもりなのか聞いてみると……。
「あたしはこう見えても、スライムなんだから! ほら、ここ! この郵便受けから中に入れるよ!」
言うが早いか、ぽよ美はスライム形態へと変身し始めていた。
うあっ、こいつ! なんと無防備な!
アパートの廊下にはコンクリートの壁があって、外から簡単には見えない作りになってはいる。
だとしても、2階建て以上の建物からだったら丸見えだというのに!
オレは自らの体を盾にして、なるべくスライム化したぽよ美が外から見られないように努めたが、はたして効果があったかどうか……。
そんなオレの苦悩などお構いなしに、ぽよ美の体はぬるぬると204号室の郵便受けの中へと吸い込まれていく。
やがて、カギの開く音が響いて、ドアが開かれた。ぽよ美が中から開けてくれたのだ。
「ささ、どうぞ~!」
「自分の部屋じゃないっての」
ツッコミを入れつつ、これは不法侵入に当たるよな~と考える。
それでも、ここまで来て引き下がれない。オレは204号室の玄関に足を踏み入れた。
「私も行くわ。(ずずず)」
冷やし中華を食べ終えた冷華さんも、今度はスープを飲みながらあとに続いてくる。
玄関付近には誰もいなかった。風呂場やトイレも無人だ。
「誰かいるとしたら、おそらくリビングだな……」
オレのつぶやきに、ぽよ美と冷華さんも黙って頷いた。
いざ決戦のとき!
オレが先頭を切って、リビングのドアを一気に開け放つ!
すると、そこで待ち受けていたのは……。
4
「おや? あんたたち、どうしたんだい?」
『大家さん!?』
オレたち3人の声が重なる。
そう、204号室のリビングの壁際にちょこんと座っていたのは、このアパートの大家さんだった。
その後、オレたちは大家さんから詳しく話を聞いた。
最近、203号室の住人から、ギターの音と歌声がうるさいとの苦情があったらしい。
言うまでもなく、低橋さんが原因だとすぐにわかった大家さんは、抜き打ちで確認しに来たのだという。
休日だから家にいるだろうと考え、今朝一度来てみたのだが、低橋さんはバイトに出かけてしまった。
そのため、大家さんは出直すことにした。
そして、そろそろ帰宅する頃合いを見計らい、こうして再度訪れ、204号室に入って隠れていた。
大家さんだから、もちろん空き部屋のカギも持っている。
なるべく目立たないようにするため、黒い服に身を包み、部屋に入ったあとにはカギをかけておいた。
それだけのことだったのだ。
「苦情の原因となった低橋さんのギターの音と歌声がどれくらいのものなのか、実際にここで聞いて判断するつもりだったのさ」
そのタイミングで、ちょうど低橋さんがバイトから帰ってきた。
隣の部屋のドアの音って、意外と大きく聞こえるものなんだな。
「あっ、冷華さんがいなくて、不審に思わないかな~?」
「大丈夫よ。ハクは細かいことなんて全然気にしない性格だから」
ぽよ美の疑問には、冷華さんから即答が返された。
似た者夫婦、という言葉が頭をよぎる。
しばらくすると、ギターの音と歌声が響いてきた。当然それは、低橋さんが発しているものだ。
それにしても……。
ギターもあまり上手いとは言えないが、低橋さんの歌はやっぱりひどい。
こんなの、どう考えても騒音公害でしかあるまい。
低橋さん夫妻は最悪、退去を命ぜられてしまう可能性もあるのではないだろうか。
といったオレの心配は杞憂に終わる。
「ふむ……」
低橋さんが1曲分しっかりと歌い終えたところで、大家さんが口を開く。
その内容は、実にあっさりしたものだった。
「これくらいなら問題なしだね」
「で……でも、苦情が来てるんですよね?」
ついつい余計なツッコミを入れてしまった。
べつに低橋さんたちを追い出したいわけではないが、気になってしまったのだ。
「う~ん、203号室の住人は、ちょいと神経質すぎるんじゃないかねぇ?」
大家さんは事もなげにそう答える。
いやいや、大家さん自身もかなり大雑把な性格をしているから気にならないだけなのでは。
といった意見は、飲み込んでおいた。
「とにかく、低橋さんの部屋に行こうかね」
オレたちは大家さんに続いて、気分よく2曲目を歌い始めている低橋さんのもとへと急いだ。
低橋さんは突然の乱入者に目を丸くしていたが、それが大家さんだと気づくとすぐに歌うのをやめた。
お叱りを受けるだろうと覚悟しているみたいだったが、軽く注意を受けただけで許され、
「ふ~、わかった。今後は少し控えよう」
安堵の息とともに、素直な言葉を返す。
そんな低橋さんに対して、大家さんはズバッとひと言。
「あと……あんた、才能無いからミュージシャンはもう諦めな」
あ~……。
そこまで正直に言うなんて……。
少々哀れに思えてきたオレだったが、低橋さんは予想を遥かに超えるほどの自信家だったようだ。
「はっはっは、なにを言ってるんだ、大家さん! 俺は才能の塊だ! 絶対に諦めない!」
「ハク、素敵……!」
「そうだろうそうだろう、はっはっは!」
低橋さんを見つめて頬を染めている冷華さんと、自信満々に笑い声を響かせる低橋さん。
「ダメだね、こいつらは」
「そうですね……」
「ま、放っておこう。関わり合いにならないほうがいいよ」
「うん、そうだね~」
オレたち3人は呆れながら、静かに低橋さん宅から退散した。