第36話 監視者の目
学内にオーの手の者がいる。
真奈美によりもたらされた情報により"Innocent Vision"は表面上は普段通りに警戒を強めていた。
すでに警戒を続けて1週間ほどになるがオーの襲撃はなく学内でも不審人物は見つかっていない。
「顔が判別できていれば一発なのに、惜しいわね。」
八重花は「エクセス」を用いて探索しているが芳しい結果は得られていなかった。
さすがに顔不明、名前不明、学年不明では壱葉高校に在学する女子約300人、真奈美の見た背格好から絞り込んだとしても100人程度の候補がいる。
一応手分けして"Innocent Vision"で探りを入れては見たが望ましい結果は得られなかった。
「さすがに潜伏しているだけあって普段は爪を隠しているわよね。」
そういう意味で言えば"Innocent Vision"もヴァルキリーも違いない。
"日常"の中に"非日常"を隠しているのだから。
せめて八重花が遭遇していればもう少し特徴なりを判別できたかもしれないが真奈美の代わりに遭遇したら今頃墓の下だっただろうから贅沢は言えない。
「あの人型の闇が化けたとは考えにくいわね。やはりファブレのようにオーを生み出した張本人と考えるのが妥当かしら?」
「八重花、コーヒーとお菓子貰ってきたよ。」
思案中の八重花の部屋のドアが開いてお盆を手にした真奈美が入ってきた。
「ありがとう。とりあえずコーヒーだけもらうわ。」
「了解。」
真奈美はテーブルにお盆を置くとコーヒーをパソコンデスクの上に置く。
自分の分は手に持ったままパソコン画面を覗き込む。
「進展は?」
「思わしくないわ。少なくとも真奈美が判別できない相手を私が見つけるのは難しいわね。」
八重花は画面に候補に絞った女子生徒の写真をずらりと並べているが真奈美がピンと来る相手はいない。
「せめて声のデータでも取れていれば違うんだけど。取ってないわよね?」
「どうやって取るのかもわからないよ。」
ふむと顎に手を添えると八重花は机の引き出しから無造作に置かれたICレコーダーを取り出して再生ボタンを押した。
『八重花、コーヒーとお菓子貰ってきたよ。』
それは真奈美が部屋に入ってきたときの台詞だった。
「簡単でしょ?」
「…。」
真奈美は若干犯罪者を見る目を八重花に向けるが当人は悪びれた様子もなく女子の並ぶウインドウを閉じた。
「それに聞いた感じだと袋を頭から被ったみたいにくぐもった感じに聞こえたよ。」
ボイスチェンジャーまではいかないでも声の判別は難しいのではないかという真奈美の発言に八重花は答える代わりに別のアプリケーションを立ち上げた。
「声紋認証っていうのがあるのよ。それにイントネーションの癖や声量も判断材料になるわ。」
さっき採取した真奈美の声と以前どこかで取ってあった真奈美の声紋パターンを抜き出してピークを重ねると当然ながら一致した。
「はー…」
真奈美は最先端の科学技術に、そして何よりそれを自宅のパソコンで再現する八重花に関心とも呆れとも言えない声を漏らした。
「八重花、将来科捜研に就職しなよ。」
「ふふ、考えておくわ。」
真奈美の褒め言葉に微笑みを浮かべて八重花は伸びをした。
そのまま天井を見上げる八重花の瞳は頭の中に描かれた構想を眺めている。
「情報が足りないなら…集めるしかないわね。」
叶は保険委員会に参加していた。
先日の体育祭を例に取り上げてああいった場合の対処法がレクチャーされる。
真面目にノートを取っていた叶はふと視線を感じて振り返る。
振り返った叶を訝しんで目をむけてくる生徒はいたがすぐにノートに戻ってしまった。
「?」
叶も判別がつかないものをいつまでも見ていられないので前に向き直る。
殺気や敵意といった類いの視線ではなかった。
どちらかと言えば好奇に近いものだったがあいにくそんな目を向けられる謂れはない。
(もしかしてオーが監視してる?)
あり得ない話ではない。
オーが1匹いたらあと10匹はいると考えた方がいいという感じの相手なので警戒しすぎるということはない。
(やっぱり見られてる。)
あまり気配や視線に過敏な方ではない叶でさえはっきりと気付いた。
相手はそれほど尾行や監視に長けてはいないように思えた。
(みんなに連絡…)
ここは協力を求めて犯人を突き止めようと考えたところで先日の特訓を思い出す。
(こうやってみんなに頼ってばかりじゃ駄目だよね。これは私が何とかしなくちゃ。)
1人で捕まえて功績を、ではなくみんなの邪魔はできないという考え方は実に叶らしい。
(頑張るよ。私も"Innocent Vision"の一員なんだから。)
こうして叶の監視者追跡作戦が密かに開始されたのであった。
「これで本日の委員会を終了します。各クラスへの配布資料を受け取っていってください。」
委員長が閉会を告げると会議室はにわかに騒がしくなり早く帰りたい委員が我先にと資料に群がっていく。
叶は席から動かず荷物を纏める振りをしながら周囲を見ていた。
(早く帰る人たちは違うよね。)
今は騒がしくて視線は分かりづらいがまだ見られているように感じる。
今振り向いてしまうと見ていることがバレてることに気付いて逃げてしまうかもしれない。
あくまでも気付かない振りをしながらどうにかして相手を逃げられないように追い込まなければならない。
(とにかく周りが落ち着くまで待とう。)
多くは委員会が終わると帰っていってしまうのだが中には集まって雑談を始めてしまう人たちもいるためなかなか視線の主の特定ができない。
「作倉さん、ちょっといいですか?」
「は、はい?」
呼ばれて顔を上げると委員長が立っていた。
インテリ眼鏡の好青年といった風貌で穏やかな性格から女子に人気がある…らしい。
叶はよく分からなかったが裕子がそう言っていた。
「実は配布用のプリントの部数を間違えていたようで足りなくなってしまいました。すみませんが印刷を手伝ってもらえませんか?」
まだ結構な人数が残っているから1人では大変そうだった。
「はい、いいです…」
快く了承しようとしたその瞬間、明らかに視線が強まった。
(ッ!)
驚きを押し込めて平静を装う。
幸い委員長は叶の変化に気付かなかったらしく
「それではすみませんがコピー室まで行きましょう。」
「はい。」
叶は返事をして席を立つ。
先程強く感じた視線はまた弱くなったが確実に叶に向いていた。
放課後の廊下を男女2人で歩く。
これが"Innocent Vision"の仲間や裕子たち、琴なら雑談をしながら楽しく移動でき、陸だったらちょっとしたデート気分でドキドキかもしれなかったが残念なことに相手は顔見知り程度の委員長。
「どうして私に声をかけたんですか?」
と相手が気があった場合にはしどろもどろになりそうな質問にも
「こう言っては失礼かと思いますが一番時間を持て余しているように見えたので。」
となんとも面白味にかける回答が得られた。
人通りも疎らな廊下を歩く。
だが確実に背後からの視線は向けられていた。
(追いかけてきた。今なら振り返れば正体が掴めるかも。)
叶は振り返ろうとして
「あ、そういえば…」
タイミング悪く委員長が雑談を振ってきたのでタイミングを逸してしまった。
そうしているうちに直線の廊下が終わり階段へと差し掛かる。
「ん、カナ、何やってんだ?」
「あ、由良お姉ちゃん。」
「ッ!!」
また屋上に居たらしい由良がちょうど上から降りてきたところだった。
初めはお姉ちゃんは恥ずかしいと言っていたが数日で慣れてからはすっかり由良お姉ちゃんで定着していた。
琴が少し拗ねているようだったが叶にはどうしたのかよく分からなかった。
そして何故か委員長がビクリと震えていた。
由良は隣に立つ委員長に気付きつつも特に関心がないのかすぐに叶に目を向けた。
「別の男に乗り換えた訳じゃないだろうが、どうかしたのか?」
瞳がわずかに細められた。
これが脅迫に類する物だと耳にすれば一瞬で拳を叩き込みそうな感じだ。
「委員会の資料のコピーですよ。由良お姉ちゃんはどうしたんですか?」
それを聞いた由良はあからさまな警戒の気配を解いた。
「ヤエはマナとさっさと帰ったし明夜もいつの間にか居なくなってたからな。たまには屋上で昼寝だ。」
叶は屋上で授業をサボってたんじゃないかと思っていたので
(言わないでよかった。)
と内心ホッとしていた。
「それじゃあ俺は帰るが、気を付けろよ?」
色んな意味に取れる忠告は"Innocent Vision"の中ではヴァルキリーかオーについてと決まっている。
少なくとも隣に立つ男に襲われるなよではない。
尤もオリビンを持つ叶ではあるが戦闘能力は低いので襲われたら危険ではあるが。
叶が頷くと由良は手をヒラヒラ降りながら階段を降りていった。
「すみません。お待たせしました。」
「あ、いや、大丈夫だよ。」
委員長は少し慌てた様子で眼鏡を押し上げた。
「作倉さんは羽佐間さんと仲がいいのですか?」
「そうですね。仲はいい方だと思います。」
"Innocent Vision"のことを明かすつもりはないが仲良くしてもらっているのは明らかなので隠すようなことでもない。
「…彼女のようなかっこいい女性はどういった男性を好むのだろう?」
委員長がこういう話題を振ってくるのは意外だったが叶は聞かれた以上考える。
だが考えるまでもなく浮かぶのは陸の事だった。
「心も体も強い人だと思いますよ。由良お姉ちゃんを色んな意味で支えてあげられる人です。」
由良の名を知る者の大半は彼女を孤高の一匹狼だと思っている。
だがその本質は姉御肌で仲間思いで意外と傷付きやすい心を持っていたり妙に可愛らしいところがあったりと個性豊かな普通の女の子でしかない。
それを理解してあげられればあるいは…と考えたところで陸には敵わないと思い至って続きは口にしなかった。
「強い人、か。」
委員長はその言葉を深いため息と共に出したがその真意を問う前に目的のコピー室に到着した。
コピー自体は数分だったがやはり少々かさ張るため2つに別けて少ない方を任された。
「少し遅くなったようです。皆さんを待たせるのも悪いですので急ぎましょう。」
1階の階段のところで委員長が提案してきたとき叶はこれをチャンスだと思った。
(今角を曲がったからまだ監視の目は追い付いてない。)
「あの…お、トイレ…なので先に行きます!」
叶は宣言するのが恥ずかしくて言い切るや否や階段を駆け上がった。
そのまま会議室のある2階を通りすぎて階段半ばに身を潜める。
「無理に我慢させてしまいましたか。もっと気を配っていればよかったですね。」
階段を上ってきた委員長は叶には気付かず、自分の行動を反省するいい男だった。
(監視している人もすぐに追いかけてくるはず。ここで待っていて犯人を見つける。)
幸いにももう校内に残っている生徒は多くない。
上がってくる生徒が監視者である可能性が高い。
叶はじっと息を潜めて上がってくる人物を待つ。
1分、2分…3分経っても誰も上がってこない。
「あれ?」
2階に戻ってもやはり階下に人の姿はない。
「…失敗かな?」
いつまでも戻らないわけにはいかず叶は肩を落としながら会議室に向かう。
すると会議室の向こうから歩いてきた男子に声をかけられた。
「こんにちは、作倉さん。」
「え?…あ、黒原君。」
それは去年クラスが一緒だった黒原策だった。
「こんなところでどうかしたんですか?」
叶が首を傾げて尋ねると黒原は悲しそうな顔をした。
「…2年6組の保険委員だから。」
(そうだったんだ。)
保険委員として何度も委員会に参加してきたが全然気付いていなかったことは流石に言わないでおく。
「それで、このあと…」
「ああ、作倉さん、戻られましたか。資料ありがとうございました。」
黒原が何か言おうとしたところで話し声を聞き付けた委員長が部屋から出てきて遮られた。
叶は手に持っていた書類を渡して会議室に入る。
「黒原君も入らないとだめですよ。」
「う、うん、わかった。」
どこかおどおどした様子の黒原を不思議に思いながらも叶は特に尋ねることもなく席に戻る。
(結局監視してる人は捕まえられなかった、はぁ。)
それどころか監視者の姿も見ていない。
(やっぱりみんなに助けてもらえばよかったかな。)
視線は今も続いている。
悪意や敵意ではなく、しかし常に見つめられている不快感のある目。
その目はただじっと叶を見つめているだけだった。
「…。」
その監視者のさらに後ろ、こちらは監視していることを気付かせない本物もまた静かに叶を見つめていた。




