第一章 「雪雄と怜」 (三)
次の日の朝、いつも通り自転車に乗って、大学へ向かった。
特にクラス分けというものがなかったため、同じ学年でも関わりのない人が多く、たまにすれ違う顔見知りに軽い挨拶程度のことはすれど、基本的には単独で行動していた。
それを寂しいとも恰好良いとも思っているわけでなく、ただ楽だった。くだらない会話をして無意味な時間を過ごすよりは、一人で物思いにふける方がよっぽど有意義だ。昨日のカレーうどんの話のように……そんなことを考えていると、またあの無礼な男が頭をよぎり、すぐに他の話題に変えた。
午前の講義はそれなりに身が入り、終了間際のレポートもいち早く書き上げ、桜を見上げながら食堂へ向かった。今日は災いに巻き込まれたくないと、近くのコンビニで昼を過ごそうとも考えたが、あの男のために労を費やして歩くのがまたばかばかしいと感じ、気が付けばいつもの食券販売機の前に立っていた。
いつも通り脇目もふれず日替わり定食の券を買い、おばさんに差し出す。いつもと同じ数の皿や椀を受け取り、空いているテーブルを探す。やっぱり窓際が落ち着くので、昨日と同じ席を選んだ。
椅子に座るなりアジフライを頬張ったところで、背後から聞き覚えのある声がした。
「どうだった?」
昨日の男だ。失敗した。やっぱり来るんじゃなかった。
口に含んだアジフライをわざとゆっくり味わい、ゴクリと飲み込んだ後にひと呼吸置いて答えた。
「別になにも」
「そうか」
そう言うと、男は僕より二つ離れた椅子に座り、カレーライスを食べ始めた。今日はこちらに背を向けている。まだ味噌汁が半分ほど残っていたが、もう厄介事には巻き込まれたくない一心から早々に席を立った。立ち去り際に男の方をちらりと見たが、男は空にしたカレーライスの皿の前でぼんやりと外を眺めていた。
午後の講義を終えて、帰り途につく。今日は気分が良かったので、散策がてらいつもとは違うコースを走った。
いつもより少し遅れてアパートに着き、ポストに入っていたわけの分からないチラシをぐしゃっと手に取り、部屋にバッグを放り投げ、ベッドに転がった。
カーテンを開けて外を見ると、夕日が沈みかけ、夜の闇と夕日の橙色が美しいグラデーションを成している。信号待ちをしている三台の車と、別れを告げて別々の方向へ進む自転車の学生たち、この都会でもなく田舎でもない光景が、いつも通り額縁の中に描かれていた。
カーテンを閉めると、想像以上に部屋はうす暗く、明かりを点けようとした瞬間、忘れ去れていたバッグの中のある物の存在を思い出した。バッグをあさり、手に当たった独特の木の触感でその物を探り当てた。
昨日男がしていたように、指で叩いたりひっくり返したりしてみたが、何ともない。よくよく眺めていると、二本足で立ち両手をあげたカエルの姿が妙に不気味に感じられて、ベッドの上へ放り投げた。直後もう一度その怪しげな置き物を手に取り、机の上に背中を向けて置いた。窓から差す僅かな夕日が、その置き物の背中を不気味に照らした。
なぜ今日学校へこの落し物を届けなかったのかと後悔した。忘れていた、存在を。いや、もしかしたらそうではないかもしれない。あの男の言っていることが本当だとして、学校へ届け出てしまったら、何か起こったときに取り返しがつかない。やっぱり返してほしいとは申し出ることができない。
つまり、無意識に保険をかけていたのだ。あの男の言葉をにわかに信用して……。
そんなことを考えていると、いよいよこの置き物が不気味に感じられ、窓の外に放り捨てたくなった。視界に入れたくない。そもそも僕はなぜこんな物を拾ったのだろう。その動機すら今思い出そうとすると曖昧だ……。
ジリリリリリ!!
不意に携帯電話が鳴った。みっともなく体をビクッと震わせ、電話を開く。父さんからだ。珍しい。妹からたまに連絡はあったが、父さんから連絡があったことは、記憶の許すかぎりない。
「もしもし」
「雪雄か」
しばらくの間言葉が途切れていた。電波が悪いのかと電話機を離したり近づけたりしていると、ふうっと息を吸う音がした。
「母さんが死んだ」
嘘だ。昨日家族で花見に行ったはずだ。あんな元気に、笑顔の写真を送ってきたじゃないか。
「雪雄、聞いてるか。今日の夕方五時頃だ。急に倒れて救急車で運ばれた。脳卒中らしい」
父さんは冷静な口調で話しているが、同時に緊迫した表情も読み取られ、なんとか平常を保っていることがうかがえる。
母さんは本当に死んだんだ。
「明日葬式をやる。お前、帰れるか?」
今からすぐ帰ると告げ、通学に使っているバッグに下着とTシャツを一枚突っ込み、アパートをあとにした。両手をあげた奇怪なカエルの置き物は、机に置いたまま……。