第13話 女子社員は潔癖症
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「佐々藤~、一緒に食おうぜ~!」
「またかよ、海端」
昼休みになってすぐ、海端がやってきた。
そして、すでに食事に出て空いていた隣の女子社員の席に、我が物顔で座る。
最近は恋人の羽似さんの話を思う存分できるからなのか、ここに来て食べることが多くなっている海端。
少しでも時間を無駄にしたくないのだろう、昼食は出勤前にコンビニで買ってきているようだ。
そんなわけで、ほとんどがパンやオニギリ、もしくは、つけ麺類、といったラインナップとなってしまっているのだが。
なお、対するオレはもちろん、ぽよ美お手製の愛妻弁当持参だ。
今日も今日とて、ぽよ美の粘液べっちゃりで青汁のような味わいの弁当となっている。
うん、実にぽよ美らしい。
「それにしても、今日は暑いな~。空調が不調なのかな?」
パンにかぶりつきながら、海端が不満をこぼす。
不満と一緒に、ポロポロとパンの一部までもがこぼれ落ちているように見えるが。
「女子社員のために、冷やしすぎないようにしてるんじゃないか?」
「なに~? 男女差別だ!」
「そういう問題ではない気もするが……。だいたい、これくらいなら我慢すればいいだけだろ」
「寒いんだったら上着を羽織ればいいじゃんか! 暑いほうは対処できないのに!」
「……まぁ、確かに、裸になったら怒られるだろうしな。怒られるどころじゃ済まないかもしれないが」
羽似さんのことを散々話しまくるかと思ったが、とりあえずは単なる雑談という感じだった。
ま、わざわざオレのほうから羽似さん関連の話題を振る必要もあるまい。見ていて微笑ましくはあるが、あまりのろけ続けられても困る。
もっともその場合、こっちものろけ返せばいいだけのことなのだが。
「それにしても……」
オレは一心不乱にパンにかぶりつく海端に目を向ける。
今食べているのは、パイ系の菓子パンのようだ。こぼれ落ちている食べカスの量も半端じゃない。
「ん? なんだ~?」
「そんなにボロボロこぼして。また垢澤さんに怒られるぞ?」
垢澤さんというのは、海端が座っている席の女子社員の名前だ。
これまでにも、何度となく文句を言われている。
海端のせいでオレまで目の仇にされているフシがあるからな。注意くらいはしておくべきだろう。
「垢澤さんってさ~、潔癖症だよね~。細かすぎるっての」
「お前は気にしなさすぎだと思うがな」
「そういえばさ、垢澤さんの下の名前って、なんていうのかな? 前から気になってたんだけど、社内メールの名前も名字だけだったよね? みんなフルネームで設定されてるのに」
「ああ、そういえばそうだな」
「絶対おかしな名前に違いないよ! どうにか調べて、からかってやろうぜ!」
「お前は……。小学生かよ……」
同い年で27歳のはずの同僚のあまりの幼稚な発想に、ただただ苦笑を浮かべるばかりのオレだった。
2
「ちょっと、私の机を汚さないでって、どれだけ言えばわかってくれるんですか?」
メガネをかけたショートカットの女子社員が、腰に手を当てて眉をつり上げながら文句をぶつけてくる。
それは言うまでもなく、海端が座っている席の主、垢澤さんだった。
「なんだよ、最後にはちゃんと綺麗にして戻るんだから、べつにいいだろ?」
よせばいいのに、海端の奴がケンカ腰で言い返す。
当然のごとく垢澤さんも反論し、
「パンくずが少し残ってることもあるんですよ! 徹底的に綺麗にしてもらわないと困ります!」
「なんだよ、うるさいな! 少しくらい残ってたって構わないじゃんか!」
と、言い争いが始まってしまう。
お互いの性格を考えれば、それぞれの主張が食い違うのも当たり前と言える。
とはいえ、ここは会社だというのを、ふたりとも忘れ去っているのではなかろうか。
「だいたい、いつもいつもパンとかオニギリとか。もっとマシなものを食べようとは思わないんですか?」
「そんなの垢澤さんに言われる筋合いはないっての! 僕の勝手だろ!?」
「パンくずとかオニギリの海苔とか、いつもこぼれ落ちてるのが嫌だって言ってるんです!」
「だったら今度はコンビニ弁当にして、ソースやケチャップなんかがついた食べ物をこぼしといてやるよ!」
「なにわけのわからないことを言ってるんですか! こぼすの前提って、頭おかしいんじゃないですか!?」
なんというか、海端が子供っぽいのは今さらいいとして、対する垢澤さんのほうも負けず劣らず、子供っぽさをかもし出しているな。
正確な年齢は聞いていないが、二十代前半くらいのはずなのに。
ふたりの言い争いを、我関せず、といった面持ちで眺めていたオレだったのだが、突然鋭い矛先が向けられることとなる。
「佐々藤さん! あなただって同罪ですよ? お弁当だって、結構ニオイがこもるんですから!」
「あ~……」
自分で食べているとなかなか気づかないが、確かにそのとおりだろう。
オレとしては、海端みたいに下手な反論をして怒りを買うつもりなど毛頭ないため、素直に謝るつもりだったのだが。
「しかもなんか、青臭いニオイが多いし! お弁当のニオイとしては、なんかすごくおかしいですよね!?」
……それは完全に、ぽよ美の粘液のニオイだな……。
オレはすでに全然気にならなくなっているが、そうか、青臭いニオイも周囲に漂っていたのか。
いわば愛するぽよ美の愛妻弁当をけなされたようなものではあったが、憤慨するといった反応はしない。オレは大人だからな。
ただ、思ってもいなかった理由に、謝るタイミングを逃してしまった。
それにしても、弁当のニオイでここまで怒るなんて。
海端のせいというのもあるだろうが、もとより潔癖症な垢澤さんとしては、ちょっとしたニオイでも気になるのかもしれない。
「佐々藤さん、ちゃんと聞いてます!?」
「あ……ああ、聞いてるよ」
あまりにも凄まじい垢澤さんの勢い。
すでにターゲットは海端からオレに変わってしまったようだ。
ふと気づくと、垢澤さんの視線はどういうわけだかオレの二の腕辺りへと向いてた。
じい~っと睨みつけるような目で、オレの二の腕を凝視している。
「ん? どうした?」
と、そこで思い至る。今日はなぜか空調が弱めで、オフィス内の温度も高めだったということに。
「ああ、そうか。かなり汗もかいてるからな。それが気になるか? といっても、汗をかくなというのは無理な話だから……」
微妙に弁解の言葉を返しながら、同時に別のことも思い出す。
「そういえば、昨日は帰りも遅くて、風呂にも入らずに寝てしまったんだったな……」
自分ではよくわからないが、随分と汗臭い状態なのかもしれない。
潔癖症の垢澤さんだから、汗なんかも気になって仕方がない、ということか。
「なるべく垢澤さんのそばには近寄らないようにするから、今日のところは我慢……」
してくれ、と言い終える前に、垢澤さんは行動を起こしていた。
しかも、信じられない行動を……。
垢澤さんがゆっくり顔を近づけてきたかと思うと、ぺろっと舌を出し、オレの二の腕を舐めたのだ。
3
「なっ……!?」
思わず驚きの声を上げてしまう。
一方、舐めてきた張本人である垢澤さん自身も驚いた様子で、
「あっ……! ごごごご、ごめんなさい……!」
と言って頭を下げていた。
そんな中、空気の読めない海端が、こんなことを言い出す。
「うわっ、垢澤さん、佐々藤の腕を舐めた! ばっちぃ!」
いや、ばっちぃって、それは……。
「うう……ひどい……」
垢澤さんは顔を両手で覆い尽くして泣き出してしまった。
そこへ、会議室で弁当を食べていたらしい女子社員の集団が戻ってきて通りかかる。
総勢十名くらいだろうか。
「ちょっと、垢澤さん、泣いてるじゃないですか!」
「ほんと、最悪です! 佐々藤さんと海端さん!」
「垢澤さんがばっちぃだなんて、ひどすぎですよ!」
しかも、海端が放った心ない言葉まで、ばっちり聞かれてしまっていたようだ。
「いや、そんなことは思ってないし……」
どうにかなだめようと声をかけてみるが、多勢に無勢というもので。
「言い訳なんて男らしくないです!」
だったらどうしろと……。
「まったく、これだから男って嫌だわ!」
「ほんとほんと!」
「とにかく、素直に謝ってください!」
なんだか納得の行かない部分はあるが、言葉を返せば返しただけ、数倍、数十倍となって戻ってきそうな勢いだ。
ここは言われたとおりにしておくのが無難か……。
オレがそんなふうに考え、事態を穏便に収めようとしているというのに、海端は脊髄反射的に思ったことをそのまま口走る。
「どうして僕たちが謝らなきゃならないんだよ!? 女子はそうやって徒党を組んで、男子を悪者扱いするんだよな!」
こう言われて黙っている女子社員たちではなく。
「なんですって!? 女の子に対してばっちぃだなんて、どう考えてもそっちが悪いじゃないですか!」
「悪くない! こうなったら仕方がない! 男子対女子の全面戦争だ!」
「望むところです! 受けて立ちますよ!」
と、なんだかとんでもない方向へと話が進んでしまった。
「小学校みたいだ……。ここは一応、会社なんだがな~……」
つい苦笑とともに独り言をつぶやいてしまったのだが、それもしっかりと聞き咎められる。
「佐々藤さん、あなたのそういう見下した態度もムカつくんです!」
「えっ……?」
完全にとばっちりだと思うのだが、だからといって不満をぶちまけたら火に油を注ぐだけだろう。
どうしたものか……。
思案に暮れていると、ふと垢澤さんの姿が目に入った。
彼女はすでに泣き止んでいるようだが、黙ったままうつむいているだけだった。
そのとき、午後の業務開始を告げるチャイムの音が鳴り響く。
「ほら、みんな席に着いて仕事に戻れ」
「む~……」
時間ピッタリにオフィスへと入ってきた上司に促され、女子社員たちは不満顔ながらも去っていく。
同様に海端も自分の席へと戻っていったのだが。
「業務時間が終わったら、戦争再開だ!」
とかなんとか言って、異常なほどに意気込んでいるのがよくわかった。
ほんとに、子供か、あいつは。
4
業務に戻った途端、モニターにウィンドウがポップアップしてきた。
「おや? 垢澤さんからメッセージ……?」
社員同士のやり取りには、社内メールや社内掲示板なんかも使われることがあると思うが。
オレの勤務している会社では、各自のパソコンにはメッセンジャーソフトが入っていて、簡単な文章メッセージのやり取りであればそちらを使うのが普通になっている。
そのメッセンジャーを通して、垢澤さんからメッセージが届いたのだ。
素早くメッセージを確認してみると、
『ごめんなさい、私のせいで……』
といった内容だった。すなわち、昼休みの件についての謝罪ということか。
べつに謝ることもでもないだろうに。
潔癖症なだけあって、なかなか律儀な子のようだな。
それにしても、すぐ隣の席だというのに、メッセンジャーで会話とは。
仕事中の私語は慎むべきだし、当然の配慮とも言えるのかもしれないが。
とりあえず、こちらからもメッセージを返しておく。
『いや、垢澤さんが悪いわけじゃない。悪いのは海端だ。だから気にするな』
『ありがとうございます』
ちらりと視線を横に向けてみると、垢澤さんの表情は確実に和らいでいるように見えた。
心にわだかまりを抱えたままでは、仕事にも支障が出る可能性がある。
これで午後の業務にも集中して取りかかれるだろうし、オレとしても安心だ。
と、そこで終わるかと思ったのだが。
垢澤さんからのメッセージは、さらに続くことになった。
『あの、それで、秘密にしてほしいんですけど……』
『ふむ……?』
はたしてなにを語るつもりなのか。
少々身構えつつ次のメッセージを待っていると、届いた内容は――。
『実は私、垢舐めっていう妖怪なんです』
「なっ……!?」
声を出しそうになったが、すぐに押し留める。
垢澤さんは、誰にも聞かれたくないからこそ、メッセンジャーを使って話すことにしたのだろう。その気持ちを踏みにじってしまうわけにはいかない。
どうやら、周囲には気づかれずに済んだみたいだな。
そのあと垢澤さんは、メッセンジャーで詳細を語ってくれた。
垢澤さんは垢舐めという、風呂場などの垢を舐め取る妖怪なのだという。
オレの二の腕を舐めたのは、垢舐めの習性が出てしまっただけのようだ。
潔癖症な性格だというのは事実だと思うが、妖怪としての本能には逆らえないということか。
『それにしても、他人の腕……というか垢を舐めるなんて……』
『ごめんなさい。汚れているのが、どうしても気に食わないんです。誰でもってわけじゃないんですけど……』
そこで一旦メッセージは途切れ、わずかに間を置いて、別のメッセージが届けられた。
『佐々藤さんは、私としては目標としている先輩なので、汚れたままでは嫌だと思ってしまったんです』
目標としている先輩……。
そんなふうに思ってくれていたのか。
少々むずがゆいが、とても嬉しい気分になるな。
『私のフルネーム、垢澤なめ子っていうんです。だから事務の人にお願いして、下の名前は隠してもらってるんですよ。恥ずかしいですし……』
『なるほど、そうだったのか』
変わった名前だとは思うが、考えてみれば、ぽよ美だって充分におかしな名前だ。
妖怪やら物の怪やら、人間ならざる存在というのは、きっとそういうものなのだろう。
なお、垢澤さんはオレの妻がスライムだと知っていた。海端と喋っているのを聞いたことがあったらしい。
ぽよ美のことを隠しているわけではないが、あまり他人に知られたいとは思っていないのだから、もっと気をつけるべきなのかもしれない。
ともかく、オレはこうして、無事に垢澤さんと和解することができた。
5
さて、終業時間となった。
全面戦争じゃ~! と息巻いてやってきた海端や女子社員たちを前に、
「もう仲直りしたから」
と言って、オレは垢澤さんと握手をしてみせた。
「いつの間に休戦協定が結ばれたんだ!」
海端は不平を漏らしていたのだが。
「あの、みなさん。私は平気ですから。心配かけて、ごめんなさい」
垢澤さん自身からそう言われ、頭を下げる姿まで見せられれば、女子社員たちとしても退くしかなかったのだろう。
不完全燃焼気味ではあったものの、全員ぞろぞろと戻っていくに至った。
「そ……それじゃあ、私もお先に失礼します」
続けて、そそくさと支度を整え、垢澤さんも帰っていく。
「ま、オレたちも帰るか」
「仕方がない、そうするか~」
今日はとくに急ぎの仕事があるわけでもない。
オレも海端と一緒にオフィスを出ることにした。
「ちぇっ、つまらないな~。せっかく全面戦争だと思ったのに」
帰宅途中でも、海端の愚痴は止まらなかった。さすがに呆れてしまう。
「お前は……。戦争したかったのかよ」
「女子社員と積極的に関われるチャンスじゃん!」
「小学生か! だいたい、もともと気兼ねなく喋ってるだろ、お前は。しかも、羽似さんという恋人がいるってのに」
「楽しく過ごせればいいってだけだよ。会話するくらい、問題ないだろ?」
「まぁ、それはそうだが……。もし浮気なんかしたら、羽似さんに告げ口するからな」
「大丈夫だって。それより、そっちこそマズいんじゃないか?」
「ん……?」
マズいとは、どういうことだろうか?
「垢澤さん、さっき握手をしてるときから、ずっと顔が真っ赤だったよ?」
「そうだったか?」
オレにはよくわからなかったが。
「あれは絶対、佐々藤に好意を持ってる感じだね!」
「おいおい、オレが既婚者なのは、垢澤さんだって知ってるんだぞ?」
「不倫騒動に発展しないといいけどな!」
と言いつつ、顔は笑ってやがる。
「お前、面白がってないか?」
「そんなことないよ~?」
「絶対に嘘だ!」
オレは容赦なく、海端の顔面にチョップを入れてやるのだった。