言の刃(ことのは)
言の葉と書いて言葉である。
しかし、昨今では「言の刃」と表現するほうが正しいような気がする。
先日、東海テレビで放送された「セシウム」事故。
いや、これは明らかな悪意がこめられた事件であろう。
委託会社の50代の男性がテロップを作成し、それを誤って放送したと記事にはあった。
当然ながらテレビ局の管理・運営責任は問われて然りである。
しかし、それよりもいたずらとはいえあのような下衆な表現をする50代の男性の感性に問題がある。
これは何もこの一件に限ったことではない。
過日には千葉県に避難してきた幼い兄弟に地元の子供が「放射能がうつるから逃げろ」などと言ったという事件もあった。
言論は自由だ。
しかし、それは他者に対する配慮や思いやりをもって初めて成立する「権利」なのである。
「権利」である以上「義務」を果たさなければならないのである。
きっとあの50代の男性や罵った子供たちは今は猛省しているだろう。
いや、してもらわなければならない。
私は自分が聖人ではないことを自覚している。
だから綺麗事を言うつもりはない。
私だって下衆な言葉を羅列して人を傷つけることがある。
だから一歩下がってみれば、私も先の男性や子供と何ら変わりないのだろう。
しかしである。
自分が発した言葉が仮に人を傷つけた場合、それを猛省し、傷つけた人を労わる人間らしさくらいは持ち合わせている。
そしてまた、自分が社会に含まれた一つの存在であるという認識があれば発した言葉の善悪くらいは自ずと分かるはずである。
言い方を変えれば身の程をわきまえず、自分が世界の中心だと自覚なしに思っている人間が増えてきているということなのだろう。
だから平気で人を非難し、否定する。
自分を棚上げして人を吊るし上げ、その言葉の意味を省みずに暴言を吐く。
そういう人が発する言葉はまさしく「刃」なのである。
物理的な刃によるダメージは治療をすれば治るかもしれない。
しかし、言葉の刃によるダメージはそれを負った者のその後の人生を左右しかねないのだ。
そういうことも想像できない人間が現代は余りにも多い。
これは昨今、テレビでも普通に使われる「ウザイ」という言葉が立証している。
他人を否定し、自分を擁護する姿勢がこの言葉に現われているのだ。
私は問う。
言の葉をいつから人は言の刃にしたのだろうかと。
有史以来、人は言葉を用いて文化、文明を発展させてきた。
故に言葉は偉大なのである。
その言葉を刃とし、人を傷つけるこの行為を愚行と言わずに何と言おうか。
先にも述べたように、私は聖人ではない。
ただの四十のオヤジだ。
そのただのオヤジが綺麗事を語る気は更々ない。
だからこれはただの独り言に過ぎない。
だが、この独り言が誰かの何かのきっかけになることを望んで止まない。
刃によって傷ついた人たちに救いと癒しの有らんことを…