第一章 「雪雄と怜」 (一)
大学1回生の春。
講義を終え、頭上高くに立ち並ぶ桜に目を遣りながら、食堂へ向かった。
食券販売機の前で財布を広げ、千円札が一枚入っていることを確認し、日替わり定食のボタンを押した。
慣れた手つきで食券を抜き取り、カウンターのおばさんに渡す。流れ作業のようにひとつずつ皿や椀を受け取り、水をくんだ後、できるだけ人の少なそうな席を探した。
弁当箱のふたも開けずに何やら携帯電話の画面を見せ合っている女の子たちや、中央の円卓を囲って俺のカツが大きいだのハンバーグの方が旨いなどと異様に盛り上がっている男たちの間を通り過ぎ、窓際の二人掛けテーブルにトレーを置いた。背後では先ほどの男たちの中の一人がカレーライスのコストパフォーマンスについて熱弁している。
横にある全面ガラス張りの窓から眺めると、桜の花は何かの印章で見たそれと本当に同じ形をしているんだとはじめて気付かされた。
食堂を何時に出ればちょうど良い時間に次の教室に入れるかなどと考えながら食べていると、ふと前方から何ものかの視線を感じた。反射的に前を見ると、その視線の主はそれに気付いたのか視線を一瞬下に落とした後、桜の木の方に目を向けた。
ここには毎日通っているが、サラリーマンが通勤路の切符を毎日買うように日替わり定食の券を買っていたので、向かいの男が食べているカレーライスがなんとなく気になった。
再び男がちらりとこちらに視線を向けたので、今度はこっちの方がバツが悪くなって視線を桜へ向けた。なんだか妙な感じだ。さっさと目の前の皿を空にして立ち去ればよかったのだが、ここを出ても講義の時間まで特に行くところもないので、意味もなく携帯電話を開いたりしながら、冷めた味噌汁を少しずつすすった。
男は早々にカレーライスをたいらげ、ガサゴソとかばんの中をあさっては、何を取り出すわけでもなく、またぼんやりと窓の外を眺めていた。
視線の主への興味もいつの間にか薄れ、背後で「うどんは二百円、カレーライスは二百九十円、カレーうどんは三百九十円。これっておかしくないか?カレーうどんを頼むくらいならうどん二杯食べるだろ」という円卓の男に対して、他の男が「ルーが百九十円すると考えたら別に妥当じゃないか」と反論しているのを、妙に納得しながら聞いていた。
すると、不意にガタリという椅子の音が聞こえ、先ほどの視線の主が僕の横に姿を現した。
「うどんの出汁はタダじゃない。カレーライスが特別安いだけなんだ。」
普通なら変なやつに絡まれたと後ずさりするところだろうが、背後の論争を聞き届けていた僕には意味がよくわかった。
「だからカレーライスを食べてたんですか?」
「いいや、カレーうどんは嫌いなんだ。飛び散るから」
やっぱり変なやつに絡まれたらしい。
これ以上会話を掘り下げる意味も感じず、無愛想に「そうですか」と答えた。
「それと、君、アブないよ」
視線の応酬のことなら、先に見たのはそっちだろうと、この無礼な男に言い返してやりたかったが、まだ入学して間もない自分が目の前の上級生だか分からない男に歯向かうのは得策ではないと思った。
「そうですか」
「君のかばんの中」
そう言うと男は僕のかばんを指さし、こくりと頷いた。
「かばんの中が危ない?どういうことですか?」
先ほどのわずかな苛立ちは収まったが、まだ僕が危険人物であると指摘されていることには変わりないと思い直し、再び眉間にしわを寄せた。
「その中に何かいつもと違うものは入ってないか」
バッグの中には財布、鍵、筆箱、教科書、無造作にプリントを放り込んだクリアファイル……と思いを巡らせながら、ひとつ異質なものがあることを思い出した。
「これですか?」
かばんから取り出すと、男はおもむろにそれを手に取った。
「…………」
さっきの講義の時間、机の上にあったカエルの形をした置き物。高さ十センチほどの木彫りのカエルで、深緑色に塗られている。
男はその置き物を指でコツコツと叩いたり、ひっくり返したりしながら、目を凝らして見つめている。
変なやつという思いが確信に変わった。