第9話 スライムと風呂上がり
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バスタオルを一枚巻いただけのぽよ美が、浴室のほうからキッチンへと歩いてきた。
冷蔵庫を開けて、なにやらビンを取り出す。
そしてすぐさま爪を使って上手くフタを開けると、ビンの中の薄茶色の液体を一気に喉の奥へと流し込む。
風呂上がりの火照った体には、とても心地よい瞬間と言えるだろう。
「ぷは~っ! お風呂上がりには、やっぱりコーヒー牛乳よね~!」
ぽよ美が飲んでいるのは、その言葉どおり、コーヒー牛乳。
当然ながら、左手を腰に当て、右手でビンを持つ格好でだ。
風呂上がりには必ずといっていいほど、こんな感じでコーヒー牛乳の味と冷たさを楽しんでいる。
ぽよ美は普段、家の中にいるときには、基本的にスライム形態になっていることが多いのだが。
風呂上がりの時間はいつも、人間の姿に変身している。
「だって、ほら! こうやって腰に手を当てて飲むのがデフォだから!」
そう断言するぽよ美。まぁ、確かにそうかもしれないが。
「法律でも決まってるから!」
「いやいや、それはない!」
「え~? スライムの国では常識なのに~」
「嘘をつくな! 人間の姿になって腰に手を当てて飲んでるくせに!」
「ぶ~……。ごくごくごくごく、ぷふぁ~っ! ん~、やっぱり美味しい♪」
「……ま、いいけどな」
あんなに嬉しそうな笑顔を見せられたら、余計なごたくを並べる気も失せるというものだ。
ただ、オレには少々納得のいかないことがある。
「まだ1本残ってたよな? オレも飲んでいいか?」
「ダメに決まってるでしょ~? あれはあたしが明日飲む分なの~! あたし専用なの~! 法律で決まってるの~!」
「そんなピンポイントな法律があるか!」
お金を出しているのはオレのはずなのだが、なぜかコーヒー牛乳はぽよ美専用となっているのだ。
まぁ、ぽよ美の分とは別に買ってきて飲めばいいだけのことではあるが……。
そこまでして飲みたいとも思っていないし、オレとしてはもっと別の飲み物のほうがいい。
「そんなことより、ダーリンもお風呂入ってきちゃいなよ~。気持ちよかったよ~♪」
「ん、そうだな。入ってくるか」
「は~い、行ってらっしゃ~い♪」
ぽよ美に見送られながら、オレは替えの下着を持って、風呂場へと向かった。
2
ちなみに、我が家では必ず、ぽよ美が先に風呂に入ることになっている。
「だってダーリンのあとだと、お湯が汚なくなるもん!」
というぽよ美の主張を受け入れてのことだが。
仮にも旦那の入ったあとのお湯を、そんなに汚らわしく思わなくてもいいのでは……。
若干、ブルーになるオレだった。
しかも……。
服と下着を洗濯カゴに突っ込み、全裸となったオレは、風呂場のドアを開けて中に入る。
足もとにはマットが敷いてあるのだが、言うまでもなく、ぽよ美の粘液だらけだ。
シャワーやら、水とお湯を調整するハンドル部分なんかにも、べっとりとゼリー状の物体がこびりついている。
今日もぽよ美の粘液分泌量は凄まじい。
ぽよ美は風呂に入る際、人間の姿のままではなくスライム形態になっているようで、粘性の高い濃い緑色の粘液がまき散らされることになる。
さらに浴槽のフタを開けてみれば、当たり前といえば当たり前だが、湯船の中にだって大量の粘液がプカプカと浮いている。
あまりにもびっしりと存在しているため、まるで藻がいっぱいに繁殖した沼とか、放置されたままのプールとかみたいにすら思えてしまう。
いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないが。こんなことをぽよ美本人に言ったら、確実に機嫌を悪くするだろう。
ま、オレはすでに慣れている。とくに躊躇することもない。
ぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめする石鹸でを持って泡立て、ぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめする共用のスポンジで体を洗い、ぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめするシャワーで流す。
ぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめするリンスインシャンプーのポンプを押して、髪を洗ったら、再びぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめするシャワーで流す。
そして最後に、ぽよ美の粘液でべたべたぬめぬめする湯船に浸かって、ひと息つく。
「ふ~……。今日もいい感じで、ぬめってるな」
一応断っておくが、文句ではない。
文句ではないが……。
この状況と比べても、オレが普通に風呂に入ったあとのお湯は、汚いというのだろうか。
それに……。
最後に風呂場全体にこびりついている粘液を綺麗に洗う流すのが、当然のようにオレの役割となっているというのは、はたしていかがなものか。
家事はすべて自分でやると言っているぽよ美だが、風呂掃除はオレがいるとき限定というルールを作っているため、掃除するとしたら翌日になってしまう。
オレがここで掃除しておかないわけにもいかないだろう。
もっとも、今さらという気もするのだが。風呂場だけでなく、家の中はどこだって、ぽよ美の粘液でべちゃべちゃなわけだし。
ただ、そういった意味でも、オレがあとに風呂に入ったほうがいい、ということになる。
ぽよ美があとに入った場合、どう考えても粘液のことなんて気にしないだろうから、掃除をしようといった判断には至らないはずだ。
ついでに言えば、ぽよ美が入った直後に掃除を始めようものなら、「あたしが汚いから、そんなすぐに掃除するの~!?」と怒り出してしまうに決まっている。
ぽよ美が寝静まったあとに掃除する、という手もないではないのだが……。
「ふぅ~……」
とりあえず細かいことは考えず、お湯に身を委ねる。
思わずお湯をすくって顔を洗ってしまうと、べちゃっとゼリー状の物体が絡みついてきたり。
上を向いて目をつぶって気持ちよく歌を歌っていたら、なぜだか天井から粘液が落ちてきてバッチリ口の中に入ったり。
ぽよ美のあとの風呂は、なかなか油断ならない。
……どういう入り方をしたら、天井に粘液がこびりつくのやら。さすが、謎生物、ぽよ美だ。
ゆっくり温まって汗を流し、掃除もしっかりと終えたあと、オレは風呂場から出た。
狭いが一応脱衣所もある。足拭きマットは当然、粘液まみれになっているが……。
ぽよ美はバスタオル一枚で歩き回っていたが、オレはそんなはしたないことはしない。
というか、自分のことを棚に上げて、バスタオル姿で歩き回るなとぽよ美から注意されてしまいかねない。
しかも、汚いものを見せるなと連呼されながら……。ちょっとひどいと思わなくもない。
それにしても、ぽよ美は人間の姿に変身する際、衣類も好きなようにできるはずだと思うのだが。
どうしてわざわざ、バスタオル一枚の姿になんてなるんだか。
……やっぱり、風呂上がりにコーヒー牛乳を飲むなら、バスタオルを巻いた状態でないと! といった精神なんだろうな。
ぽよ美らしい。
微笑ましい気持ちに包まれつつ、オレは脱衣所でしっかりと着替えを終えてから、待望の飲み物を手にすべくキッチンへと向かった。
3
さて、風呂上がり。
オレの分のコーヒー牛乳はないわけだが。
代わりにオレにはコレがある。
プシッ!
缶のプルタブを押し開け、キンキンに冷えた液体を喉に流し込む。
「ぷは~! 風呂上がりには、やっぱりビールだな!」
この一杯のために生きている、という名言があるくらいなのだから、大人の人間としての真理と言っても過言ではないはずだ。
……これを名言といっていいのかは微妙かもしれないが。
ちなみに、ビールは普段から大量に買ってある。
コーヒー牛乳とは反対で、これらのビールはオレ専用……といったことは、もちろんない。
ぽよ美も飲む。むしろ、ぽよ美のほうが飲む。というか、飲みまくる。
隣の低橋夫妻が来たときの状況を思い出せば、ぽよ美が酒好きなのも頷けるだろう。
酔っ払うとべろんべろんを通り越して、べちょんべちょんになり、果てはどろんどろんになる。
それは今さら、問題になどならないのだが。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
うちの冷蔵庫の一段分は完全にビール専用となっている。
オレはそこに残っているビールの本数を数えてみた。
数えるまでもなく、かなり減っているのはわかっていたのだが。
「昨日の夜から、10本以上減ってるな……」
今日の夕飯後には飲んでいない。それなのに、この減りよう、ということは。
おそらくオレが仕事に行っているあいだに飲んだのだろう。
350mlの缶とはいえ、ぽよ美ひとりで10本は考えにくい。きっと昼間、冷華さんが遊びに来ていたに違いない。
……というか、そう思いたい。
明日にはまた買ってきて補充しないとダメそうだな。
うちの家計で、一番の出費となっているのは、もしかしたらビール代なのかもしれない。
そう思いながら、オレは缶ビールを飲み干した。
4
リビングに置いてある鏡台のほうからは、さっきからずっと、ドライヤーの音が響いてきていた。
ぽよ美が鏡台の椅子に座って、髪の毛を乾かしているのだ。
オレが風呂に入ってすぐ、乾かし始めたのだと思うのだが、まだ終わっていないようだ。
ぽよ美の髪の毛は長くて量も多いため、乾かすのに時間がかかってしまうのも仕方がないとは思うが。
どうでもいいが、スライム形態に戻ったら髪の毛だってなくなるというのに、わざわざ乾かす必要なんてあるのだろうか。
そう思って尋ねてみたこともあるのだが。
「お風呂上がりに人間の姿のままソファーとか布団とかに横になって、ぐったりしているうちに溶けるようにスライム形態へと変わっていくんだよ~。これが最高に気持ちいいんだな♪」
と、うっとり微笑んでいた。
だがそれで、どうして髪を乾かす必要があるのか。べつに髪が濡れているままでも構わないのではないか。
そんな疑問も湧き上がり、口にしてみたところ、
「だって、髪が濡れたまま寝たら、風邪ひいちゃうじゃない!」
との答えが返ってきた。
スライムが人間と同じような原因で体調を崩したりするものなのか、いまいちよくわかってはいないが。
実際に以前、風邪をひいて寝込んだことはあるのだから、人間とそうは変わらないと考えられる。
やがてドライヤーの音が消え、ぽよ美はのそのそと立ち上がった。
今日もいつものように、ソファーにでも寝っ転がるつもりなのだろう。
そしてそのまま徐々にとろけてゆき、スライム形態となった頃には眠りに就いているに違いない。
もう時間的にも遅いわけだし、ソファーじゃなくて布団に入ったほうがよさそうなものだが。
ぽよ美は鏡台からすぐそばにあるソファーまで、ゆったりのったりと移動し、べったりぐっちゃりと体を横たえた。
人間の姿をしてはいるものの、すでに部分的に溶け始めているような、そんな状態だった。
「お~い、ぽよ美。髪はちゃんと乾かしたみたいだが、そんなところで寝てたらやっぱり風邪をひくんじゃないか?」
「ふわぁ~?」
とろん。
からだ全体も溶け始めていたのだが。
ぽよ美の目も、なんだか焦点が定まっていない。
頬も赤い。
これは、もしかして風邪で熱が出ている状態か……!?
一瞬そう思って焦ったのだが、事実はまったく異なっていた。
ぽよ美の手に、なにか握られている。
それはビールの缶だった。
なんだ、酔っ払ってるだけか……。
「まったく、ぽよ美は……」
ため息まじりのオレのつぶやきに、答えはなかった。ぽよ美はもう完全に眠りの世界へと入ってしまったようだ。
そのままソファーで寝かせておくわけにもいかず、オレはぽよ美を抱きかかえて、寝室の布団にまで運んだ。
眠っていると粘液の分泌量も多くなるようで、オレは全身粘液まみれになってしまったのだが。
「ふぅ~……」
リビングに戻って、ぽよ美が飲み残した缶ビールに口をつける。
中からドロリといろいろ出てきたりはしたが、まぁ、そんなのはいつものことだ。
ぽよ美のだ液が入っただけなのか、粘液の一種なのか、よくはわからないが。
と、鏡台の辺りをよく見てみれば、ビールの空き缶がたくさん置いてあるのが確認できた。
なるほど、昼間冷華さんが来て、一緒に飲んだやつか。
そう考えながら、オレはゴミ袋を持ってくる。
空き缶は全部で10本。
冷華さんにも、困ったものだ。
それらの缶を手にとって、ゴミ袋へと投げ入れ……ようとして、あることに気づく。
「まだ、冷たいな……」
すべての缶を確認してみたが、全部が全部、まだそれなりに冷たかった。
昼間に飲んだビールの空き缶だと考えるには、どれもこれも冷えすぎている。
とすると……。
オレが風呂に入っているあいだに、ぽよ美は10本もの缶ビールを飲んだということか。
いや、手に持っていた分も加算すれば、11本目に突入していたということに……。
「ま、べつにいいか。今に始まったことでもないし」
オレは考えるのをやめ、缶ビールをもう1本取り出してくるのだった。