入学式
また今日も朝が始まったようだ。いつものように畳から響く慌ただしい足音で目が覚めた。
「お父さん、今日は何の日か分かってる?」
妻の雅子が一人分の弁当をカバンに収めながら聞いてきた。
「何かあることは分かってるんだけど、何だっけ?」
「今日は、よし子の入学式でしょ」
雅子がこっちを見ることなく吐き捨てるように言った。
「そうだそうだ」
「9時に第一小学校だからね」
そういって雅子は仕事に出て行った。
雅子はシステム会社でエンジニアとして働いている。結構大きな会社らしいが私はあまり機械は強くないので分からない。仕事が忙しいらしく、休日を取るのはいつも自分だ。
私は近所のスーパーで靴修理・合鍵屋で働いている。お客さんのありがとうをもらうたび、この仕事でよかったと感じている。
雅子には言ってないが、この店は三人のスタッフでシフトを組んでまわしているので、休みを取るのは実は結構難しい。事前に二人のどちらかに連絡をして調整をしなければならない。もし調整がつかない場合はオーナーに連絡をして出勤をしてもらうことになっている。今回は事前に調整を済ませているので、気兼ねなくお休みを取ってよし子の入学式に向かうことができる。
小学校までは歩いて30分だから、8時半には家を出なければならない。今ちょうど8時をまわったところだから、残りは後30分しかない。
私は急いでよし子を起こし、用意してあった洋服とランドセルを身につけさせた。
キッチンには朝食も用意してあったが時間が無いので、食パンをラップに包んで三枚ほどズボンのポケットに突っ込んだ。
眠そうなよし子の手を引いて家を飛び出した。何とか時間内に出発をすることができた。
「眠いよ」
よし子が何か訴えてきたが、私はそれに答える余裕はすぐになくなった。
小学校の場所がよくわからないのだ。雅子が運転する車でたびたび学校の近くを通るのだが、一人で行くのは初めてかもしれない。運転する人と乗ってるだけの人では地図の記憶に差が出ることを聞いたことあるが、まさにこれだと思った。雅子に電話するのもかっこわるいので記憶の奥底から手がかりを探った。
確かタワーの方向だった気がする。
私は急いでタワーを確認し、そちらに向かって歩き始めた。
車通りの多い大きな道路沿いを10分くらい歩いただろうか。前方からランドセルを背負った小学生の少年がやってくるのが見えた。よし子のお友達なのか。それとも我々を迎えに来てくれたのだろうか。10秒間ほど立ち止まり、二人並んで少年を出迎えたが、少年はそのままこちらを見向きもせずに通り過ぎてしまった。
「・・・・・」
次の瞬間、私に大きな不安が襲いかかった。我々は小学生である少年と歩く方向が逆である。もしかしたら小学校の方向が間違っていたのかもしれない。そういえば何となく逆だった気がしてきた。いや完全に逆だ。逆側のホームセンターがある方だ。少年もそっちに向かっているし間違いない。
私は、眠そうなよし子の手を引っ張りながら、少年の後を追った。
10分くらい歩いただろうか。少年が急に向きを変え、歩道沿いにある地下鉄への階段を降り始めた。
何で地下鉄に降りるのだろう。近道でもあるのだろうか。
なるほど、さすが小学生である。私も子供のころはよく近道を見つけていたものだ。
私はにやにやしながら少年の後を追った。その後少年は改札にたどり着くと、ポケットから何かカードらしきものを持ち出して、そのまま改札を通り過ぎていってしまった。
「・・・・・」
次の瞬間、私に再び大きな不安が襲いかかって来た。あの少年は別の小学校に通っているのではないか。やはり小学校があるのはタワーのある方だった気がする。最初から合っていたんだ。なぜ私はあの少年の後を追って来てしまったのだろう。
時計を見ると集合時間までは10分を切っている。急いで今来た道を戻ることにした。
急いで道路沿いの歩道を歩くものの、小学校らしき建物が見えてこない。通りが違うのか。焦りが深まる中、通りが一本違う気がして来たので、一本小道に入ってみたが、それでも小学校は見当たらない。小道はタイムスリップしたかのような昭和の匂いがする古汚い家とシャッターの降りた商店が広がっている。時計を見るともう既に集合時間をすぎていた。
もういいや。少し諦めの気持ちが芽生えるのを感じたともに、妙に冷静になっている自分に気がついた。
小学校はどこだ。とりあえずタワーのある方角に向いて歩き始めた。
15分くらい歩いただろうか。春だというのに今日は酷く暑く感じる。額から汗が垂れ流れてくる。
よし子も酷く疲れているようだ。
「よし子、お腹空いてないか?」
よし子は下を向き、頭を左右に振って答えた。よし子の額にも汗が流れている。
小学校はこっちのはずなのだが。
人がいれば道を聞きたいのだが、不思議なことに全く人が見当たらない。
その後どれくらい歩いただろうか。真夏のような暑さの中、意識がもうろうとし、目の前が霧がかかっているように見える。暑さで疲れているのだろう。
このころから小学校にたどりつくことが目標となっていた。たどり付けさえすれば雅子にバレて怒られることはない。
目の前の霧がさらに深くなり、視界が全体的に白っぽくなっている中、遠くの方に、木で出来た白い小さな看板が立っているが見えた。
ゆっくり近づいてみて見ると、看板には次のように書いてあった。
「小学校まであと3時間」
あと、3時間かあ。きついな。でも道は合ってそうだ。がんばるしかない。
「よし子、大丈夫か?」
「わたし、お腹減った」
「よし、わかった」
私はポケットの中に手をいれ、クシャクシャになった食パンを片手でちぎり、よし子の口に入れてやった。
「おいしい」
よし子の酷く疲れた顔が少しだけ緩んだのがわかった。
水を買わないといけない。酷く喉が渇いている。額から垂れている汗を考えてると当然である。
近くに自動販売機が無いか辺りを見回したが見当たらない。
一時間くらい歩いただろうか。もう暑さとのどの渇きで限界に達しそうな中、前方に氷と書かれた商店があるのに気がついた。
助かった、かき氷を買おう。