第一章 「雪雄と怜」 (六)
次の日、あの人はなんとなく時間を守らないタイプに見えると心配しながら約束の教室に向かうと、すでに教室の前に素知らぬ顔をして立っていた。
「遅い」
「遅いって、まだ約束の時間より五分も早いですよ?さっきの講義だってまだ終わる前にこっそり抜け出してきたんですから」
「俺は今日休みなんだ」
「そうでしたか、失礼しました。でもこんな平日に講義が入ってないなんて大丈夫ですか?」
怜さんはフッと笑い、自分は特別だと言う。意味が分からなかったが、この人に意味を求めること自体がばかばかしいことだという気がした。
教室のドアを開け、中に入る。もともと受講人数の多くない講義だからか、開始十五分前の教室はまだ貸切状態だった。
「君が座っていた席は?」
「あそこです」
後ろから二番目の窓際の席を指差した。すると、怜さんはその机の荷物棚を覗き、何も物が置いていないことを確認すると、机の上に例の置き物をコトリと置いた。昨日は無残にも真っ二つに割られていたそのカエルは、綺麗に元の形に修復されていた。
「これで準備は完了だ。それじゃ俺たちは、ここに座るとしよう」
怜さんと僕は最も後方、ドアの前に陣取った。
「講義の間、よく観察しとくんだ。犯人は、いち早くカエルに気付く。いや、カエルを確認するためにここへ来る。しかし、あれを手に取ることはしない。誰にも気付かれないように見るだけだ。その視線を逃してはいけない」
「でも、犯人が来る前に他の人が先に拾ってしまったらどうするんです?」
「多分それはない。おそらくかなり早い段階でここに来る。この教室は、この講義以外では使われていない。先週の講義が終わった後、早々に施錠されているはずだから、生徒が中を確認できるのは今からこの講義が終わるまでの間だけだ。 犯人もそれを知っていて、あえてこの教室を選んでいる」
「そして、先週君があれを拾ったことも、知っている」
犯人をとっ捕まえて殴り飛ばそうという意気込みもあったが、その話を聞いて怖気づいた。間接的にしろ殺人者である犯人は僕のことを知っていて、僕は誰が犯人か分からない。なんとなく不利な状態に置かれている気がした。
ひそひそと話をしているうちに、教室に一人、二人と生徒が入ってくる。不思議と席は後ろから埋まってしまうのがこの大学という世界のお決まりごとであるが、未だ窓際にある異様なオーラを放つ物体の周辺に座る生徒はいなかった。
すると、一人の女生徒が後方奥に向かって歩いて来た。偶然か、犯人か。鼓動が高鳴る。犯人であるかもしれないその姿を目に焼きつけようとするが、犯人は僕のことを知っていると思うと、視線を動かすだけでも怪しまれると感じ、前を向いて硬直した。ちらりと怜さんの方へ目を向けると、ものすごい形相で彼女を見ている。
「……あの女だ」
ボソリと呟く。
気付かれたら危険だと思い、怜さんに合図しようとするが、僕の方へは目もくれない。席の半分ほどが埋まると、教授が颯爽と教室に入り、あいさつもなしに講義をはじめだした。
「見たか?あの女だよ」
「あんな子が?人違いじゃないですか?」
「いいや、間違いない。実は昨日あのカエルに細工をしたんだ。見えるか口のとこ?」
僕はあまり視力の良いほうではなかったので、目を凝らしてもよく見えなかった。
「干物を中にしまうときに、置き物の口のとこから干物の足を1本出しておいた。カエルの舌だよ」
曲がりなりにも妖怪であるあの置き物にそんな小細工を仕掛けた度胸というか、神をも恐れぬとはこのことかと思った。
「彼女はその異変に気付いている。ほら、今もあの舌を見た」
僕は相変わらず窓際に目を向けることはできなかったが、怜さんはこのスリルを楽しんでいるかのように、ちらちらと横を見ていた。
「どうだ、あれが妖怪の真の姿だ。理由は知らないが、あの女が恐ろしいまじないを仕掛けたんだよ。何も特別な存在じゃない。普通の人間だ」
怯えていた僕に、やおら恨みの念が湧き起った。そうだ、僕は捕まえる側なんだ。
勇気を出して彼女の方を見ると、わりと小柄な黒髪の女の子で、とても人を殺すようには思えない。いや、どちらかというと怯えているようにも見える。それからは何度かその彼女を見ることができたが、相変わらず怯えたような表情でろくにノートも取らずにギュッと膝の前で拳を握りしめるだけだった。
講義が終わる時間になったが、ふと気が付くと僕も怜さんも、ノート1冊出すわけでもなく、芯の引っ込んだシャーペンを1本申し訳程度に転がしているだけだった。怜さんに関しては、休みだったからかもしれないが、バッグの中には財布と邪悪なカエルの置き物としか入っていないという体たらくだった。
終わりのチャイムがなり、あいさつもなしに教授が教室を立ち去ると、他の生徒たちもちらほらと出て行った。犯人と思われる女の子は、じっと動こうとしない。
「行くぞ」
怜さんに急かされ教室を出た。
「ちょっと待て……」
まだ女の子が中にいるのにドアを閉めるので、何をしようとしているのか尋ねようとしたが、教室の中に意識を向けたまま、口元を手で制された。
「今だ」
バタンと教室のドアを開ける。
彼女は、カエルの妖怪を手にとってかばんにしまおうとしている。怜さんは窓際に手を伸ばしながらすたすたと歩いていく。彼女は身を屈めて怜さんの手をかわそうとした。彼女の左腕を、怜さんの右手が捕らえた。
「お前だな」
「なんのことですか?」
「『木蛙』の主だ」
妖怪の名前を聞いた彼女は、一瞬ピクリとした。
「知りません」
「しらばっくれる気か!」
怜さんの声が激昂する。怒りは本来僕の中にあったはずだったが、今はその渦の中に入れない気がした。
「お前は、やってはいけないことをした!」
「知りません!知りません!!」
「お前は、この男の母親を殺したんだ!」
彼女の視線が僕の方に向けられた。そこには冷酷な殺人者の顔はなく、ただ自分より強いものに怯える小さな動物のような表情しか読み取れなかった。
「……御免なさい」
「誰に謝ってる?こいつの母親にその声はもう届かない!こいつはお前のことを赦すといった!殺したいけど、殺さないと言ったんだ!」
彼女は教室の外に漏れるほどの声で泣いた。肩に掛けていたバッグがドサリと落ち、中からカエルの置き物が転がり出た。
「俺たちは、お前をどうにもしない」
僕の激情は、とうにどこかへ消えていた。目の前にいる女の子の姿が、どうしても自分の母親の命を奪ったと信じることができなかった。
しばらくして彼女は自身の力で涙を押し戻し、少し冷静さを取り戻したような声で話し出した。
「……私のお母さんは、五日前に死にました。……私は救いたかった。私には、お母さんしかいませんでした。今さら何を言っても無駄なのはわかってます。……けど、殺すつもりなんてなかったんです。これは幸せを呼ぶ物で、不幸と他人と分け合う物だと。共有して、人の命が救われる物だと、そう聞いていました……」
「それはお前の認識不足だよ」
怜さんは感情のない言葉で言い放った。
「これは妖怪なんだ。聞いたことくらいあるだろう?人の心が作り出すものなんだから、神の力を発揮できることはない。君のお母さんが死ぬという運命は、こんな置き物で変わるものではないんだ」
彼女はまた泣き崩れ、いたたまれなくなった僕はそっと彼女の肩を抱いた。「御免なさい……御免なさい」と繰り返しながら、彼女は僕の肩をつかみ、袖を濡らした。
程なくして、彼女が学校を辞めたという話を耳にした。母親の死去により学費が払えなくなったからという噂がまことしやかに流れていたが、この出来事の真実を誰にも打ち明ける気にはならなかった。
あの日から度々怜さんと関わるようになった僕は、いつからか学校帰りに怜さんのアパートに寄る、というのが習慣になっていた。万年ごたつに入って買ってきたおにぎりを食べていると、ふとひとつの疑問が頭をよぎった。
「そういえば、怜さんは彼女のお母さんが死ぬ運命は変わらないって言いましたよね?でもたしか最初は、あの置き物は自分の不幸を人に置き換えるための媒体だとか言ってませんでしたっけ?」
「…いいか?妖怪と対峙するには、正しい知識と経験が必要なんだ。彼女にはそれがなかったんだよ。カエルはまたカエルってね」
怜さんはニヤリと笑みを浮かべた。雑然としたその部屋の隅にある棚の上に、僕はひときわ大切そうに置かれた深緑色のカエルの置き物を確認した。