第88話 海の日
新学期を迎えた朝はまだ夏の暑さが残る快晴だった。
休み明けで眠そうな生徒や真っ黒に日に焼けた生徒など休み前とわずかに違いを見せる通学路を"Innocent Vision"やヴァルキリー、ジュエルのメンバーが学生として登校していく。
互いにその姿を見掛けることはあっても学生溢れる通学路で仕掛けることもなく学校へと向かう。
「おっはよー、叶。」
叶が教室に入るなり裕子が元気よく声をかけた。
「おはよう裕子ちゃん。今年は元気だね。毎年宿題をギリギリまでやっていて疲れてたのに。」
「言うようになったわね、あんた。ふふふ、だけどあたしは今までとは違うのよ。」
「じゃあ1人で終わらせたんだ。すごいね。」
昨日電話が掛かってきたときは泣いていたがその後頑張ったのだろうと叶は素直に感心する。
だが裕子は照れたように視線を外した。
「まあ、1人じゃなかったんだけど、ね。」
「そうなの?」
さすがに叶もその相手が芳賀なのはすぐに理解したが照れる理由はわからなかった。
裕子は照れ隠しのように腰に手を当てて胸を張った。
「そして悟ったのよ。人間、諦めが肝心だって。」
「そこは悟っちゃ駄目だよ!」
叶は親友を堕落の道から救うべく揺らすが裕子はハッハッハと笑いながらなすがままになっていた。
結局終わっていない宿題を叶が貸し
「芳賀君!」
「お、おはよう、作倉。いきなりどうした?」
登校早々芳賀は叶のお説教を受ける羽目になった。
芳賀と裕子はアイコンタクトを交わして互いに頬を赤くし
「聞いてますか?」
「もちろん聞いてるぞ、作倉大先生。」
芳賀は始業式まで怒られた。
「みんな、席について。」
チャイムと共に担任が教室に入ってくると生徒たちは慌てて席に戻った。
だがいつもよりも教室が騒がしい。
「静かに。もうすぐ始業式ですがその前に皆さんのクラスに新しい友達が加わります。」
オオーとざわめきが歓声に変わる。
特に何も言っていないのに男子の期待の目はギラギラと入り口に向けられていた。
叶はなんとなく裕子に目を向けたが裕子も驚いているようだった。
情報通の裕子にしては珍しい。
「それじゃあ入ってきなさい。」
「はい。」
よく通る澄んだ声が廊下から聞こえた。
その声に男子が色めき立つ。
すらりとした足が教室に踏み出され、ふわりとスカートが揺れる。
セミロングの髪をさらりと靡かせて1人の少女が教壇に立った。
若干名違う意味を持ちながら全員が静まり返る。
「今日からお世話になる飯場海です。よろしくお願いします。」
担任が黒板に『飯場海』と書いた。
(飯場…)
(海、さん?)
真奈美と叶が困惑する。
2人の前に現れたのはどう見ても壱葉高校の制服に身を包んだ半場海だった。
体育館での始業式。
多くの学生は面倒くさがりだらけているのに対して"Innocent Vision"やヴァルキリー、ジュエルの一部は緊張感を纏っていた。
(なんで叶のクラスに半場海が?)
(どうやって入学しやがったんだ?)
2年1組の八重花と由良。
(アイツ、絶対に殺す。)
(あらあら、大変なことになってきましたね。)
2年2組の美保と悠莉。
(インヴィの妹か。)
("Innocent Vision"といい飯場海といい平気で登校してきて馬鹿にして。)
(お嬢様にお知らせしなければ。)
3年の良子、緑里、葵衣。
それぞれの思惑が渦巻く体育館。
その渦中にある飯場海は
「ふあぁー、あふ。」
暢気に欠伸していた。
結局誰もがろくに話を聞かないまま始業式が終わりぞろぞろと教室に戻っていく一同。
叶も教室に戻る流れに乗っていると
「ちょっとごめんね。」
と背後から声が聞こえてきて
「叶ちゃーん。」
後ろから海が抱きつかれた。
「きゃー!?」
叶は突然のことに混乱して暴れるが海は粘着生物みたいに張り付いて剥がれない。
海の手が動いて叶の胸にいく。
「むむ、もう少し無いかと思ってたけどこれは…」
「や、やめてぇ。」
乙女のスキンシップに男子は顔を赤くしながら興味津々に目と耳に意識を集中させる。
「こら、男子!」
裕子がそれを一喝した。
そそくさと逃げ出していく男子諸君。
「まったく、困った奴らだ。」
芳賀は腕を組んで呆れ顔をしながらそれを見送っていたが
「雅人くーん?」
「いだだだ、耳が千切れる。」
額に青筋を浮かべた裕子に耳を引っ張られて行ってしまった。
「…行っちゃったね。」
「はい。」
騒ぎの当事者が置いてきぼりになって目をぱちくりさせていた。
叶は海の魔の手から抜け出してムーと恥ずかしそうに上目遣いで睨む。
「海さん?」
「ああ、そんな可愛らしく睨まないで。女の子同士のスキンシップだよ?」
海は叶の反応を楽しそうに笑いながら手をワキワキさせる。
「っ!」
叶は戦闘時を思わせる集中力で海の動きを警戒する。
ジリジリと距離を詰めようとする海と同じだけ逃げる叶。
「なかなかやるね。」
暫しのにらみ合いの後、海は襲撃の構えを解いた。
叶がまだ警戒する横を通り抜け
「まだまだ後で時間はいっぱいあるしね。」
その際にそう言い残して去っていった。
「うう。」
叶は寒気を感じながら教室に戻っていった。
叶が遅れて教室に戻ると海はクラスメイトに囲まれていた。
「ねえねえ、飯場さん。前の学校はどこだったの?」
「新麗学院だよ。」
「新麗ってあのお嬢様学校?飯場さんてお嬢様?」
「まさか。うちの親が淑女になれって無理矢理に。それが嫌で逃げ出してきたの。」
あはははと海が笑うとクラスメイトも笑った。
あっという間に打ち解けている。
叶はその光景を見ながら真奈美のところに向かった。
「すごい人気だね。」
「人当たりは良さそうだからね。半場と違って。」
確かに陸は極力人との関わりを避けようとしているオーラを発していた。
裕子や八重花がそれを無視してちょっかいを出したから打ち解けたが、それがなければ芳賀くらいしか友達がいなかっただろう。
「そういや半場って奴がいたな。でも字が違うか。でも顔が何となく似てるような…?」
男子の1人が核心に迫る疑問を無自覚に口にした。
「私に似た美男子がいたの?是非会ってみたいな。」
「それ自分で言うかな?」
海はそれをまったく動揺せずに受け流す。
これで半場陸と飯場海の相関を勘繰る者はいなくなった。
「はい、席に戻って。」
担任が戻ってきて雑談はお開きになった。
叶も席に着こうと移動すると海と目が合った。
海は笑顔で叶に手を振る。
叶は恥ずかしくて小さく振り返すと海はとても嬉しそうに笑っていた。
始業式は午前中で終わったので学生たちは午後からフリーだった。
こう言うときは裕子が
「カラオケ行くぞー!」
と遊びに誘ってくるところだったが
「ごめん。先に帰るね。」
裕子はそそくさと教室から出ていってしまった。
さらに芳賀も友人の誘いを断って帰っていった。
「なるほどね。」
真奈美が訳知り顔で2人が出ていったドアを見て頷いた。
「裕子ちゃん帰っちゃったけどどうしようか?」
「叶ちゃーん!」
真奈美に予定を尋ねていた叶は突然横から飛び付かれた。
海が叶の胸に顔を埋めて幸せそうな顔をしている。
途端に叶の顔が真っ赤に染まった。
「な、何か用事なの!?」
叶は海を引き剥がそうとするが全然離れず顔をスリスリと動かす。
「あ、くすぐったいよ。」
叶の声にわずかに色が混じる。
男子たちは生唾をごくりと飲み込んだ。
「はい、男子諸君。大人しく退室しないと女子に嫌われるよ。」
真奈美が叶を庇うように立つとクラスに残っていた女子が男子に冷たい目を向けた。
「ハッ、失礼致しますです!」
ここで悪い噂が立つことは学校内の悪評に直結、つまりはモテなくなると瞬時に理解した男子は軍隊よろしく淀みない歩みで早々に退室していった。
「飯場さん、やりすぎると男子の目の毒だから気を付けてあげてね。」
女子校のノリを知るクラスメイトが忠告だけして皆何事もなかったように帰っていく。
あっという間に叶と海、真奈美だけになっていた。
「久美まで帰っちゃったのか。一緒に遊びに行こうと思ったのに。」
「もしかして邪魔しちゃった?」
海が叶に抱きついたまま申し訳なさそうな顔をした。
「何も言わなかったから多分用事があったんだと思います。それで海さんは私に用だったんじゃないんですか?」
叶はもう抱きつかれるのは諦めて抵抗しなくなっていた。
海は抱き心地の良い角度を探しながら背中に回って叶の肩口から顔を出す。
「叶ちゃんに学校を案内してもらおうと思って。」
確かに海はすっかりクラスに溶け込んでいるとはいえ転入生には違いない。
むしろ他に案内を申し出るクラスメイトがいなかったことの方が叶にとっては驚きだった。
「ちゃんと誘われたけど叶ちゃんにお願いするからって断ったの。」
叶の顔に出ていたのか、それとも心を読んだのかタイミングよく海が叶の疑問に答えた。
「そうですか。でも裕子ちゃんじゃなくてなんで私ですか?」
クラス委員長は男子だから頼みづらいかもしれないが副委員長は裕子だから頼みやすい部類の人物だ。
既に帰ってしまった後で言うのもなんだが適任には違いない。
「もう、叶ちゃんのいけず。折角叶ちゃんと仲良くなれるチャンスを不意にするわけないよ。それに久住さんは朝からそわそわしていてそれどころじゃなさそうだったしね。」
海は叶の頬をつつきながら顔を寄せる。
構図的には背後に百合の花が咲きそうだった。
真奈美はむしろ自分でも気付かなかった裕子のわずかな変化を鋭敏に察知した海の感覚に驚いていた。
「まあ、新入生みたいなものなのは事実だし案内してあげたら、叶?」
「わーい。真奈美ちゃん話が分かるね。」
叶を抱いたまま喜ぶ海。
もはやされるがままの叶は不安げに真奈美を見た。
「えっと、真奈美ちゃんは?」
「あたしもちょっと用事があってね。」
そう言ってポンと義足を叩く。
今でも真奈美は定期的に通院している。
すっかり元気で真奈美本人も普通に生活しているから忘れられがちだが大怪我から日常復帰してまだ半年しか経っていない。
なので足及び左目の経過観察は続いていた。
「あ、そうだったね。お大事に。」
「さすが真奈美ちゃん。空気読んでる!」
海が実に嬉しそうに親指を立てた。
真奈美は帰り支度を終えてドアに向かい、ドアに手をついたところで一度足を止めて振り返った。
「それはどうも。だけど、もしも叶に何かあったらその時はただじゃおかないよ?」
真奈美は去り際に鋭い視線を海に向けて帰っていった。
「ちょっと震えちゃったよ。」
言葉とは裏腹に海の瞳にはわずかな朱色が差していた。
「海さん?あのときも言いましたけど"Innocent Vision"は無用な争いは駄目ですよ。」
叶が注意すると海はきょとんとし
「んー、叶ちゃん、可愛いなぁ!」
ギューッと強く抱き締めた。
「離してください、海さーん!」
叶の悲鳴が誰もいなくなった教室に響き渡った。
「…」
学校案内を始めた叶と海を遠くから見る者たちがいた。
"Innocent Vision"の八重花と由良である。
「マナは帰ったか。そうなると少なくともすぐにカナに危険が及ぶ可能性は低そうだな。」
本当に海が危険な人物だと感じれば真奈美は医者の予定をキャンセルしてでも叶についていたはずだ。
「どうかしらね?2人きりになった今からが本当の姿かもしれないわよ?」
八重花も由良も、"Innocent Vision"やヴァルキリーの誰も海の本来の姿を知らない。
知っているのはアダマスを操るソーサリスとしての一面だけだ。
"人"としての海を知っているのは陸や両親や昔の友人だろうがその辺りの伝がない以上、己の目で見極めるしかない。
「…、それにしても…」
八重花は前に目をやる。
本来なら並行に立って見えるはずの背中は
「叶ちゃーん。」
「もう、海さんは。」
人あるいは入のシルエットになっていた。
あるいはトか。
「何であんなに叶になついてるのかしら?」
4組の騒動を耳に挟んだ限りでは最初から叶にべったりだったらしい。
だから転入生だが叶とは知り合いだったという話まで聞こえてきていた。
「さあな。少なくとも俺は女同士でベタベタする感覚がわからん。」
由良は美形なので悪い噂が無くてもう少し表情を穏やかにすれば『お姉様』と呼ばれる立場にいたかもしれない。
だが本人はまったくその気はない。
「私は少しは分かるけど、でもやっぱりベタベタするならりくに決まっているわ。」
「そうだな。」
「…。」
「…。」
バチバチと静かに火花を散らす恋敵。
2人は不敵な笑みを浮かべあいながら叶たちを静かに尾行し始めた。




