第一章 「雪雄と怜」 (二)
二分間ほど黙ってその置き物をこねくり回した後、男はようやく口を開いた。
「どこで見つけた?」
「昼前の講義、高層棟の一○二教室で、たしか席は後ろから二番目です。誰かの忘れ物だろうから教務課に届けようと思ってたんですよ」
「そうか。これ、俺にくれないか?」
「別にいいですけど、なんでです?」
「うん、くれ、というよりは、引き取ると言うべきか」
「持ち主を知ってるんですか?」
「いや、持ち主は知らないし、届け出たところでたぶん名乗り出ることはないだろう。これは意図的に人の手に渡るよう仕向けられたものだ。悪意があってね」
なんだかよく分からない話になってきた。早々にこの場を切り上げたいと思ったが、残りの休憩時間を意味なく過ごすよりは、まだこの話の続きを聞いたほうが有意義であると、知らぬ間に判断したのだろう。
「悪意って、どういうことですか?」
「これは俺の専門外だが‥‥」
そう言って置き物を掌でくるりと一回転させ、話を続けた。
「これは人の仕業だ。この置き物は、自分の不幸を人に置き換えるための媒体だよ。つまり、元の持ち主が交通事故に遭う運命を背負っていた場合、その運命を拾い主に押し付けることができる。別に不幸なことばかりとは限らないが、幸福を見ず知らずの人に分け与える人間がこの世にいると思うかい?」
口元にうっすら笑みがこぼれているように見えて、薄気味悪くなった。しかし、この不幸をもたらすという置き物を引き取るとは?僕を救おうということか、それとも、不幸でなくて幸福がつまった置き物なのか。
「ちょっと待ってください。でも、そんなものが学校にあるなんておかしいですし、大体なんで分かるんですか?やっぱりこれ学校に届けることにします」
「君がそうしたいなら俺は止めない。今君はなんで分かるって言ったね。俺はこういう事件というか、事象に興味があってね。色々調べてるんだ。今回の件は専門外だが、対策はもう思いついてるんだ」
「なら教えてください、その対策を」
「君には教えない。いや、正確には教えても意味がない」
なんだかこの男のもの言いが癇に障ってきて、どうでも良くなってきた。この忌々しいカエルの置き物も、この男に渡すことで自分が負けてしまうような気がして、意地でも渡すまいと思った。
「じゃあ、そろそろ次の講義がはじまるんで」
講義が始まるまでにはまだあと十五分ほどあるが、今の自分にとってはこの空白の時間の過ごし方なんてどうでも良かった。
トレーを乱暴に手に取って、まだ自分の前に立っているその男を置き去りにして、食堂を後にした。
うとうとしながら午後の講義を受け、開始時間にはきっちり綴じ目を広げていたノートにも、終了時間になってみると真っ白いのページにうっすらとよだれの後が残っているだけだった。
帰り道、自転車のペダルを漕ぎながら、今日は何とも後味の悪い一日だったと振り返った。午前中の講義でフロイトがどうのとメモしたのは覚えているが、結局は食堂に現れたあの男の顔に掻き消されてしまう。ぼうっと外を眺める無気力な顔、ニヤリと笑う口、すべてが腹立たしいものだった。
男が着ていたTシャツの腹に「無礼者」と書き込んでやりたいと思ったが、Tシャツの色が黒だったことを思い出し、より力強くペダルを漕いだ。
家に帰ってから無造作にバッグを放り投げ、ベッドにごろんと寝転がり、宙に向かって足を組んだ。また男の顔が思い出されたが、意識の外に放り投げた。思惑を意識から投げ出しているうちに、知らない間に眠りについてしまった。
ふと意識を取り戻すと、携帯電話の青色の点滅が目に入った。開くと、「新着メールあり1件」と表示されている。
入学して間もない頃に、サークルや部活動の新歓コンパがあり、わけもわからず多数の人とメールアドレスを交換した。そのうちの半分ほどが顔と名前が一致しないものだったが、あわよくば女の子からのメールであってほしいとわずかに期待した。
開いてみると、母さんからのメールだった。
「件名 元気にやってますか? 今日は家族で花見に行きました。雪雄の大学も桜が綺麗に咲いていますか?また帰ってきなさいね。みんなで待ってます」
メールには写真が添付されていて、左から母さん、妹、父さんが並んでいる。満開であろう桜をバックに撮影しているが、三人の顔が近すぎてよく見えない。母さんの顔の左端が欠けていて、素人目にもずいぶん不細工な構図である。
期待していた分、親からのメールだったことに落胆し、そのまま画面を閉じた。
家族とはそれなりに仲の良い方だったが、逆にそうした馴れ合いに嫌気がさしたことも、実家を出て遠くの大学に進学することを決めた一因だったのかもしれない。
間もなく今度は友達から着信が入り、最近読んでいる漫画の話や始めたばかりのバイトの話などで知らぬ間に夜を迎えてしまった。風呂に入るのもおっくうになり、今日はシャワーで済ますことにした。